「思い出」を読もう41
[2009年10月14日(Wed)]
来年の「太宰治検定」とは直接関係ないかも知れませんが、小説「津軽」をより深く理解していただくためにも、この作品は一度は読んでおきたい作品です。
全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)
正月がすぎて、冬やすみも終りに近づいた頃、私は弟とふたりで、文庫蔵へはいってさまざまな蔵書や軸物を見てあそんでいた。高いあかり窓から雪の降っているのがちらちら見えた。父の代から長兄の代にうつると、うちの部屋部屋の飾りつけから、こういう蔵書や軸物の類まで、ひたひたと変って行くのを、私は帰郷の度毎に、興深く眺めていた。私は長兄がちかごろあたらしく求めたらしい一本の軸物をひろげて見ていた。山吹が水に散っている絵であった。弟は私の傍へ、大きな写真箱を持ち出して来て、何百枚もの写真を、冷くなる指先へときどき白い息を吐きかけながら、せっせと見ていた。しばらくして、弟は私の方へ、まだ台紙の新しい手札型の写真をいちまいのべて寄こした。見ると、みよが最近私の母の供をして、叔母の家へでも行ったらしく、そのとき、叔母と三人してうつした写真のようであった。母がひとり低いソファに座って、そのうしろに叔母とみよが同じ背たけぐらいで並んで立っていた。背景は薔薇の咲き乱れた花園であった。私たちは、お互いの頭をよせつつ、なお鳥渡の間その写真に眼をそそいだ。私は、こころの中でとっくに弟と和解をしていたのだし、みよのあのことも、ぐずぐずして弟にはまだ知らせてなかったし、わりにおちつきを装うてその写真を眺めることが出来たのである。みよは、動いたらしく顔から胸にかけての輪廓がぼっとしていた。叔母は両手を帯の上に組んでまぶしそうにしていた。私は、似ていると思った。
「思い出」いかがだったでしょうか?
【ちょっと解説】
「少しずつ、どうやら阿呆から眼ざめていた。遺書を綴った。『思い出』百枚である」(「東京百景」)として書かれた。その後「どうせ、ここまで書いたのだ。全部を書いて置きたい」(同)として、十余編を加えて第一作品集「晩年」が成立した。 (第三書館「ザ・太宰治」より引用)
「思い出」を発表した直後、師事していた井伏鱒二に「甲上」(当時の通知表で最高評価)とされ、太宰は大喜びして吹聴した。 (同)
全文を少しずつ掲載していきます。できれば「太宰治検定ブログ」らしく、少し解説も加えていきたいと思います。(解説の多くはCD-ROM「太宰治全作品集」渡部芳紀先生監修〈マイクロテクノロジー社〉を参考にしています。)
正月がすぎて、冬やすみも終りに近づいた頃、私は弟とふたりで、文庫蔵へはいってさまざまな蔵書や軸物を見てあそんでいた。高いあかり窓から雪の降っているのがちらちら見えた。父の代から長兄の代にうつると、うちの部屋部屋の飾りつけから、こういう蔵書や軸物の類まで、ひたひたと変って行くのを、私は帰郷の度毎に、興深く眺めていた。私は長兄がちかごろあたらしく求めたらしい一本の軸物をひろげて見ていた。山吹が水に散っている絵であった。弟は私の傍へ、大きな写真箱を持ち出して来て、何百枚もの写真を、冷くなる指先へときどき白い息を吐きかけながら、せっせと見ていた。しばらくして、弟は私の方へ、まだ台紙の新しい手札型の写真をいちまいのべて寄こした。見ると、みよが最近私の母の供をして、叔母の家へでも行ったらしく、そのとき、叔母と三人してうつした写真のようであった。母がひとり低いソファに座って、そのうしろに叔母とみよが同じ背たけぐらいで並んで立っていた。背景は薔薇の咲き乱れた花園であった。私たちは、お互いの頭をよせつつ、なお鳥渡の間その写真に眼をそそいだ。私は、こころの中でとっくに弟と和解をしていたのだし、みよのあのことも、ぐずぐずして弟にはまだ知らせてなかったし、わりにおちつきを装うてその写真を眺めることが出来たのである。みよは、動いたらしく顔から胸にかけての輪廓がぼっとしていた。叔母は両手を帯の上に組んでまぶしそうにしていた。私は、似ていると思った。
「思い出」いかがだったでしょうか?
【ちょっと解説】
「少しずつ、どうやら阿呆から眼ざめていた。遺書を綴った。『思い出』百枚である」(「東京百景」)として書かれた。その後「どうせ、ここまで書いたのだ。全部を書いて置きたい」(同)として、十余編を加えて第一作品集「晩年」が成立した。 (第三書館「ザ・太宰治」より引用)
「思い出」を発表した直後、師事していた井伏鱒二に「甲上」(当時の通知表で最高評価)とされ、太宰は大喜びして吹聴した。 (同)