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「思い出」を読もう41 [2009年10月14日(Wed)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  正月がすぎて、冬やすみも終りに近づいた頃、私は弟とふたりで、文庫蔵へはいってさまざまな蔵書や軸物を見てあそんでいた。高いあかり窓から雪の降っているのがちらちら見えた。父の代から長兄の代にうつると、うちの部屋部屋の飾りつけから、こういう蔵書や軸物の類まで、ひたひたと変って行くのを、私は帰郷の度毎に、興深く眺めていた。私は長兄がちかごろあたらしく求めたらしい一本の軸物をひろげて見ていた。山吹が水に散っている絵であった。弟は私の傍へ、大きな写真箱を持ち出して来て、何百枚もの写真を、冷くなる指先へときどき白い息を吐きかけながら、せっせと見ていた。しばらくして、弟は私の方へ、まだ台紙の新しい手札型の写真をいちまいのべて寄こした。見ると、みよが最近私の母の供をして、叔母の家へでも行ったらしく、そのとき、叔母と三人してうつした写真のようであった。母がひとり低いソファに座って、そのうしろに叔母とみよが同じ背たけぐらいで並んで立っていた。背景は薔薇の咲き乱れた花園であった。私たちは、お互いの頭をよせつつ、なお鳥渡の間その写真に眼をそそいだ。私は、こころの中でとっくに弟と和解をしていたのだし、みよのあのことも、ぐずぐずして弟にはまだ知らせてなかったし、わりにおちつきを装うてその写真を眺めることが出来たのである。みよは、動いたらしく顔から胸にかけての輪廓がぼっとしていた。叔母は両手を帯の上に組んでまぶしそうにしていた。私は、似ていると思った。





「思い出」いかがだったでしょうか?


【ちょっと解説】

「少しずつ、どうやら阿呆から眼ざめていた。遺書を綴った。『思い出』百枚である」(「東京百景」)として書かれた。その後「どうせ、ここまで書いたのだ。全部を書いて置きたい」(同)として、十余編を加えて第一作品集「晩年」が成立した。  (第三書館「ザ・太宰治」より引用)

「思い出」を発表した直後、師事していた井伏鱒二に「甲上」(当時の通知表で最高評価)とされ、太宰は大喜びして吹聴した。 (同)
「思い出」を読もう40 [2009年10月12日(Mon)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  そのとしの冬やすみは、中学生としての最後の休暇であったのである。帰郷の日のちかくなるにつれて、私と弟とは幾分の気まずさをお互いに感じていた。
 いよいよ共にふるさとの家へ帰って来て、私たちは先ず台所の石の炉ばたに向いあってあぐらをかいて、それからきょろきょろとうちの中を見わたしたのである。みよがいないのだ。私たちは二度も三度も不安な瞳をぶっつけ合った。その日、夕飯をすませてから、私たちは次兄に誘われて彼の部屋へ行き、三人して火燵にはいりながらトランプをして遊んだ。私にはトランプのどの札もただまっくろに見えていた。話の何かいいついでがあったから、思い切って次兄に尋ねた。女中がひとり足りなくなったようだが、と手に持っている五六枚のトランプで顔を被うようにしつつ、余念なさそうな口調で言った。もし次兄が突っこんで来たら、さいわい弟も居合せていることだし、はっきり言ってしまおうと心をきめていた。
 次兄は、自分の手の札を首かしげかしげしてあれこれと出し迷いながら、みよか、みよは婆様と喧嘩して里さ戻った、あれは意地っぱりだぜえ、と呟いて、ひらっと一枚捨てた。私も一枚投げた。弟も黙って一枚捨てた。
 それから四五日して、私は鶏舎の番小屋を訪れ、そこの番人である小説の好きな青年から、もっとくわしい話を聞いた。みよは、ある下男にたったいちどよごされたのを、ほかの女中たちに知られて、私のうちにいたたまらなくなったのだ。男は、他にもいろいろ悪いことをしたので、そのときは既に私のうちから出されていた。それにしても、青年はすこし言い過ぎた。みよは、やめせ、やめせ、とあとで囁いた、とその男の手柄話まで添えて。
「思い出」を読もう39 [2009年10月09日(Fri)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  私は背が高かったから、踏台なしに、ぱちんぱちんと植木鋏で葡萄のふさを摘んだ。そして、いちいちそれをみよへ手渡した。みよはその一房一房の朝露を白いエプロンで手早く拭きとって、下の籠にいれた。私たちはひとことも語らなかった。永い時間のように思われた。そのうちに私はだんだん怒りっぽくなった。葡萄がやっと籠いっぱいになろうとするころ、みよは、私の渡す一房へ差し伸べて寄こした片手を、ぴくっとひっこめた。私は、葡萄をみよの方へおしつけ、おい、と呼んで舌打した。
 みよは、右手の付根を左手できゅっと握っていきんでいた。刺されたべ、と聞くと、ああ、とまぶしそうに眼を細めた。ばか、と私は叱って了った。みよは黙って、笑っていた。これ以上私はそこにいたたまらなかった。くすりつけてやる、と言ってそのかこいから飛び出した。すぐ母屋へつれて帰って、私はアンモニアの瓶を帳場の薬棚から捜してやった。その紫の硝子瓶を、出来るだけ乱暴にみよへ手渡したきりで、自分で塗ってやろうとはしなかった。
 その日の午後に、私は、近ごろまちから新しく通い出した灰色の幌のかかってあるそまつな乗合自動車にゆすぶられながら、故郷を去った。うちの人たちは馬車で行け、と言ったのだが、定紋のついて黒くてかてか光ったうちの箱馬車は、殿様くさくて私にはいやだったのである。私は、みよとふたりして摘みとった一籠の葡萄を膝の上にのせて、落葉のしきつめた田舎道を意味ぶかく眺めた。私は満足していた。あれだけの思い出でもみよに植えつけてやったのは私として精いっぱいのことである、と思った。みよはもう私のものにきまった、と安心した。
「思い出」を読もう38 [2009年10月08日(Thu)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  その夜、二階の一間に寝てから、私は非常に淋しいことを考えた。凡俗という観念に苦しめられたのである。みよのことが起ってからは、私もとうとう莫迦になって了ったのではないか。女を思うなど、誰にでもできることである。しかし、私のはちがう、ひとくちには言えぬがちがう。私の場合は、あらゆる意味で下等でない。しかし、女を思うほどの者は誰でもそう考えているのではないか。しかし、と私は自身のたばこの煙にむせびながら強情を張った。私の場合には思想がある!
 私はその夜、みよと結婚するに就いて、必ずさけられないうちの人たちとの論争を思い、寒いほどの勇気を得た。私のすべての行為は凡俗でない、やはり私はこの世のかなりな単位にちがいないのだ、と確信した。それでもひどく淋しかった。淋しさが、どこから来るのか判らなかった。どうしても寝つかれないので、あのあんまをした。みよの事をすっかり頭から抜いてした。みよをよごす気にはなれなかったのである。
 朝、眼をさますと、秋空がたかく澄んでいた。私は早くから起きて、むかいの畑へ葡萄を取りに出かけた。みよに大きい竹籠を持たせてついて来させた。私はできるだけ気軽なふうでみよにそう言いつけたのだから、誰にも怪しまれなかったのである。葡萄棚は畑の東南の隅にあって、十坪ぐらいの大きさにひろがっていた。葡萄の熟すころになると、よしずで四方をきちんと囲った。私たちは片すみの小さい潜戸をあけて、かこいの中へはいった。なかは、ほっかりと暖かった。二三匹の黄色いあしながばちが、ぶんぶん言って飛んでいた。朝日が、屋根の葡萄の葉と、まわりのよしずを透して明るくさしていて、みよの姿もうすみどりいろに見えた。ここへ来る途中には、私もあれこれと計画して、悪党らしく口まげて微笑んだりしたのであったが、こうしてたった二人きりになって見ると、あまりの気づまりから殆ど不気嫌になって了った。私はその板の潜戸をさえわざとあけたままにしていたものだ。


【ちょっと解説】

・向かいの畑−現在の三味線会館前の駐車場のいっかくに「葡萄畑跡」の看板があったと思うのですが、定かではありません。どなたかご存知ですか?
「思い出」を読もう37 [2009年10月07日(Wed)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  恥しい思い出に襲われるときにはそれを振りはらうために、ひとりして、さて、と呟く癖が私にあった。簡単なのだ、簡単なのだ、と囁いて、あちこちをうろうろしていた自身の姿を想像して私は、湯を掌で掬ってはこぼし掬ってはこぼししながら、さて、さて、と何回も言った。
 あくる日、その教師が私たちにあやまって、結局ストライキは起らなかったし、友人たちともわけなく仲直り出来たけれど、この災難は私を暗くした。みよのことなどしきりに思い出された。ついには、みよと会わねば自分がこのまま堕落してしまいそうにも、考えられたのである。
 ちょうど母も姉も湯治からかえることになって、その出立の日が、あたかも土曜日であったから、私は母たちを送って行くという名目で、故郷へ戻ることが出来た。友人たちには秘密にしてこっそり出掛けたのである。弟にも帰郷のほんとのわけは言わずに置いた。言わなくても判っているのだと思っていた。
 みんなでその温泉場を引きあげ、私たちの世話になっている呉服商へひとまず落ちつき、それから母と姉と三人で故郷へ向った。列車がプラットフオムを離れるとき、見送りに来ていた弟が、列車の窓から青い富士額を覗かせて、がんばれ、とひとこと言った。私はそれをうっかり素直に受けいれて、よしよし、と気嫌よくうなずいた。
 馬車が隣村を過ぎて、次第にうちへ近づいて来ると、私はまったく落ちつかなかった。日が暮れて、空も山もまっくらだった。稲田が秋風に吹かれてさらさらと動く声に、耳傾けては胸を轟かせた。絶えまなく窓のそとの闇に眼をくばって、道ばたのすすきのむれが白くぽっかり鼻先に浮ぶと、のけぞるくらいびっくりした。
 玄関のほの暗い軒灯の下でうちの人たちがうようよ出迎えていた。馬車がとまったとき、みよもばたばた走って玄関から出て来た。寒そうに肩を丸くすぼめていた。
「思い出」を読もう36 [2009年10月04日(Sun)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  そのうちにとうとう夏やすみも終りになって、私は弟や友人たちとともに故郷を立ち去らなければいけなくなった。せめて此のつぎの休暇まで私を忘れさせないで置くような何か鳥渡した思い出だけでも、みよの心に植えつけたいと念じたが、それも駄目であった。
 出発の日が来て、私たちはうちの黒い箱馬車へ乗り込んだ。うちの人たちと並んで玄関先へ、みよも見送りに立っていた。みよは、私の方も弟の方も、見なかった。はずした萌黄のたすきを珠数のように両手でつまぐりながら下ばかりを向いていた。いよいよ馬車が動き出してもそうしていた。私はおおきい心残りを感じて故郷を離れたのである。
 秋になって、私はその都会から汽車で三十分ぐらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治していたのだ。私はずっとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはいって見せなければならなかったのである。私の学校ぎらいはその頃になって、いっそうひどかったのであるが、何かに追われている私は、それでも一途に勉強していた。私はそこから汽車で学校へかよった、日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私たちは、もう、みよの事を忘れたようにしていた。私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟に教えてもらって、声をそろえて歌った。遊びつかれてその岩の上で眠って、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだった筈のその岩が、いつか離れ島になっているので、私たちはまだ夢から醒めないでいるような気がするのである。
 私はこの友人たちと一日でも会わなかったら淋しいのだ。そのころの事であるが、或る野分のあらい日に、私は学校で教師につよく両頬をなぐられた。それが偶然にも私の仁侠的な行為からそんな処罰を受けたのだから、私の友人たちは怒った。その日の放課後、四年生全部が博物教室へ集って、その教師の追放について協議したのである。ストライキ、ストライキ、と声高くさけぶ生徒もあった。私は狼狽した。もし私一個人のためを思ってストライキをするのだったら、よして呉れ、私はあの教師を憎んでいない、事件は簡単なのだ、簡単なのだ、と生徒たちに頼みまわった。友人たちは私を卑怯だとか勝手だとか言った。私は息苦しくなって、その教室から出て了った。温泉場の家へ帰って、私はすぐ湯にはいった。野分にたたかれて破れつくした二三枚の芭蕉の葉が、その庭の隅から湯槽のなかへ青い影を落していた。私は湯槽のふちに腰かけながら生きた気もせず思いに沈んだ。


【ちょっと解説】

・海岸の温泉地−青森市の東にある浅虫温泉

「思い出」を読もう35 [2009年10月01日(Thu)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  おなじころ、よくないことが続いて起った。ある日の昼食の際に、私は弟や友人たちといっしょに食卓へ向っていたが、その傍でみよが、紅い猿の面の絵団扇でぱさぱさと私たちをあおぎながら給仕していた。私はその団扇の風の量で、みよの心をこっそり計っていたものだ。みよは、私よりも弟の方を多くあおいだ。私は絶望して、カツレツの皿へぱちっとフオクを置いた。
 みんなして私をいじめるのだ、と思い込んだ。友人たちだってまえから知っていたに違いない、と無闇に人を疑った。もう、みよを忘れてやるからいい、と私はひとりできめていた。
 また二三日たって、ある朝のこと、私は、前夜ふかした煙草がまだ五六ぽん箱にはいって残っているのを枕元へ置き忘れたままで番小屋へ出掛け、あとで気がついてうろたえて部屋へ引返して見たが、部屋は綺麗に片づけられ箱がなかったのである。私は観念した。みよを呼んで、煙草はどうした、見つけられたろう、と叱るようにして聞いた。みよは真面目な顔をして首を振った。そしてすぐ、部屋のなげしの裏へ背のびして手をつっこんだ。金色の二つの蝙蝠が飛んでいる緑いろの小さな紙箱はそこから出た。
 私はこのことから勇気を百倍にもして取りもどし、まえからの決意にふたたび眼ざめたのである。しかし、弟のことを思うとやはり気がふさがって、みよのわけで友人たちと騒ぐことをも避けたし、そのほか弟には、なにかにつけていやしい遠慮をした。自分から進んでみよを誘惑することもひかえた。私はみよから打ち明けられるのを待つことにした。私はいくらでもその機会をみよに与えることができたのだ。私は屡々みよを部屋へ呼んで要らない用事を言いつけた。そして、みよが私の部屋へはいって来るときには、私はどこかしら油断のあるくつろいだ恰好をして見せたのである。みよの心を動かすために、私は顔にも気をくばった。その頃になって私の顔の吹出物もどうやら直っていたが、それでも惰性で、私はなにかと顔をこしらえていた。私はその蓋のおもてに蔦のような長くくねった蔓草がいっぱい彫り込まれてある美しい銀のコンパクトを持っていた。それでもって私のきめを時折うめていたのだけれど、それを尚すこし心をいれてしたのである。
 これからはもう、みよの決心しだいであると思った。しかし、機会はなかなか来なかったのである。番小屋で勉強している間も、ときどきそこから脱け出て、みよを見に母屋へ帰った。殆どあらっぽい程ばたんばたんとはき掃除しているみよの姿を、そっと眺めては唇をかんだ。
「思い出」を読もう34 [2009年09月30日(Wed)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  私たち三人はひるめしどきを楽しみにしていた。その番小屋へ、どの女中が、めしを知らせに来るかが問題であったのである。みよでない女中が来れば、私たちは卓をぱたぱた叩いたり舌打したりして大騒ぎをした。みよが来ると、みんなしんとなった。そして、みよが立ち去るといっせいに吹き出したものであった。或る晴れた日、弟も私たちと一緒にそこで勉強をしていたが、ひるになって、きょうは誰が来るだろう、といつものように皆で語り合った。弟だけは話からはずれて、窓ぎわをぶらぶら歩きながら英語の単語を暗記していた。私たちは色んな冗談を言って、書物を投げつけ合ったり足踏して床を鳴らしていたが、そのうちに私は少しふざけ過ぎて了った。私は弟をも仲間にいれたく思って、お前はさっきから黙っているが、さては、と唇を軽くかんで弟をにらんでやったのである。すると弟は、いや、と短く叫んで右手を大きく振った。持っていた単語のカアドが二三枚ぱっと飛び散った。私はびっくりして視線をかえた。そのとっさの間に私は気まずい断定を下した。みよの事はきょう限りよそうと思った。それからすぐ、なにごともなかったように笑い崩れた。
 その日めしを知らせに来たのは、仕合せと、みよでなかった。母屋へ通る豆畑のあいだの狭い道を、てんてんと一列につらなって歩いて行く皆のうしろへついて、私は陽気にはしゃぎながら豆の丸い葉を幾枚も幾枚もむしりとった。
 犠牲などということは始めから考えてなかった。ただいやだったのだ。ライラックの白い茂みが泥を浴びせられた。殊にその悪戯者が肉親であるのがいっそういやであった。
 それからの二三日は、さまざまに思いなやんだ。みよだって庭を歩くことがあるでないか。彼は私の握手にほとんど当惑した。要するに私はめでたいのではないだろうか。私にとって、めでたいという事ほどひどい恥辱はなかったのである。
「思い出」を読もう33 [2009年09月29日(Tue)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



  私は此のことをまず弟へ打ち明けた。晩に寝てから打ち明けた。私は厳粛な態度で話すつもりであったが、そう意識してこしらえた姿勢が逆に邪魔をして来て、結局うわついた。私は、頸筋をさすったり両手をもみ合せたりして、気品のない話かたをした。そうしなければかなわぬ私の習性を私は悲しく思った。弟は、うすい下唇をちろちろ舐めながら、寝がえりもせず聞いていたが、けっこんするのか、と言いにくそうにして尋ねた。私はなぜだかぎょっとした。できるかどうか、とわざとしおれて答えた。弟は、恐らくできないのではないかという意味のことを案外なおとなびた口調でまわりくどく言った。それを聞いて、私は自分のほんとうの態度をはっきり見つけた。私はむっとして、たけりたけったのである。蒲団から半身を出して、だからたたかうのだ、たたかうのだ、と声をひそめて強く言い張った。弟は更紗染めの蒲団の下でからだをくねくねさせて何か言おうとしているらしかったが、私の方を盗むようにして見て、そっと微笑んだ。私も笑い出した。そして、門出だから、と言いつつ弟の方へ手を差し出した。弟も恥しそうに蒲団から右手を出した。私は低く声を立てて笑いながら、二三度弟の力ない指をゆすぶった。
 しかし、友人たちに私の決意を承認させるときには、こんな苦心をしなくてよかった。友人たちは私の話を聞きながら、あれこれと思案をめぐらしているような恰好をして見せたが、それは、私の話がすんでからそれへの同意に効果を添えようためのものでしかないのを、私は知っていた。じじつその通りだったのである。
 四年生のときの夏やすみには、私はこの友人たちふたりをつれて故郷へ帰った。うわべは、三人で高等学校への受験勉強を始めるためであったが、みよを見せたい心も私にあって、むりやりに友をつれて来たのである。私は、私の友がうちの人たちに不評判でないように祈った。私の兄たちの友人は、みんな地方でも名のある家庭の青年ばかりだったから、私の友のように金釦のふたつしかない上着などを着てはいなかったのである。
 裏の空屋敷には、そのじぶん大きな鶏舎が建てられていて、私たちはその傍の番小屋で午前中だけ勉強した。番小屋の外側は白と緑のペンキでいろどられて、なかば二坪ほどの板の間で、まだ新しいワニス塗の卓子や椅子がきちんとならべられていた。ひろい扉が東側と北側に二つもついていたし、南側にも洋ふうの開窓があって、それを皆いっぱいに明け放すと風がどんどんはいって来て書物のペエジがいつもぱらぱらとそよいでいるのだ。まわりには雑草がむかしのままに生えしげっていて、黄いろい雛が何十羽となくその草の間に見えかくれしつつ遊んでいた。
「思い出」読もう32 [2009年09月26日(Sat)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。

全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)



        三章

 四年生になってから、私の部屋へは毎日のようにふたりの生徒が遊びに来た。私は葡萄酒と鯣をふるまった。そうして彼等に多くの出鱈目を教えたのである。炭のおこしかたに就いて一冊の書物が出ているとか、「けだものの機械」という或る新進作家の著書に私がべたべたと機械油を塗って置いて、こうして発売されているのだが、珍らしい装幀でないかとか、「美貌の友」という翻訳本のところどころカットされて、そのブランクになっている箇所へ、私のこしらえたひどい文章を、知っている印刷屋へ秘密にたのんで刷りいれてもらって、これは奇書だとか、そんなことを言って友人たちを驚かせたものであった。
 みよの思い出も次第にうすれていたし、そのうえに私は、ひとつうちに居る者どうしが思ったり思われたりすることを変にうしろめたく感じていたし、ふだんから女の悪口ばかり言って来ている手前もあったし、みよに就いて例えほのかにでも心を乱したのが腹立しく思われるときさえあったほどで、弟にはもちろん、これらの友人たちにもみよの事だけは言わずに置いたのである。
 ところが、そのあたり私は、ある露西亜の作家の名だかい長編小説を読んで、また考え直して了った。それは、ひとりの女囚人の経歴から書き出されていたが、その女のいけなくなる第一歩は、彼女の主人の甥にあたる貴族の大学生に誘惑されたことからはじまっていた。私はその小説のもっと大きなあじわいを忘れて、そのふたりが咲き乱れたライラックの花の下で最初の接吻を交したペエジに私の枯葉の枝折をはさんでおいたのだ。私もまた、すぐれた小説をよそごとのようにして読むことができなかったのである。私には、そのふたりがみよと私とに似ているような気分がしてならなかった。私がいま少しすべてにあつかましかったら、いよいよ此の貴族とそっくりになれるのだ、と思った。そう思うと私の臆病さがはかなく感じられもするのである。こんな気のせせこましさが私の過去をあまりに平坦にしてしまったのだと考えた。私自身で人生のかがやかしい受難者になりたく思われたのである。



【ちょっと解説】

・名だかい長編小説−トルストイの「復活」
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