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「津軽」を読もう 最終回 [2009年06月18日(Thu)]
いよいよ「太宰治検定」まであと2日。

ブログ上での「津軽」も今回で最終回です。



きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気付いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
 さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽したようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。


「津軽」より抜粋
「津軽」を読もう 75 [2009年06月17日(Wed)]
いよいよ「太宰治検定」までのカウントダウンが近づいてきました。

ブログ上での「津軽」の抜粋もクライマックスの場面に近づいてきましたよ。



たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取って、歩きながらその枝の花をむしって地べたに投げ捨て、それから立ちどまって、勢いよく私のほうに向き直り、にわかに、堰を切ったみたいに能弁になった。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十年ちかく、たけはお前に会いたくて、会えるかな、会えないかな、とそればかり考えて暮していたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、愛ごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言うたびごとに、手にしている桜の小枝の花を夢中で、むしり取っては捨て、むしり取っては捨てている。
「子供は?」とうとうその小枝もへし折って捨て、両肘を張ってモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかって、ひとりだ、と答えた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
 次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのように強くて不遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。


「津軽」より抜粋
「津軽」を読もう 74 [2009年06月17日(Wed)]
いよいよ「太宰治検定」までのカウントダウンが近づいてきました。

ブログ上での「津軽」の抜粋もクライマックスの場面に近づいてきましたよ。



私も、いつまでも黙っていたら、しばらく経ってたけは、まっすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかった。でも、やはり黙っていた。
 たけは、ふと気がついたようにして、
「何か、たべないか。」と私に言った。
「要らない。」と答えた。本当に、何もたべたくなかった。
「餅があるよ。」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。
「いいんだ。食いたくないんだ。」
 たけは軽く首肯いてそれ以上すすめようともせず、「餅のほうでないんだものな。」と小声で言って微笑んだ。三十年ちかく互いに消息が無くても、私の酒飲みをちゃんと察しているようである。不思議なものだ。私がにやにやしていたら、たけは眉をひそめ、
「たばこも飲むのう。さっきから、立てつづけにふかしている。たけは、お前に本を読む事だば教えたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきゃのう。」と言った。油断大敵のれいである。私は笑いを収めた。
 私が真面目な顔になってしまったら、こんどは、たけのほうで笑い、立ち上って、
「竜神様の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘った。
「ああ、行こう。」


「津軽」より抜粋
「津軽」を読もう 73 [2009年06月16日(Tue)]
いよいよ「太宰治検定」までのカウントダウンが近づいてきました。

ブログ上での「津軽」の抜粋もクライマックスの場面に近づいてきましたよ。



また畦道をとおり、砂丘に出て、学校の裏へまわり、運動場のまんなかを横切って、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入違いに、たけが出て来た。たけは、うつろな目をして私を見た。
「修治だ。」私は笑って帽子をとった。
「あらあ。」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を。」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお座りになりせえ。」とたけの傍に座らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかった。世の中の母というものは、皆、その子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。そうだったら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまっている。そんな有難い母というものがありながら、病気になったり、なまけたりしているやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。


「津軽」より抜粋
「津軽」を読もう 72 [2009年06月15日(Mon)]
いよいよ「太宰治検定」までのカウントダウンが近づいてきました。

ブログ上での「津軽」の抜粋もクライマックスの場面に近づいてきましたよ。



 いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらい休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それじゃあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行って、ひと知れず今生のいとま乞いでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはずれている。そうして戸が二、三寸あいている。天のたすけ! と勇気百倍、グワラリという品の悪い形容でも使わなければ間に合わないほど勢い込んでガラス戸を押しあけ、
「ごめん下さい、ごめん下さい。」
「はい。」と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によって、たけの顔をはっきり思い出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄って行って、
「金木の津島です。」と名乗った。
 少女は、あ、と言って笑った。津島の子供を育てたという事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言って聞かせていたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなった。ありがたいものだと思った。私は、たけの子だ。女中の子だって何だってかまわない。私は大声で言える。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたっていい。私は、この少女ときょうだいだ。
「ああ、よかった。」私は思わずそう口走って、「たけは? まだ、運動会?」
「そう。」少女も私に対しては毫末の警戒も含羞もなく、落ちついて首肯き、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰ったの。」気の毒だが、その腹いたが、よかったのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまえたからには、もう安心。大丈夫たけに会える。もう何が何でもこの子に縋って、離れなけれやいいのだ。


「津軽」より抜粋
「津軽」を読もう 71 [2009年06月14日(Sun)]
いよいよ「太宰治検定」までのカウントダウンが近づいてきました。

ブログ上での「津軽」の抜粋もクライマックスの場面に近づいてきましたよ。



 私は更にまた別の小屋を覗いて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かに憑かれたみたいに、たけはいませんか、金物屋のたけはいませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまわったが、わからなかった。二日酔いの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行って水を飲み、それからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジャンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福そうな賑わいを、ぼんやり眺めた。この中に、いるのだ。たしかに、いるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせているのであろう。いっそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会」とでも叫んでもらおうかしら、とも思ったが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだった。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでっち上げるのはイヤだった。縁が無いのだ。神様が会うなとおっしゃっているのだ。帰ろう。私は、ジャンパーを着て立ち上った。


「津軽」より抜粋
「津軽」を読もう 70 [2009年06月13日(Sat)]
いよいよ「太宰治検定」までのカウントダウンが近づいてきました。

ブログ上での「津軽」の抜粋もクライマックスの場面に近づいてきましたよ。



「越野たけ、という人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いている人をつかまえ、すぐに聞いた。
「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなかろうかと思われるような中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野という苗字の家がたくさんあるので。」
「前に金木にいた事があるんです。そうして、いまは、五十くらいのひとなんです。」私は懸命である。
「ああ、わかりました。その人なら居ります。」
「いますか。どこにいます。家はどの辺です。」
 私は教えられたとおりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらいの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思って入口のガラス戸に走り寄ったら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかっているのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いずれも固くしまっている。留守だ。私は途方にくれて、汗を拭った。引越した、なんて事は無かろう。どこかへ、ちょっと外出したのか。いや、東京と違って、田舎ではちょっとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどという事は無い。二、三日あるいはもっと永い他出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得る事だ。家さえわかったら、もう大丈夫と思っていた僕は馬鹿であった。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さんと呼んでみたが、もとより返事のある筈は無かった。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向いの煙草屋にはいり、越野さんの家には誰もいないようですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行ったんだろう、と事もなげに答えた。


「津軽」より抜粋
「津軽」を読もう 69 [2009年06月13日(Sat)]
いよいよ「太宰治検定」までのカウントダウンが近づいてきました。

ブログ上での「津軽」の抜粋もクライマックスの場面に近づいてきましたよ。



日が暮れて、けいちゃんがやっとお家へ帰ったのと入違いに、先生(お医者さんの養子を、私たちは昔から固有名詞みたいに、そう呼んでいた)が病院を引上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を更かした。
 翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場に駈けつけ、やっと一番の汽車に間に合った。きょうもまた、よいお天気である。私の頭は朦朧としている。二日酔いの気味である。ハイカラ町の家には、こわい人もいないので、前夜、少し飲みすぎたのである。脂汗が、じっとりと額に涌いて出る。爽かな朝日が汽車の中に射込んで、私ひとりが濁って汚れて腐敗しているようで、どうにも、かなわない気持である。このような自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みという弱点のゆえに、私はとかく人から軽んぜられる。世の中に、酒というものさえなかったら、私は或いは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考えて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、蘆野公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で蘆野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の蘆野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう蘆野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、目を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当り前の事のように平然としている。少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待っていたように思われた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。


「津軽」より抜粋
「津軽」を読もう 68 [2009年06月12日(Fri)]
いよいよ「太宰治検定」までのカウントダウンが近づいてきました。

ブログ上での「津軽」の抜粋もクライマックスの場面に近づいてきましたよ。



私はたけのいる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温泉へでも行って一泊して、そうして、それから最後に小泊へ行こうと思っていたのだが、東京からわずかしか持って来ない私の旅費も、そろそろ心細くなっていたし、それに、さすがに旅の疲れも出て来たのか、これからまたあちこち回って歩くのも大儀になって来て、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、いよいよ東京へ帰る時に途中でちょっと立寄ろうという具合に予定を変更して、きょうは五所川原の叔母の家に一泊させてもらって、あす、五所川原からまっすぐに、小泊へ行ってしまおうと思い立ったのである。けいちゃんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行ってみると、叔母は不在であった。叔母のお孫さんが病気で弘前の病院に入院しているので、それの付添に行っているというのである。
「あなたが、こっちへ来ているという事を、母はもう知って、ぜひ会いたいから弘前へ寄こしてくれって電話がありましたよ。」と従姉が笑いながら言った。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとって家を嗣がせているのである。
「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちょっと立ち寄ろうと思っていますから、病院にもきっと行きます。」
「あすは小泊の、たけに会いに行くんだそうです。」けいちゃんは、何かとご自分の支度でいそがしいだろうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでいる。
「たけに。」従姉は、真面目な顔になり、「それは、いい事です。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません。」従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕っていたか知っているようであった。


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「津軽」を読もう 67 [2009年06月10日(Wed)]
いよいよ「太宰治検定」までのカウントダウンが近づいてきました。

ブログ上での「津軽」の抜粋もクライマックスの場面に近づいてきましたよ。



 私の母は病身だったので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになってふらふら立って歩けるようになった頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとわれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。そうして、或る朝、ふと目をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はっと思った。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけいない、たけいない、と断腸の思いで泣いて、それから、二、三日、私はしゃくり上げてばかりいた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはいない。それから、一年ほど経って、ひょっくりたけと会ったが、たけは、へんによそよそしくしているので、私にはひどく怨めしかった。それっきり、たけと会っていない。四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を依頼されて、その時、あの「思い出」の中のたけの箇所を朗読した。故郷といえば、たけを思い出すのである。たけは、あの時の私の朗読放送を聞かなかったのであろう。何のたよりも無かった。そのまま今日に到っているのであるが、こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ会いたいと切に念願をしていたのだ。


「津軽」より抜粋
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