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第112話 琵琶湖一周を140円で回れるが、途中下車が出来ない![2008年12月25日(Thu)]


 12月13日の朝日新聞夕刊「ぷらっと沿線紀行・第78回」で、「JRで琵琶湖一周」が掲載されていました。見出しの「ぐるり一周140円の旅なり」には、「JR東海道線の大津駅から琵琶湖一周約170`の旅に出た。東隣の駅までの切符を買う。旅費はこの140円だけだ。まず西隣の山科駅に向かい、湖西線に乗り換える。琵琶湖西岸を北上した後、北陸線と東海道線を通って東岸を南下し、逆方向から膳所駅を目指す。JRが定めた大都市近郊区間内では、途中下車や引き返しをしなければ目的地までの経路は自由。その特例を利用して、こんな大回りの旅ができる」と紹介されています。

 その半月前にこの記事と同じように琵琶湖一周して晩秋の湖西・湖北の紅葉を満喫してきましたが、大都市近郊区間のために65歳以上の男性が活用しているジパング倶楽部で途中下車しながら旅をしたい場合は工夫がいります。

 今回の旅では大阪から湖西線の比良で一泊し、翌日は近江舞子で途中下車して時間調整したあと、近江塩津で下車。近江塩津からは、レンタサイクル(1日500円、北びわこの指定場所での乗り捨て料金300円)で湖北の塩津海道の町並みを見ながら、湖岸沿いを走って賤ケ岳リフトから余呉湖を一周しました。
 北陸線余呉湖駅の指定乗り捨て場所に自転車を返し、北陸線余呉湖駅から東海道線を経由して琵琶湖一周をしてきました。

 ジパング倶楽部を利用して途中下車できる工夫と湖西・湖北の様子をまとめてみました。


 湖西線の大都市近郊区間

 琵琶湖のまわりは、西側を湖西線、その北を北陸線、東側は東海道線が走っています。琵琶湖周辺には風光明媚な観光地がたくさんあり、1泊して途中下車をする場合、そのつど乗車
 大阪から琵琶湖一周にJRのジパング倶楽部を使えば201キロ以上となり3割引の運賃で途中下車をしたい場合は、大都市近郊区間のため途中下車ができません。

 ネットで大都市近郊区間内のみを利用する場合の特例によると、「図−1の大阪近郊区間内のみを普通乗車券または回数乗車券でご利用になる場合は、実際にご乗車になる経路にかかわらず、最も安くなる経路で計算した運賃で乗車することができます。重複しない限り乗車経路は自由に選べますが、途中下車はできません。途中で下車される場合は、実際に乗車された区間の運賃と比較して不足している場合はその差額をいただきます」となっています。




 湖西線をみると、山科以遠(京都以遠)の各駅と、近江塩津以遠(新疋田方面)の各駅との運賃・料金は、米原経由の場合でも、湖西線経由の営業キロによって計算します。(米原経由より19.5キロ短くなります。

 JR西日本へ問い合わせた結果、湖西線から北陸線へ1駅入った新疋田まで買えば、ジパング倶楽部を利用して4日間有効で途中下車もできる乗車券を買うことができました。
ジパング倶楽部を利用して新大阪から琵琶湖一周をした場合、3,080円で旅ができました。




写真1 ジパング倶楽部で購入した往復乗車券


雄松崎の白汀(はくてい)

 湖西線は京都に近い堅田や近江舞子、近江今津までは比較的便数はありますが、近江今津から北へ向かう場合、本数がぐんと減ります。

 今回の旅では、比良で宿泊して翌朝9時に駅で電車の便を確認し、一つ北寄りの近江舞子駅まで普通電車で行き、1時間に1本しかない10時16分の新快速・敦賀行きを利用しました。

 近江舞子での約1時間は、すぐ近くの湖岸を散策しました。

 日本の学生歌のひとつ、「琵琶湖周航の歌」の2番の歌詞(小口太郎の作詞)に「松は緑に 砂白き 雄松(おまつ)が里の 乙女子は 赤い椿の 森陰に はかない恋に 泣くとかや」と歌っています。
その「雄松が里」は、近江舞子の駅から10分ほど歩いた舞子浜の湖岸で、白砂青松が3キロ続く風光明媚なところです。夏はこの砂浜でマリンスポーツを楽しむ人たちでにぎわいますが、晩秋の今は訪れる人は見られませんでした。




写真2上段:近江舞子観光案内図

中段:琵琶湖八景のひとつ、雄松崎の白汀

 
 下段:近江舞子沼東から比良の山々を望む


  写真2中段のあたりから先が「涼風・雄松崎の白汀」で、琵琶湖八景のひとつになっています。
 写真2上段は近江舞子駅を出たところの案内図ですが、すぐ側に1周しても30分くらいで歩けそうな近江舞子沼が眼に入ります。松林を抜けて沼の東端から見る比良の山並みと、青空にわき立つ雲、それを水面に映した眺めは絶景でした(写真2下段)。


近江塩津駅舎内でちょっと一服して、ちょっと一福をもらう!

 近江舞子を10時16分に乗ると、11時01分に近江塩津に着き、向かいのホームには北陸線・米原経由姫路行きが4分待ちで連絡していました。この電車に乗れば余呉湖へ直ぐに行けるのですが、迷った挙句近江塩津駅で下車しました。
 
 改札口を出た右側で腰掛けてお茶を飲んでいる数人が眼に入り、ちょっと一服で立ち寄ってみました。座ってカウンターを見ると、写真3上段の「おにぎり 2ケ120円」が目にとまりました。




写真3 近江塩津駅舎内の「お食事処ちょっと一福」


 コンビニのおにぎりが百円以上するのに、2個120円とは半額の値段でこれは安い、と昼食には未だ早い時間でしたが、注文しました。
 
 都会で食べるファースト・フードのようなスピード感はありませんが、お盆にはおにぎりのほかに、お漬物と柿が2切れとお茶がセットに出てきました。
 田舎の駅舎の中で、おもてなしのこもった120円のおにぎりに、思わずカメラ(写真3下段)に収めた次第です。駅舎の一角に入ってちょっと一服したお陰で、ちょっとだけ(一つ)福を貰った気になりました。

 上記の新聞記事の続きに近江塩津駅に関して「新快速の乗り入れで駅の利用客は6割増えたが、辺りは閑散としている。『町の玄関口なのに何もないなんて』。同じ集落に住む沢田清美さん(55)、増谷淑子さん(52)と話し合い、駅に店が出せないか町に相談。熱意が伝わり、駅舎の一角を提供してもらえることになった。『お食事処ちょっと一福』が開店したのは今年7月。利益は出ていないが、3人は『おもてなしの気持ちで始めたのだから』と明るい」と伝えています。

 仲間のOさんは、記事の中の沢田さんと増谷さんのおもてなしに感激して記念写真を撮り、後ほど送ってあげたそうです。


塩津海道

 「北近江総合情報サイト」の塩津街道によると、「塩津海道は、日本海の敦賀から、深坂、沓掛を経て、びわ湖の湖上交通の要衝だった塩津浜に至る道です。
 
 平安時代から江戸時代まで、この街道を運ばれた北陸からの物資は、塩津浜から丸子船でびわ湖を縦断し大津へ、そして、京・大阪へと運搬されました。その主な荷物は米、青菜、紅花、たばこ、にしん、ぶり、昆布、わかめ、干鰯、鉄、鉛、銅などで、帰りの船には、陶磁器、綿、呉服、太物、茶、みかんなどが積まれました。

 最盛期の寛永年間(1624〜1644)には、30万石もの米が塩津浜を通ったといいます。また、街道には馬や大八車が盛んに往来し、『上り千頭、下り千頭』と言われるほどのにぎわいでした。

 このように、塩津街道は、日本海地方と畿内を結ぶ大動脈だったのです。『塩津』という名前は、塩のない近江に塩が入って来る港、ということからつけられたと言われています。いまの町並みにも、廻船問屋、造り酒屋、旅籠だった建物や常夜灯が残り、宿場町の雰囲気を伝えています」と紹介しています。




写真4上段:塩津海道の町並み

中段:賤ケ岳リフトへの道から湖岸を望む

下段:賤ケ岳リフトへの道から湖岸を望む


 塩津街道沿いは昔の面影を残した町並みですが、ひっそりとしていてかつてのにぎわいは全く見られませんでした。

 国道8号は、『水の駅・丸子船ロマン市』から東へ藤ケ崎トンネルに入りますが、トンネルを通らず旧8号線は奥琵琶湖の湖岸沿いなので、車両も少なく湖や山並みを眺めながら軽快にペダルをこぐことができました。その先に賤ケ岳トンネルもありましたが、賤ケ岳リフトの道を利用しました。リフトは2日前に冬季間の休業で利用することができませんでしたが、この登り坂から見る湖岸は、緑と黄葉の入り混じった素晴らしい眺め(写真4中段、下段)でした。


 余呉湖の話題や前日比良の湖岸で検分した琵琶湖の漁法などの話題は別の機会にまとめたいと思っています。


(平成20年12月25日)


第109話 粟島見聞録(その3)[2008年11月27日(Thu)]


バジルの名前 続き

 上記「ハーブ&スパイス」には、「その名バジルはギリシャ語で『王者の』を意味する語に由来する。古代ギリシャでは,バジルの種子を蒔くときには、大声で呪いの言葉を唱えることになっていたので、それからフランス語で『バジルをまく』(semer le bajilic)という語句は『中傷する』を意味することになった」と書いていました。

 バジルは英語、フランス語で使われていますが、イタリア語ではバジリコです。

「インドの薬草 バジル」をインターネットで検索すると、

共通名:BASIL(バジル) SACRED BASIL(神聖なバジル)、 HOLY BASIL(神聖なバジル)、 TULSI(トゥルシー、ヒンドゥー語)が出ています。
ハビタ(棲息場所):「インドの至る所」

 インドでは至る所で植えられているバジルですから、松田さんがヒンドゥー語でトゥルシーといわれたのをツィイと聞き違えたのでしょう。


ブイブイガーデン近くの海岸を散策

 粟島は小さな島3つが潮流によって砂洲で結びあって出来た島ですから、海岸へは直ぐにいけます。



写真9上段:海岸から北東方向を望む

  
 中段:海岸から北西方向を望む

   下段:道沿いの桜並木


 ブイブイガーデンから5分ほど歩くと海岸に出ました。写真7上段は北東方向に向かってシャッターを切りました。辺の塩飽諸島をYAHOO!地図で調べてみました(地図2参照)。



地図2 粟島周辺の島々


 写真7上段に見える島影は高見島のようです。この島は多度津町に属する有人島(面積2.33平方km、周囲6.4km)です。

 写真7下段は海岸沿いを歩いて10分ほど歩いた桜並木です。桜の季節にはこの桜並木道は絶好の花見場所になるそうです。
その桜並木の木陰から見える海の景色(写真7中段)を写しました。遠くに見える島は、佐柳島(さなぎしま:多度津町の有人島、面積1.83平方km、周囲6.6km)です。

 地図2には粟島と佐柳島の間に小さな島、先に「海賊が出没した島」で書いた二面島が浮かんでいます。

 粟島は昭和30年代初期まで粟島西浜で阿島山から良質の土が産出されたこともあって瓦製造が盛んでした。隣の島から船で西浜へ通ってきて島の人口は4千人もいたといいます。「粟島瓦」は硬く、積雪に強いため、中国地方の山間部での需要が高かったそうです。
 今回は見学することが出来ませんでしたが、西浜には西日本では最古の達磨窯(市文化財)が現存しています。


島四国88ヶ所

 四国には讃岐国に生まれた弘法大師(空海)のゆかりの地を巡る四国88ヶ所が有名ですが、粟島にも島四国88ヶ所があります。

 先に触れた「詫間町歴史散歩」の中の北前船(三)には、「旧暦の3月21日には粟島の島四国88ケ所巡りのお遍路さんで早朝から渡海船はピストン輸送し、島にはさわやかな鈴の音が鳴り響いて一日中にぎわいます。今年はちょうど日曜日の5月8日でしたので勤め人や学生も参加が出来非常な人出でした。

 このミニ四国88ケ所は今から150年前の文政10年(1827)に粟島の持船が88隻あったのを記念して堺屋治右衛門が世話人となって、船1隻持っている人に1つの石仏を寄進させて島に散らばらせたものであります。1番が梵音寺境内にあり、それから時計の針の回わるように島を一周します。1船1基でありますので、1人が船を6隻も持っている人は6つも石仏を寄進しますが、1隻しか持っていない人は多くしたくても1基しか寄進出来ません。
 また、船を持っていない人は寄進する資格がなかった訳です。建立した当時は、石仏だけが露に打たれて座っていましたが、後から近くの人が金を出し合って、6畳敷、8畳敷ほどのお堂を建てたところも20近くあります」と島四国88ヶ所を説明しています。




写真10上段:粟島の島四国巡礼(詫間町歴史散歩から)

 
 中段:下新田付近の海岸道路(平成20年10月21日撮影)

  
下段:新新田付近で見かけた石仏(平成20年10月21日撮影)


 この文面の今から150年前は昭和52年(1977)で、調べてみると5月8日が日曜日でした。ちなみに、昭和52年はどんな出来事があったのかを週間20世紀(朝日新聞社)でみると、「特集1・『文革』終わり、中国に春の訪れ。特集2・打った!756号王が世界新記録。特集3・流血続く『三里塚』開港控え激震の日々。特集4・ゆとり教育、塾過熱…戦後教育の過熱」を記載していました。

 そのころの遍路の様子を上記「詫間町歴史散歩」に掲載されている島四国(写真10上段)に見ることができます。

 写真10中段は平成20年10月21日に写した島の西方向の海岸沿いですが、山が海岸まで迫り民家も少なく、出会ったのはヘルメットも被らぬおばさんだけでした。写真10下段は海岸沿いの道路際の石仏です。札所の番号が書いていなかったので、その後信仰心の厚い島民が作った約300体近い石仏のひとつかもしれません。

 粟島の地図「あなたの粟島」には、紫谷山北端に足摺岬という地名が載っています。断崖絶壁になっていて土佐の国の足摺岬に似せてつけた名前で島四国の38番があると上記の文献で紹介していました。

 ところで、島四国は(しましこく)とは、「地四国注)の一つで、島嶼の中の四国霊場をめぐっていく民間信仰である。淡路島や小豆島をはじめ粟島、伊吹島など瀬戸内海に浮かぶ島々に多い」そうです。
注)地四国(ちしこく)とは、民間信仰の一種で、地元の人が四国霊場を模して、山や島、半島などにおいて、ミニ巡礼コースとしているもの。寺院のかわりに、小さい祠を置いて、お参りする順番も決められている。(出典:フリー百科事典ウィキペディア)


高齢化で存続危機−粟島・四国88カ所

 ところで、平成20年4月19日付け四国新聞社の香川ニュースには、粟島の四国88ヶ所が高齢化で存続危機の記事が出ていました(インターネットから)。

 それによると、「高齢化が進み倒木や竹の除去など重労働を伴う山中での遍路道整備などに苦労しているためだ。2005年からは、台風被害の影響で遍路道の一部が通れないままになっており、巡礼できない札所も。島民の多くは『なんとか続けていきたいが、このままではいつまで続けられるか』と不安を募らせている……

 今後の島四国のあり方について『なんとか88カ所すべてを回れるようにし、先祖から受け継いだ遺産を後世に伝えていきたい」と願う島民が多い一方、一部からは『島民に年齢的、体力的な不安がある中、島外の力を借りてまで継続するのは本来の趣旨から外れているのでは』という声もあり、意思統一が図れていないという。しかし、存続を望む声は島外にも多く、19日に行われる島内ボランティアによるコース脇の海岸清掃には、参加を希望した地元詫間中学校の生徒約90人が応援に駆けつける」と伝えていました。


除虫菊の畑は竹やぶに遷移した!

 ブイブイガーデンの側の丘陵地は10年ほど前までは畑だったそうです。当時は除虫菊などを栽培していたと聞きました。

 除虫菊は蚊取り線香や農薬の原料として栽培されていましたが、化学合成殺虫剤(合成ピレトリン)が開発され、また、安価で良質なケニア産のエキス粕(蚊取り線香の増量剤)の輸入増加などで、昭和47年以降はほとんど姿を消しました。そのような中で、国内の生産がストップするまで瀬戸内海地域で盛んに栽培されていました(参考資料:尾道市ホームページ)。




写真11上段:ブイブイガーデン横の丘陵地

  
 中段:ブイブイガーデン近くまで竹やぶが迫る

   下段:城山登山道近くの放置された竹林


 丘陵地の畑に人が入らなくなってからは雑木に混じって竹がどんどん侵食しているようです。
 城山登山道の途中では写真11に見られるように放置された竹やぶもありました。登山道にはクヌギなどの落葉樹が生えていて粒の大きいドングリがたくさん落ちていました。また、葛がはびこって木々に覆いかぶさっているところもありました。

 竹林の拡大問題があちこちで話題になっていますが、子供が居ない人口400人弱のこの島の放置された山林を保全していく手立てを考えなければならないと痛感しました。

 パンフレット「ゼロ・粟島」には、このほかに西浜海水浴場のビーチコーミング(浜辺で貝殻などさまざまな漂着物を拾い集めて観察しながら散策すること)、瓦ウォッチングが紹介されています。

 また、その表紙には「自分で見つけて楽しむ何かがある島」がキャッチコピーです。

 好天に恵まれた粟島の秋を楽しんできましたが、桜の季節、海水浴シーズン、ウミホタルが見られる季節など、「また違った何かが見つけられる粟島」を楽しめるのではないでしょうか。


(平成20年11月27日)
第108話 粟島見聞録(その2)[2008年11月19日(Wed)]


海員養成学校・続き

 その後、明治39年から県立粟島航海学校に改称、昭和13年には今まで各県が経営していた商船学校を国立に移管され、粟島は海員学校に格下げされました。
終戦直後、詫間海軍航空隊接収にきた進駐軍が対岸の粟島の検分に来たとき、呉鎮守府から貰い受けた飾り物の大砲や倉庫にあった銃を見て、海員学校を海軍関係の学校と勘違いされ有無を言わさず教育資材を破壊されてやむなく昭和21年3月に廃校の憂き目になったといいます。

 昭和21年4月宮崎海員養成所が粟島へ移設、昭和22年4月国立粟島海員養成所として新しく発足、昭和27年8月国立粟島海員学校と改称し、高度成長期には海員の需要もあったのですが、高学歴化時代に入り、粟島など中卒二年制で高卒資格のない海員学校は応募が減っていきます。それに海運不況や賃金の安い外国人船員に代わっていき、少子高齢化が追い討ちをかけて、昭和62年3月に国立粟島海員学校は村上海員学校とともに廃校になりました。


ウミホタル

 この旅行の1ヶ月ほど前の9月18日、NHKテレビ生活ほっとモーニングの「発見・とっておきの旅」のなかで粟島の紹介とともに、海ほたるが紹介されていて見ることができました。

 その後10月8日にはノーベル化学賞に、ボストン大学名誉教授の下村脩さんの受賞のニュースが飛び込んできました。オワンクラゲから分離した発光物質発見が受賞の対象になったと記事は伝えていました。
 翌日の朝日新聞朝刊に「下村さんは、京都に生まれ、51年に長崎薬専を卒業。就職できずに大学で手伝いをしていた55年、名古屋大学で国内留学をすることになった。このときあいさつに行った故平田義正名誉教授(天然物有機化学)の研究室に入ることになった。そこで言い渡された研究テーマは、ウミホタルの発光物質ルシフェリンの精製だった……」という記事を見つけ、粟島ではウミホタルの発光が見られると期待していました。
 しかし、ウミホタルは5月ころから10月中旬までで、9月ころがもっともよく、時期はずれでした。しかし、ル・ポール粟島で乾燥したウミホタルに水を含ませて暗がりでその発光現象を見ることができました。

 フリー百科事典「ウィキペディア」でウミホタルをみると、「昼間は海底の砂中で生活し、夜間に遊泳して捕食や交配を行う。沿岸生物のほとんどは潮汐サイクルに支配された生活リズムを持つが、ウミホタルは月齢による支配を受けている。遊泳時には背甲前端のスリットから付属肢を出して泳ぐ。遊泳活動が盛んなのは春から秋にかけて。水温が低下するとあまり活動しなくなるが、冬季でも完全に冬眠することはない……

 名前の由来となっている青色発光の目的は外敵に対する威嚇で、刺激を受けると盛んに発光する。ウミホタルは負の走光性(光から逃げる性質)を持っているため、発光は仲間に危険を知らせるサインにもなっていると考えられている。また、雄は求愛ディスプレイとしても発光を用いる。この光はウミホタルが分泌する発光物質(ルシフェリン)が酸化する際のもので、体外に放出されると同時に酵素(ルシフェラーゼ)の作用を受けて海中の酸素と激しく反応する……」と説明しています。




写真5上段:ウミホタル(粟島のパンフレットから)

  
下段:ウミホタルの拡大写真(ウィキペディアから)


 ル・ポール粟島の館内にはウミホタルの写真が展示されていましたが、写真5上段は粟島のパンフレットから、下段はフリー百科事典「ウィキペディア」からコピーしました。

ブイブイガーデン散策

 島に着いて粟島海洋記念公園内のル・ポール粟島に荷物を置いて直ぐに、車でブイブイガーデンに向かいました。車中この島には浦島太郎伝説が残っていると説明がありました。

 インターネットの島じまんには「亀戎社(かめえびすしゃ:浦島伝説で太郎を乗せた亀の霊がまつられた、粟島の亀戎社)や乙姫が浦島伝説で一時身を寄せた姫路(ここから荘内半島、六島、真鍋島がキレイにみえるなどが伝説ゆかりの地)、その他対岸には詫間町の荘内半島先端は、昔は浦島と呼ばれていた島になっており、浦島太郎伝説ゆかりの名所がたくさんあります」と説明していました。

 この島では道が狭いので、軽乗用車かバイクしか走っていないようでした。海岸沿いの曲がりくねった山道を越えて東の紫谷山の海岸近くにブイブイガーデンはありました。
 そこには、海に浮かんでいるブイをアートとして加工したブイアートがたくさん並んでいます。これらは全てこのガーデンのオーナーである松田悦子さんの手作りだそうです。




写真6上段:山の中腹から見たブイブイガーデン

 
  中段:草花が咲き乱れたブイブイガーデン

   下段:インドの薬草


 インターネットで「ようこそ粟島へ」を開くと、粟島の概要、粟島最新情報、歴史発見など粟島の情報が満載されています。「粟島のひとびと」の欄には「松田悦子さん 粟島のパブリックアーチスト・弓の名手です」として紹介されています。
 このほかに粟島物語発見には「粟島在住の『松田悦子』さん著のえっちゃんのあわしまものがたり。島のお年寄りに取材した「聞き書き粟島民話」と生活のエピソードが満載です」とも書いていました。
近くの海岸を散策して戻ってくると、このガーデンのオーナーである松田悦子さんと出会えました。

 写真6の下段の花はこのガーデンでたくさん植えられて、花を摘んで手にこすりつけるとすべすべすると松田さんが教えてくれました。ハッカに似た香りがしました。インドの薬草でツィイとかいっていましたが、ネットの検索では見つからず、聞き間違えたのでしょうか。この葉っぱをてんぷらにすると美味しいと摘み取ってくれ、夕食のてんぷらに添えられていました。


インドの薬草はスィートバジルか?

 上記に書いたように、インターネットの検索ではインドの薬草でツィイではこの植物を同定(生物の分類上の所属や種名を決定すること)出来ませんでした。そこで万博公園・自然文化園の自然観察学習館で調べてみました。

 担当者に写真を見せると、葉っぱが対生(枝や茎を中心として葉が左右対称につくもののこと)で花の咲き方がシソ科ではないか、おそらくハーブだろうと教えてもらい、それに関連した書籍を5冊ほど見せてもらいました。さらに、「イタリア料理で使っているバジリコではないだろうか」とアドバイスをもらいました。




写真7上段:ブイブイガーデンのインドの薬草

   
下段:ブイブイガーデンのインドの薬草を接写


 そこで、ハーブ&スパイス(サラー・ガーランド著、福屋 正修 訳、叶ス文堂 新光社、1982年9月16日発行)の「バジル・メボウキ」をみると、「バジルの栽培は、原産地のインドからアジアを通って少なくとも4000年前にはエジプトに達し、そこからローマやヨーロッパ南部へと広がった。大ブリテン島へは、16世紀になってはじめて導入されたらしく、その後、北アメリカへ初期の移住者によって導入された。バジルはインドでは多年生植物であるが、冷涼な気候下では細心の注意を要する一年生植物として扱われる」

 と書いているように、バジルはインドの薬草でした。


バジルの名前


 日本名はメボウキですが、「ハーブ 新来の香草たち(朝日新聞社昭和62年3月30日発行)」によると、「わが国には江戸時代に薬用として入ったと伝えられており、かすみ目や目の中にゴミの入ったようなとき、種子を目に入れると表面が寒天のようにふくれ、かすみが除かれたり、ゴミをとるのによいという。そこでメボウキ(目の箒の意)の和名が生れている」と書いていました。

 この本のバジルの写真には、ブッシュバジル、レモンバジル、ダークオパール、シナモンバジル、リコルスバジルが取り上げられテイます、その中から、粟島で見た写真と似たシナモンバジル(写真8上段)とリコルスバジル(写真8下段)をスキャナして見ました。



写真8上段:シナモンバジル

 
  下段:リコルスバジル


 字数制限のため、この続きは第109話に回すことしました。
第107話 粟島見聞録(その1)[2008年11月11日(Tue)]

 

 10月下旬1泊2日で箕面在住の仲間6人と、瀬戸内海の香川県西部に浮かぶ、周囲16.5km、面積3.68km2の小さな島・粟島を訪れました。
仲間の一人、Oさんが高校時代までを過ごした故郷・粟島を訪ねてひなびた島の風情を楽しむ気軽な旅でした。

 香川県三豊市詫間町の須田港から連絡船で、15分で行けるとはいうものの、1日8便しかありません。島の人口は400人に満たないし、幼稚園や学校はすでに廃校になっている典型的な過疎の島でした。粟島の見聞をまとめてみました。


香川県三豊市詫間町の粟島

 インターネットで粟島を検索すると、新潟県北部の日本海に浮かぶ面積9.86km²の粟島と、香川県三豊市詫間町の粟島の2つが出てきました。
 香川県の粟島の概観をみるために、平成20年3月発行・粟島地域の離島地域観光交流促進委員会の「ゼロ・粟島」のパンフレットの地図を利用しました。




地図1 粟島の概観図


 一番上の丸い阿島山(あしまやま:標高161.6m)、右側の突き出た紫谷山(しきややま:標高145.0m、地元では「しっきゃ」と呼ぶそうな)、左下の城山(じょうのやま:標高221.1m)の3つの山があり、太古は小さい三つの島であったものが、潮流によって砂州ができ、それが結び合わされて現在のような一つの島を形成したものと考えられています(資料:ようこそ粟島へ)。

城山からの景観

 まずは粟島を紹介するパンフレットに載せている城山からの景観をご覧ください。島に着いた日は疲れて登頂できず、翌朝7時ころに登ったので朝靄でパンフレットのようにくっきりとは写せませんでした。
 頂上は360度のパノラマですが、北方向の阿島山を見下ろす写真1中段が絶景でした。写真中央やや右側の砂浜が西浜海水浴場になっていて約1kmも続く白浜がくっきりとわかります。

 写真1下段は頂上からの俯瞰を説明した案内板です。天気の良い日には遠くに瀬戸大橋が見えるようです。
 写真1上段は城山への登山道の頂上近くからみた粟島港付近の集落です。




写真1上段:頂上近くから見た粟島港付近の集落

  中段:城山頂上から見た北方向を望む
 
下段:城山頂上からの案内板


 城山頂上には香川県が平成11年5月に設置した「城の山址」の案内板があり、「城の山は、三山のうち、粟島の最高峰である城山(標高222.1m)の頂上に位置し、四方の眺望が素晴らしく、航行する船の見張りには最適の場所であった。
 文献によると、天正年間(1573〜1591)に西讃一帯を支配していた香川信景(かがわのぶかげ)の部将である八倉弾正(やくらだんじょう)が城主としてこの城を守っていたが、その後長宗我部(ちょうそかべ)氏の侵略を受け、城は焼失してしまったことが知られる」と解説しています。


海賊が出没した島

 瀬戸内海に浮かぶ島々、塩飽諸島には、古事記、日本書紀の時代から海賊は出現していますが、承平6年(936年)頃に海賊の討伐に当たっていた藤原純友は、日振島を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたとされています。

 平安時代中期に、関東では平将門の承平の乱、瀬戸内海では藤原純友が朝廷に反乱を起こした天慶の乱が知られています。

 紀 豊 著(発行者:詫間町文化財保護委員会昭和54年4月1日)の「詫間町歴史散歩」によると、藤原純友のずっと以前の「悪魚退治の伝説や、おとぎばなしの桃太郎の鬼征伐など、悪神・悪魚・鬼の名で表現しているものの本体は海賊であります。

 これほどの伝説や物語が多いことは瀬戸内海が海賊の巣窟(そうくつ)であった証拠であります。応神天皇の5年(274)に諸国に令して海人部(あまべ)を定めたということは、海賊を取り締まらせるための法律が出来たということです。海賊の文字が初めて使われたのは仁明天皇の承和5年(838)の官符軒に『山陽・南海に海賊横行し』とあります」とあります。

 写真2のように、島同士の距離が狭くて逃げ場がなく、城山頂上から航行する船の見張りをして島影から出没するには絶好の島だったことがわかります。




写真2上段:四国本土須田港から見た粟島

   中段:城山山頂から北方向を見る

   下段:城山山頂から南方向を見る


 上記「詫間町歴史散歩」の続きには「粟島にも当時海賊がいて、その戦法が地名やいい伝えで大要わかります。それは、島で一番高い城の山(222m)の頂上で見ていると、東へ行く船も、西へ行く船もすべてが手に取るようにわかります。東航・西航の航路は潮流の関係で二面島(ふたおもて)という無人島の北側を必ず通るのです。ここは粟島の北わずかに2kmの近くです。この島の北東の海中に暗礁があって、常には海面に出ていません。

 粟島の東風(こち)浜海岸の北に船隠しという船潜があって、そこが海賊船の待機所となり、常に7、8隻の船を浮べて置きます。もし、通航の船を城の山で発見すると、船隠しの船団に通報します。船団は急いで二面島に達し、島陰に船体を隠し、目的の船が近づくと、突如出て、船ばたをたたいたり、太刀を抜いて太陽に反射させたりして、通航の船を包囲し、一方だけ逃げ路を開けてそこへ追い込む。そこは暗礁のある所であるので座礁し、進退の自由が奪われ、後は海賊の略奪にまかせる外はありません。城の山が見張所、船隠しが待機所、そして二面島付近の暗礁が陥し穴と海戟行為をする三要素が整っている訳です」と説明しています。

 今回の旅行で宿泊したル・ポール粟島の方が「どこから風が吹いてきても、繋留できる良い港がある」と説明してくれました。


北前船

 港から上陸すると、近くには出張所や郵便局、漁業組合の建物がありますが、この島で目立つ建物は粟島海洋記念館です。港から10分ほどで木造2階建ての校舎が眼に入ります。この建物は海員養成学校として明治30年に日本で最初に設立されました。今はこの校舎(有形登録文化財)は海洋記念館として海員学校の資料や船舶の模型などが展示されています。また、この周辺は海洋記念公園として整備され、この公園内に宿泊した「ル・ポール粟島」やテニスコート、キャンプ場などがあります。

 その公園内に「北前船係船用石柱と碇」(写真3上段)が保存されていて「江戸時代には粟島は海運業の盛んな島で100艘近い大型帆船の北前船で北海道や日本海方面と瀬戸内海を行き来して商売をし、栄えていた」と説明しています。




写真3上段:北前船係船用石柱と碇(記念公園内)

   下段:北前船の寄港地(記念館の展示から)


 北前船(きたまえぶね)とは、「江戸時代から明治時代にかけて、上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から関門海峡を経て瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)、及び、この航路を行きかう船のことである。航路は後に蝦夷地(北海道)にまで延長された」(フリー百科事典「ウィキペディア」)。

 それまで若狭から琵琶湖の北岸まで陸路で運び、湖を南下して大津へ、そこから京都・大阪へ運んでいたのを、距離は伸びるが積替えの手間省けて運賃が安くなる下関海峡から、瀬戸内海を通って大阪へ運ぶようになったのです。1639年代の寛永16年に加賀藩が藩米を値段の高い大阪へ輸送する手段として始まりました。

 文政10年(1827)には粟島の北前船の持ち主が88艘になったので1船1基の石仏を寄進させて島八十八か所が建立されています。

 京都・大阪へ向かう上り航路は米のほかに、北海道の産物、乾燥魚、塩蔵魚、魚油、魚粉類など、下り便は関西、中国、四国から、むしろ、油、タバコ、綿、織物、荒物でした。中でも鮭や鱒などを塩蔵するために詫間の塩が運ばれたようです(参考:詫間町歴史散歩)。


日本初の海員養成学校

 粟島は1827年には北前船の持ち主が88艘になったということですから、海運業が盛んな島だったことがわかります。

 時代とともに北前船から洋式帆船に、さらに汽船とかわるとともに航海技術も北前船の船長の経験だけではいかなくなり、粟島の中野寅三郎氏が海技免状を取るために学術と技能を修得するため、明治30年に開校したのが日本最初の村立海員養成学校でした。



写真4上段:開校していたころの粟島海員学校(資料室の写真から)

   中段:海洋記念館正面(平成20年10月22日撮影)

  下段:海洋記念公園(平成20年10月22日撮影)


字数がオーバーしましたので、この続きは次回にします。

(平成20年11月11日)
第82話 サクラ便り[2008年04月05日(Sat)]
 
 関西の桜の平年開花日は、大阪管区気象台が観測した過去30年間の開花日の累計平均日は3月30日だそうです。

 関東地方では例年より早く満開になったそうです。関西のサクラの名所は数々ありますが、万博記念公園のサクラもその一つで今が見ごろです。
 4月2日に万博公園内を散策する機会がありましたので、サクラ便りをお届けします。


6,421万8770人の夢のあとは!自然文化園になりました

 日本万国博覧会は、「バンパク」と親しまれ、「人類の進歩と調和」をテーマとし、日本を含む77カ国と四つの国際機関が参加して1970年3月14日から9月13日まで吹田市の千里丘陵で行われました。総入場者数は、6,421万8,770人と万博史上最多でした。

 写真1上段は万博当時の絵葉書から航空写真から会場の全景です。
 写真1下段は独立行政法人日本万国博記念機構が発行の園内マップです。このマップを90度右に回転すると、航空写真の全景と同じ向きになります。
 絵葉書の右端とマップの中央上部から右がわの濃い緑部分が日本庭園です。38年後の樹木は成長して周囲は茂った森になっていますが、配置は変わっていません。




 写真1上段:1970年当時の会場全景(絵葉書から)
     下段:38年後の万博跡地の園内マップ(日本万国博記念機構発行)


  園内マップの大半を占める自然文化園は、万博開催期間には奇抜なパビリオンが林立していましたが、いまはその姿はなく、全体260haの中心をなす99haの敷地内には、約250種50万本の樹木が植樹されています。

ソメイヨシノ


 万博講演自然観察学習館「カワセミたより2008.4.1」によると、およそ5500本、9種類のサクラが植えられています。その中で一番いい多いのがソメイヨシノです。

 万博のシンボル「太陽の塔」の裏側の東大路は500本のソメイヨシノの並木になっていて、平日の昼下がりでしたが、多くの人が花見物を楽しんでいました。




写真2 上段:太陽の塔の裏側
     中段:東大路の桜並木
     下段:夜桜用のチョウチン


 写真3は園内の北西方向にある「春の泉」から「桜の流れ」に沿って左側の手前にはハナモモが満開です。その先はサクラが満開で右側には川沿いに新芽を出したばかりのシダレヤナギの若葉の緑色とのコントラストが見事でした。



   写真3 春の泉から見た「桜の流れ」

シダレザクラ

 万国博開催10周年を記念して昭和55年(1980)に植えられたシダレザクラも満開でした。シダレザクラはエドヒガンの枝垂れ性の栽培品種です。エドヒガンは本州の北端から南端までの山地に分布する桜、別名「アズマヒガン」、「ウバヒガン」などとも呼ぶことをネットの検索で知りました。

 アズマヒガンで思い出すのは、岐阜県に建設中の御母衣ダムに水没する村の桜、当時樹齢400年のこの古木を移植してダム湖のほとりに荘川桜として岐阜県指定の天然記念物となっています。1960年当時の電源開発初代総裁の高碕高碕達之助は、この古木を救うために奔走されたそうです。




   写真4 万国博開催10周年記念のシダレザクラ

 財団法人遺伝学普及会のホームページによると、「樹勢が強く、樹齢も長く、大木となる性質をもつ。日本で一番古い桜と言われる根尾谷の薄墨桜をはじめ、高山の神代桜、盛岡の石割桜などのほか各地にエドヒガンの巨木が見られる」と書いています。
 万国博開催10周年を記念して植樹されたこのシダレザクラもいずれ何百年後かに語り継がれる古木になるのではないかと思います。


カンヒザクラ

 この木に吊り下げられた解説板には「このサクラは台湾や中国南部に自生しているサクラです。日本のサクラに比べて花びらの色が濃く、半開きで下向きに咲きます。沖縄では、野生化しているものもあるようです。はじめは、緋寒桜(ヒカンザクラ)と呼ばれていたが、彼岸桜(ヒガンザクラ)と混同されるために寒緋桜(カンヒザクラ)と呼ぶようになりました」と説明していました。




       写真5 カンヒザアクラ

  「花の命は短くて・・・・・・」は林芙美子の「放浪記」の一節ですが、今年の桜も主な品種は今週末が見ごろになるようです。

 今日4月5日の活動日はぽかぽか陽気で「体験学習の森」を散策してきました。ソメイヨシノなどから1週間ほど遅く咲く日本の山に自生するヤマザクラは、4月2日に万博公園では未だ当分咲きそうには見られませんでしたが、この「体験学習の森」では1本だけですが、ヤマザクラがちらほら咲きでした。

 次回はこの森での本格的な春の様子を届けたいと思っています。


第74話 熊野古道紀伊路の寄り道・天神崎へ行く[2008年02月09日(Sat)]


 立春を過ぎてもまだまだ寒い日が続いています。日本列島に寒気団が居座り、太平洋南岸を低気圧が通過するときは近畿地方の内陸部でも雪が積もるという予報どおり、2月9日の活動は中止になりました。2月に入ってからは一度も炭窯が開けられず、活動報告もできなくなりました。

 そこで、昨年の11月25日の見聞で少し古い話題ですが、天神崎の話題を書くことにしました。

 第6回「熊野古道(紀伊路)を語り部と歩く」ツアでは、南部駅から紀伊田辺まで歩きました。昼食後、熊野古道からは外れていましたが、田辺湾に突き出た天神崎へ足を伸ばしました。
 天神崎は日本のナショナル・トラスト運動の先駆けとして田辺市民たちの「市民たちの手による自然買い上げ」運動が昭和49年から現在も続けられています。

 その運動は報道で知っていましたが、この地を訪れるのは初めてです。自然の宝庫といわれる天神崎を1時間ほどかけて歩いてきました。晩秋の良く晴れ渡った好天で、しかも潮が引いていて素晴らしい景色を満喫することが出来ました。その素晴らしい景色をお届けします。


古の熊野詣の人たちは天神崎まで足を伸ばさなかった?

 昨年4月から始まった「熊野古道紀伊路を語り部と歩く」ツアは和歌山県海南市の藤白神社から始まりました。
 熊野古道・紀伊路は田辺市内で東に向かう中辺路と海岸部を南下する大辺路に別れます。中辺路は潮垢離浜の記念碑から田辺市内を抜けて山また山の道へ入っていきます。

 紀伊路は地図1に示すように、芳養王子から出立王子の区間はJRきのくに線にほぼ平行しています。その区間の南に突き出たところが天神崎です。




   地図1 赤線の熊野古道紀伊路に地図中央やや右に突き出た天神崎

 熊野古道のパンフレットには「熊野本宮、熊野速玉、熊野那智を熊野三山とよび、これらの神様のもとに詣でれば過去の過ちや病気や悩み、苦しみの一切が浄化され、新しく生まれ変わることができると信じられていた」と書いてあるとおり、古の人たちは難行苦行の古道をただひたすら歩くだけだっただろうと思います。

 何もかも便利になった今の時代だからこそ、価値観も変化して「自然の宝庫」に気付いた天神崎です。古の人たちはのんびりと少し足を伸ばして岬を一回りする時間的、経済的余裕も無かったのではないでしょうか。


古の人たちは熊野古道でどんな景色に感嘆したのだろうか?

 上皇の熊野御幸は鳥羽離宮に程近い鳥羽の湊から船に乗り淀川を下って難波津(天満橋付近)より陸路、四天王寺を経て泉州、海南を南行、田辺より中辺路を越えて熊野本宮に到達しています。往復750キロおよそ1ヶ月の信仰の旅です。

 今まで藤白神社から8回で紀伊路を踏破した景色の中では、岩代王子から千里王子までは古の人たちにとっても素晴らしい景観として目に焼きついたことと思います。

 神坂次郎著「熊野まんだら街道」の〔百三 御坊から千里まで〕の中で、岩代王子から千里王子までの浜つたいの古熊野の道の景観について、「岩代王子から千里海岸にむかう。近世の熊野街道が開かれるまで、岩代王子から千里王子までの古熊野の道は浜つたいにのびていた。海岸段丘をくだってくると、雑木にかこまれた道を歩いてきた目に、光る海と、いちめんの砂浜のひろがりがなだれこんでくる。
 まばゆい陽光をはねた紀伊水道のむこうに、遠く四国の島かげがみえる。熊野へのながい旅のなかで砂浜つたいの道はここだけである。それだけに千里王子をたずねた旅びとのし印象は強烈である。「伊勢物語」や「枕草子」「大鏡」「拾遺集」なども、みなみなその景観のすばらしさをうたいあげている」と書いています。




    写真1千里王子付近の砂浜つたいの古熊野の道の景観

 岩代王子から千里海岸の浜つたい古熊野の道は、第5回の10月20日に歩きました。 

 写真1は今から800年前ころ歩いた古の人たちとそんなに変わらないであろう砂浜つたいの景観です。


ナショナル・トラスト活動とは?

  広く市民や企業から寄付を募って自然地や歴史的建造物を買い取る、または所有者からの寄贈を受けることにより、これらを後世に残す活動です。

 語り部さんが天神崎の中ほどで「ナショナル・トラスト運動発祥の国はどこですか」と3択のクイズを出しました。「英国」が正解で、「1895年にはじまり、法的に寄付制度がつくられたことにより大きく発展しました」と解説してくれました。




   写真2 「財団法人 天神崎の自然を大切にする会」の案内板

天神崎ホームページ「天神崎について 生物の宝庫」から

 「田辺湾は、紀伊半島の中ほどに位置し、多種類の海洋生物が数多く生息している世界的にも貴重なところです。
 それは、黒潮の影響を強く受けているにもかかわらず湾内には暗礁が多く、潮がゆっくりと動いて南の海で生まれた種々の幼生の育成を助けます。
 
 もう一つ大切なことは、後背地には、すぐ海岸林があり腐葉土層が栄養素を補給するとともに、風や雨などによる土砂の海への流入を防ぐことで全体のメカニズムが常に安定していることです。
 しかしこれだけでは冬場の水温低下を防ぐことができません。幸いなことに田辺湾は西側に大きく開き、その時期には北西の季節風が黒潮を湾内に押し込む働きをしてくれます。
 これらの条件が整い、日本でも数ヶ所にしか見られない生物の宝庫となっているのです。
 例えば、暖かい海の代表であるサンゴが約60種類もあり、これは北緯34度近くの海では、世界的にも異例の数です。

 また、潮の引いている2時間ほどの間に行われる磯観察で200種類もの生物が記録されます。田辺湾一帯から取れるウニの種類は約50種もあります」と書いています。




    写真3 上:天神崎の岩礁と後背地の海岸林
         下:潮が引いた天神崎の岩礁


酷暑の磯場のアラレタマキビ貝

 上記「熊野まんだら街道〔百九 天神崎を守る〕」の中で、「別れぎわに外山さんは、磯場のアラレタマキビ貝を教えてくださった。それはいじらしいほど小さな三、四ミリほどの貝であった。真夏になるとこの貝は、灼(や)けつく磯に直立して熱を避ける。酷暑の磯場にはそんなおびただしいアラレタマキビ貝の群れが直立し、その小さな貝の上に肩車でも組むように仲間の貝が乗り、その上にまた貝が乗って、まるでスクラムでも組むように直立するのだという。『この貝が私たちの会のシンボルマークです』」と書いていました。



写真4 酷暑の磯場にアラレタマキビ貝の群れが直立(AGARA紀伊民報)

 神坂次郎著の熊野まんだら街道は、平成6年2月に新潮社より刊行されています。文中の外山さんは、この記事が書かれた当時「天神崎の自然を大切にする会」の外山八郎事務局長です。

 天神崎を訪れたのは秋ですし、磯に出る時間的余裕もありませんでしたので、インターネットのAGARA紀伊民報から、貝がスクラムを組んでいる写真を引用させてもらいました。


第72話 大寒に熊野古道・稲葉根王子から清姫の墓まで歩く[2008年01月28日(Mon)]


 昨年4月から毎月1回「熊野古道(紀伊路・中辺路)を語り部と歩く」のツアに参加しています。その第9回目は平成20年1月23日に中辺路稲葉根王子から清姫の墓まで約10キロを歩きました。

 この日は二十四節気の寒の真ん中、大寒で、雨上がりの富田川沿いは季節に違わず寒い日でした。

 でも1週間ほどで立春です。春の訪れは梅の花からと言いますが、梅の生産量日本一の紀州路です。古道沿いには厳しい寒さに耐えながら、春を待つ梅の芽吹きが見られました。富田川沿いの春の息吹をお届けします。


稲葉根王子の水垢離場

 今回の熊野古道は稲葉根王子から国道311号沿いの富田川(当時は岩田川)に沿って歩きました。稲葉根王子横の堤防に水垢離場と書いた石碑とその横に解説がありました。



写真1 稲葉根王子横の水垢離場(写真は平成19年12月1日撮影)


  「富田川沿いに熊野参詣道が通り中世には熊野詣の水垢離場として重要であった。この川で禊(みそぎ)をすれば今までの罪がことごとく消え去ると信じられ、上皇や女院たちも徒歩で渡った。『平家物語』や『源平盛衰記』などにも登場し、また『いわた河 渡る心の深ければ 神もあはれと思はざらしめや 花山法王』など数多くの古歌が残されている。岩田川を最初にわたるこの付近の瀬を一の瀬といい、滝尻まで何回も渡りを繰り返したという」と解説しています。

いにしえの人たちは真冬に水垢離をしたのだろうか

 先に書いたように「語り部と歩く熊野古道」は毎月1回12キロほど歩いて13回で熊野本宮大社へ到達するツアですが、8月は暑い季節ですから計画からはずされていました。 

 今回のツアでは大寒の1月下旬に、かつて水垢離場だった富田川の稲葉根王子近くで市ノ瀬王子へ向かうため橋を渡りました。

 古の人たちが、神仏にお参りする際、しばしば全身に水を浴び、身を清めるにしても、大寒の寒い時期に熊野詣をしたとも思えません。

 語り部さんの解説では、今の時代はこの時期が汗もかかず一番歩きやすいが、その当時の人たちは、水垢離をするからこんな寒い時期には熊野詣には出かけなかったと言っていました。

 井上宏生著「伊勢・熊野謎解き散歩」によると、1081年に熊野詣をした藤原為房の場合9月21日に京を出発していますし、藤原定家は1201年10月5日に熊野詣の途中、天王寺に泊まっています。当時はやはり歩きやすい秋に熊野詣に出かけたのでしょうか。


富田川を渡る

 今から800年ほど前の平安時代末期の人たちは、富田川を何度も渡河して水垢離をしたといいますが、どのあたりか定かではないようです。

 くまの文庫4「熊野中辺路 古道と王子社」によると、「古道は石田御所(稲葉根王子付近の岩田川の北側に設けられていたと見られる)付近から、いまの富田川を渡り一ノ瀬王子に向かうが、渡河地点は明らかでない。ただ、地形的に見て稲葉根王子の上流ではなく、そこからさほど遠くないあたりを渡渉したのであろう」と書いています。

 また、石田川の項には「今の富田川の滝尻(中辺路町)付近から下流は石田川と呼ばれ……、いまではたびかさなる洪水によって川底が上がり広い河原になっているが、昔は川幅も狭く、御幸の盛んなころには一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬があり、川で垢離が行われた。女院が川を渡るときは、二反の白布をつないだ結び目につかまり、大勢の供の公卿たちが布の左右をささえ、女官たちにつき添われて渡河したという」とも書いています。             




   写真2 稲葉根王子から上流方向を見た富田川

 写真2は稲葉根王子から上流側の市ノ瀬付近の富田川です。

 語り部の話では季節によって水が枯れてしまったようになっていることもあるそうですが、川底を伏流水が流れているそうです。

 日本地図を広げてみると、富田川は果無(はてなし)山脈に源を発し、中辺路町、大塔村、上富田町を流れて白浜で太平洋に注いでいます。

 古の人たちは一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬と水垢離を繰り返しながら渡河したようですが、私たちも滝尻までに富田川に架かっている4つの橋、市ノ瀬橋、加茂橋、鮎川新橋、北郡橋(吊り橋)を渡りました。


春の息吹を感じながら古道を歩く

高菜

 大塔村に入って大塔郵便局から少し山へ分け入ったところに大塔宮剣神社碑があります。
語り部さんからこのあたりでは、「鮎川王子の祖先が大塔宮護良(もりなが)親王(1308〜35)にした仕打ちを、子孫が600年の間、正月の餅を断ってわび続けた」と語っていました。




   写真3 めはりすしを包む高菜

 その下りの山道の際に青々した高菜が植えてあり、鹿や猪の食害を防止するためにトタンで囲われていました。

 今までに3回歩いてきた中辺路の近露の宿の昼食の弁当は、高菜で包んだめはりすしでした。目を見張るほど大きいおにぎりが3個も入っていました。

 高菜はアブラナ科の越年草で、秋に発芽して翌年の1月下旬にはこんなに青々とした葉っぱになっていました。


杉の実


 鮎川王子の際に架かる鮎川新橋を渡ったところの消防署第二分団近くに背の低い杉の木が植わっていました。

 私たちが里山保全活動をしている「箕面市体験学習の森」にはたくさんの杉が植林されていますが、大きく成長した杉なので実を見る機会はなかったので、写真4に収めました。




        写真4 杉の実

 早春開花し、卵球形の球果を結び、春にははじけてスギ花粉となって飛んでいきます。

梅一輪

 梅生産量日本一の和歌山県ですが、中でも南高梅は代表する品種で、日本国内で生産される国産梅の6割は和歌山県産だそうです。

 第6回の切目から三鍋王子の紀伊路を歩いたとき、切目駅近くに和歌山県立南部高等学校がありました。

 語り部さんは南高梅について「明治時代に和歌山県の旧・上南部村(現・みなべ町)で高田貞楠が果実の大きい梅を見つけ、高田梅と名付けて栽培し始める。1950年に上南部村優良品種選定会が発足し、5年にわたる調査の結果、高田梅を最優良品種と認定。調査に尽力したのが校の教諭であったことから南高梅と名付けられた」と解説していました。



     写真5上 12月19日の梅ノ木
     写真5下 1ヶ月後には芽生えた梅ノ木 


 「寒梅」を詠った新島襄の漢詩「庭上の一寒梅 笑って風雪を侵して開く 争わず また 力めず 自ずから 百花の魁を占む」をその昔、詩吟で唸っていたのを思い出しながら、古の人たちも歩いてきた熊野古道の急な坂道に入っていきました。

 語り部さんは、この急な坂道で休憩した時、古道歩きの楽しみ方は3つあると教えてくれました。
@森林浴の楽しみ
Aこの急な坂道の古道には杉が植林されて、ところどころに石垣も残っていました。その周辺の樹木が無いと想像して、その地形や石垣を見ていくと、それがかつては棚田だったり、炭窯の跡だったりして古の人たちの生活が想像すると楽しめる。
B古の装束で古道を歩いている姿を想像しながら歩く楽しみ

 
 今回のツアでは水垢離して富田川を渡河する女院らの姿を想像して少し詳しく「富田川を渡る」の章を書いてみました。


第68話 勝尾寺表参道を歩いて初詣[2008年01月07日(Mon)]


 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 
 箕面だんだんクラブの2008年・初仕事は一昨日の1月5日の土曜日からから始めました。その活動報告は別の稿で書くことにして、年頭の話題として勝尾寺表参道を歩いて初詣に出かけた風景をお届けします。

 初詣は、年が明けてから初めて寺社(神社・寺院)などに参拝して、一年の無事と平安を祈る行事ですから近くの神社でもよいのですが、勝尾寺表参道を歩いての参拝は、約4キロと手ごろな距離です。
 正月で祝いの雑煮やお屠蘇気分なので、アップダウンのある山道は極寒の元旦でしたが、汗をかくほどのハイキングになりました。

 初詣は古臭いようですが、箕面市内では西国二十三番札所・勝尾寺には元旦でも老若男女多くの人たちがお参りをしてにぎわっていました。


勝尾寺の表参道の大鳥居

 西国街道に面した新家には写真1の大鳥居が建っています。この鳥居は今から342年前の江戸時代に建てられたと書いていますから由緒ある鳥居です。



  写真1 勝尾寺表参道の大鳥居(ここが勝尾寺までの36町の基点)

 写真1の右手の箕面市教育委員会の案内板には「勝尾寺(かつおうじ)へ向かう参道は、幾筋もありますが、西国街道に面した新家から大鳥居を基点として、北へ向かう36町(約4km)の道が表参道(旧参道)です。参道沿いには寺への距離を示す町石が残されており、宝治元年(1247年)に建てられた下乗石から七町石間での八基は最古の町石として国の史跡に指定されています。
 現存する石の大鳥居は寛文元年(1666年)に建てられたものですが、勝尾寺文書には鎌倉時代の寛元三年(1245年)に木の鳥居が建てられたことが記録されています」と説明しています。


府道箕面池田線から山道へ

 勝尾寺表参道大鳥居のある三十六町石が出発点ですが、三十町石には帝釈寺があります。
 帝釈寺の門前の「帝釈寺の文化財」の案内板によると、「聖徳太子の創建と伝えられる、寶生山帝釈寺には、数多くの仏教美術品が伝えられています。中でも、豊富な仏像類は寺の古さを物語るものです。室町期以前の作である本尊帝釈天立像、平安時代の十世紀後半の作である地蔵菩薩像、同じく十一世紀の十一面観音立像、鎌倉時代の優品である毘沙門天立像等は市内の数少ない個物として歴史上貴重なものです・・・・・・」と紹介しています。

 また、別の資料によると、「『三代実録』の元慶4年12月4日条(880年)に見える清和天皇の諸山巡歴の記事に天皇が勝尾寺を訪れ、その折に当寺も訪れている。この時、勝尾寺を弥勒浄土都率(とそつ)の内院に比し、当寺を外院に擬して『寶生山三天寺』と勅号を下したと伝える。現在の寺名に変わった経緯はつまびらかでないが、1649年(慶安2年)勝尾寺第92世秀栄が中興した。なお、この付近の地名の『外院』は清和天皇より勅があった『外院』に由来していると思われる」と書いています。

 府道箕面池田線に面した皿池公園の信号を渡って北へ登っていくと、地図1(名所・旧跡ガイドマップ箕面温故知新よりコピー)に書いているように、ところどころに町石が残っています。




勝尾寺表参道

 地図1の粟生外院6丁目付近の急勾配の登り道には、両側に畑や池が点在していますが、これからいよいよ山の中に分け入っていく入り口には開閉式の門が設けられています。 一昨年にはこの門がなかったので昨年いつの時期かに設けられたと思われます。
私たちが活動する「箕面体験学習の森」には鹿や猪、猿が常習で来ていますが、この表参道の面する畑でもこれらの動物の食害がひどくなったために防護しなければならなくなったのでしょう。

 この表参道の山道には数箇所の休憩場所があってベンチが設けられています。
中でも山道の右手、東側に展望の開けた休憩所が3箇所あります。




    写真2 旧参道休憩所から東側の望む3箇所の展望

 写真2は表参道の東側が開けた見晴台のような場所に設けられた3箇所の休憩場所から写しました。

 3枚のうち、下段の写真は急な坂道を登ってきて、ここらで一休みしたいと思う手ごろな場所に展望が開けていてほっと一息つけます。
 手前には粟生間谷の住宅団地は見え、その先の左手には昨年開通した大阪モノレール彩都線の高架橋が少し見えています。

 写真2の中段はそこから15分ほど登った第2の休憩所からの展望です。
 手前の山のすぐ先の住宅団地もわずかに見えるだけで、その切れ目にモノレールの高架橋がくっきりと見えます。

 表参道の山道はじゅうたんのように敷き詰められた落ち葉の上をガサガサと登っていきますが、第2番目の休憩所からはなだらかな勾配が続いていて息も弾まず心地よく散策できる区間です。

 例年のことですが、この表参道を歩いて初詣をする人は多いようです。初詣ではお互いに「あけましておめでとうございます」と挨拶を交わしてすれ違います。帰り道の人たちは、寺で配った笹に縁起物を付けた人もいましたが、1個700円の縁起物は高価のせいか、たくさん付けている人は見ませんでした。

 この表参道の山道は、右手が切り立った斜面になっています。第2休憩所から第3休憩所の区間では、ところどころ木々の隙間から初詣に出かける車の列がちらちら見えます。車は渋滞でほとんど動いていないように見えました。パトカーが鳴らすサイレンの音が聞こえてきました。

 第2の休憩所からさらに20分ほど登った3番目の休憩所が写真2の上段の展望です。前面の山に阻まれて展望はあまり望めませんが、遠くに生駒連山が薄っすら見え、手前にやや濃い山並みは茨木辺りの山々でしょうか。


高野山より18年古い我国最古の町石

 最後の急勾配を登りきって、山門に近づくと下り勾配になり、写真3のように「史跡 勝尾寺一町石」と書いた標識柱の横に古びた本物の町石が数本立っています。



      写真3 勝尾寺旧参道 一町石

 一町石の横の解説板の勝尾寺旧参道によると、「大鳥居から三十六町の道程を経て山門に至ります。現在この間には寺までの距離を示す町石が二十基確認されていますが、本来は一町ごとに建てられていたと推測されます。町石には必ず梵字が刻まれますが、これは金剛界の種子曼荼羅の各尊を表わしたものです。 二十町石のうち、下乗石から七町石までの八基の町石は、勝尾寺に伝えられる古文書によると、宝治元年(1247年)の建立で、これは文永二年(1265年)の高野山の町石よりも古く、我国で最古の町石として、昭和四一年、国の史跡に指定されています。以下略」と解説しています。

護摩祈祷


 帝釈寺を2時前に出発して約1時間半後の3時20分に、勝尾寺山門に着きました。しばらくして本堂近くからももうもうと煙が舞い上がってきました。

 本堂横で護摩祈祷が始まっていました。護摩木を焚いてご本尊に願い事の成就を祈る法要で初めて見ました。
 青々したヒノキに似た葉がどんどん火炉(かろ)に掘り込まれていきます。
国語辞書大辞泉によると「《(梵)homaの音写。焚焼(ふんしょう)・火祭りの意》密教で、不動明王や愛染(あいぜん)明王などの前に壇を築き、火炉(かろ)を設けてヌルデの木などを燃やして、煩悩(ぼんのう)を焼却し、併せて息災・降伏(ごうぶく)などを祈願する修法」と説明しています。

 だんだんクラブの仲間に青々した葉っぱはヒノキの葉か確かめたところ、岡山出身のHさんは「ヒノキの葉を使っている」と言っていました。Nさんは滝安寺で聞いた話ではヒバだということでした。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には「ヒバ(檜葉)はヒノキやサワラの別名。ヒノキ科ヒヨクヒバ(サワラの亜種)の様に「-ヒバ」と名が付くものが多い。林業で、ヒノキ科アスナロ属アスナロまたは、アスナロの変種ヒノキアスナロを指す」と書いていましたので、ヒノキの葉を燃やしていたのだろうと思います。




     写真4 勝尾寺で行われた護摩法要

 写真4は護摩祈祷の様子を写しました。

 この護摩法要の近くに梵鐘があり、一人1回と書いてあり数人が並んでいました。特に願い事があったわけではなかったのですが、思い切り力をこめて釣鐘を響かせて今年の初詣の思い出としました。


 年末の12月22日に第2回目の植樹が雨天で中止になり、平成19年の締めの活動報告もしないままに新年を迎えてしまいました。
 
 皆さんから記事が長すぎるとの指摘を受けながら、平成20年最初の記事も長くなってしまいました。今後は長すぎないように気をつけて記事をまとめたいと思いますので、よろしくお願いします。

 次回の第69話では、クヌギの苗木の植樹についてタッキー816の電話取材を受けたことを書く予定にしています。


初冠雪の比良山系釣瓶岳・武奈ケ岳登山に登りました[2007年11月29日(Thu)]


 朽木村観光協会(11月1日から社団法人びわ湖高島観光協会)から「〜紅葉の朽木を歩こう〜第19回ヴィレッジウォークin朽木」の案内がきたのは9月初旬でした。
 
 申し込んだコースE「比良山系釣瓶岳・武奈ケ岳登山」実施日の2日前、主催者から「先日の降雪により、山頂付近は雪景色となりました。道中は滑りやすくなっているかと思いますので、アイゼンやストックをお持ちの方はご用意下さい」とメールが入りました。

 11月23日の勤労感謝の日、箕面だんだんクラブからも3人が参加しました。募集人員30人でしたが、積雪でキャンセルが出たためか、18人が参加して高島市最高峰釣瓶岳から、比良山系最高峰武奈ケ岳へ登りました。

 いざ登ってみると、山頂付近だけでなく、7合目あたりから雪中歩行になり、頂上付近は80センチほどの積雪になっていました。

 紅葉の比良山系を満喫するつもりが一転して初冠雪の雪中ハイキングとなり、悪戦苦闘の末、無事下山してきました。

 積雪箇所では登山道は先に歩いた人のわずか50センチ足らずの足跡を踏みながら登っていきました。下山は登り道よりさらに急勾配ですべり転んで衣服が泥んこになっていました。

 そんな厳しい登山でしたが、今秋初冠雪の稜線から広い高島と琵琶湖が一望でき、遠くには伊吹山がくっきりと見える「比良山系冬景色」は絶景でした。
この素晴らしい景色を写真でお届けします。


登山コース

 比良は琵琶湖の西岸沿いで南北に細長く伸びる山系です。真上から見ると蓬莱山をほぼ中心としたY字型の地形で、南部分を南比良、北東を北比良、そして北西を奥比良で、奥比良の南寄りにそびえるのが、この山系最高峰の武奈ケ岳(1214m)です。

 琵琶湖側からの登山は、2004年まで湖西線比良駅から接続バスとリフト、ロープウェイを乗り継いで比較的手軽に登れる山だったので、かつては数回登ってきました。

 今回は朽木観光協会の企画ですから、朽木側の国道367号、通称鯖街道(若狭街道)の朽木栃生登山口から登り、釣瓶岳(1098m)から細川越を通り過ごして武奈ケ岳へ塔頂し、下山は細川越まで戻って左折れして葛川細川へ下るコースでした。

 地図1は昭文社発行の「山と高原地図45 比良山系」から今回の登山コースをコピーしてみました。




    地図1 比良山系武奈ケ岳

  この地図は2007年版です。葛川細川町の細川から東南方向に線が伸びていますが、八幡谷で消えています。地図はそこから細川越に向かって凸の等高線が詰まった状態で並んでいます。今回の下山コースは細川越から八幡谷までは登山道のない急勾配の谷沿いを下った新しいコースでした。

 数年前に朽木観光協会の企画で駒ケ岳だったか?に登ったときも、途中の登山道から分かれてGPSで事前調査した道のないルートで登山に参加したことがありました。今回の下山道はこの朽木周辺の山々を知り尽くしたベテランそろいの方々が事前調査で作られたルートだったようです。

 そういえば、同じ出版社の「山と高原地図46 京都北山」は、北山研究会の10人が調査執筆されています。その中の執筆者、小林守さん、吉田正司さん、伊東寛治さんは、今回参加した18人を先導、中間、しんがりについてくれました。また、高島市役所からも数人が参加されていました。


比良山系雪景色

 最終集合場所である道の駅「くつき新本陣」を8時50分に出発して、栃生登山口から登り始めたのは9時20分ころでした。



     写真1 写真中央に雪を被った山が見える(10時26分撮影)

 約1時間登ったあたりでは紅葉した木々にわずかに雪が積もっています。写真1の中央には遠くに冠雪の山が見えました。

 その場所から30分ほど登ったあたりでは写真2(上)のように琵琶湖西岸の山がくっきりと見え、琵琶湖を挟んだ対岸の山並みも望めました。もう少し登ると伊吹山がみえだすので、遠望の山並は伊吹山地か、養老山地のようです。
 目を登山道に向けると、写真2(下)の釣瓶岳が見え出しました。




写真2 眼下に琵琶湖を望む(上)目前の釣瓶岳(下)、
     上下写真とも11時09分撮影


 11時09分に写した場所から5分ほど登ると、写真3中央やや左には冠雪の伊吹山が遠望できました。



    写真3 遠くに伊吹山(1337m)くっきりと!

 このあたりでは先導の人たちからずいぶん遅れていましたが、イクワタ峠北峰の標識でやっと追いつきました。

 上記「山と高原地図45」のコースガイドには「・・・・・・さらに上ってアカマツの美林をいくと笹峠出合いとなる。どちらも右に進路をとり、奥比良の主稜線に出る。
ここまで来たら釣瓶岳までは一息である。さらに潅木の茂みをぬうように南に下ると細川越がある。ブナの林やササの坂を縫いながら北稜を詰めて武奈ケ岳山頂となる」と書いていますが、このあたりから雪が深くなって先導の人がある歩いた足跡を踏み外さぬように付いていくのが精一杯でした。

 ガイドに書いている潅木の茂みは雪に埋もれていましたが、ところどころに雪の被った高い木はブナだったのでしょう。あえぎながら「頂上はまだかいな?」と聞くと「この木々を抜けないと頂上には到達しない」といわれながらも午後1時半にやっと頂上まで登りきりました。


 先に昼食を終えた人が南の方を指して「珍しく花背峠がくっきり見える」と話していましたが、へたり込んでしまって観光協会の「中央分水嶺・高島トレイル・トレッキング弁当」の冷え切った弁当を食べるのがやっとでした。



     写真4 武奈ケ岳山頂から北方向の細川越を望む

 写真4は13時48分下山の直前、武奈ケ岳山頂から細川越の方向を写しました。
 
 この後はカメラを取り出す余裕など全くなく、ストックと辺りの木々につかまりながら、数え切れないほどすべり転んでの下山になりました。
 
 細川越からのルートは西に面した斜面ですから、北西の季節風で積雪が多かったように感じました。

 細川越から下り始めたころはなんの標識も目印のテープもないのにどうして道を見出していったのか不思議に思いました。しかし、先導者がGPSでルートを確認しながら下山されたのでしょうか、先に歩いている人影も見えなくて遅れ遅れの最後尾でした。

 地図の八幡谷辺りからはアカマツ林になり、マツタケが出るようでした。このあたりでは登山道も明確になるとともに、ビニールの目印で下山の道がわかってきました。
 先導者は遅れた私たち3人のために白と緑の2本のビニールテープを幹に巻きつけてくれていました。また、無線での交信をとりながらみんなと20分遅れの4時10分、無事下山できました。

 私と同じ年配の男性も先導からかなり遅れての下山でした。送迎バスには乗れなかったので遅れた4人が伊東さんの車に乗りました。

 伊東さんが主催者の吉田さんに「今日は想定外だった」と話されていた会話が、今日を象徴した登山だった思いました。
紅葉たより(箕面公園)[2007年11月26日(Mon)]


 前回は京都の「もみじの永観堂」の紅葉たよりをお届けしました。続いて私の住む街の観光名所・箕面公園の紅葉を紹介します。訪れたのは今月21日ですが、12月2日ころまで見ごろだと報道していました。

明治の森 箕面国定公園の概要

 地図1は地図調整 鰹コ文社で明治の森箕面国定公園保護管理運営協議会発行の案内図の一部をスキャナしたものです。

 この地図の一番下箕面駅から渓流沿いにさかのぼって地図1の上、中央の箕面滝まで歩きました。




     地図1 箕面公園滝道への案内図

 もみじのてんぷらを揚げる匂いが漂うみやげ物店を通り過ぎると一の橋近くに三角柱立っています。あまり目立たないので見落としがちですが、それぞれの3つの面に箕面公園の概要が刻まれています。

 その一面を書き写してみると、「箕面山は“自然の宝庫”として知られ、シダ、ランなどの珍しい植物や、野生のシカ、サルをはじめ、多くの鳥類、昆虫類が生息、箕面川の渓流にはアマゴなどの魚類、水棲の昆虫も多く、川沿いの山肌には丹波層群や火成岩の岩脈断層も観察できます。東京の高尾山とともに、明治四年、我が国初の公園となり、大阪府の自然公園(同三十一年)明治の森箕面国定公園(昭和43年)に指定されています」。


多くの文人墨客が訪れた箕面大滝

 三角柱の別の面には、「箕面山は、北摂山地から流れ出る箕面川の流域一帯で、山で修験道の道場として古くから信仰を集め、山内の瀧安寺(箕面寺)は平安時代「聖の住所」と呼ばれました。箕面の滝は『天下賞して滝の第二とす』(摂津名所図会)と称えられ、春は桜、初夏の緑と四季折々に装いを変えて、ことに秋の紅葉は有名で西行法師や藤原定家、鴨長明、頼山陽など多くの文人墨客が訪れました」と書いています。

箕面山の風光を愛でた鴨 長明の和歌

 三角柱のもう1面には、鴨 長明の和歌「苔ふかき みのおの奥の 杉の戸に ただ声するは 鹿の音ばかり 夫木和歌抄より」と「鴨 長明(1155〜1216年)は『方丈記』の著者として知られる鎌倉時代の文学者。後鳥羽院に召されて和歌所に仕えるほど歌道に通じ、箕面山の風光を愛でていくつかの和歌を残しています」と紹介されていました。

 鴨 長明は高校時代の古文の教科書で「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止どまる事なし。世の中にある人と住家と、またかくの如し」の名文を習いました。インターネットの検索でよみがえってきました。


箕面川渓流沿いの紅葉

 この記事は11月21日に兵庫県立 人と自然の博物館主催の「気ままに植物ウォッチング〜箕面公園〜」で植物観察が目的で、シダや木の葉っぱの写真を撮るのに追われました。その合間をみて、見事に色づいた紅葉を撮りました。



    写真1 大滝に近い渓流沿いの紅葉

 箕面駅を10時に出発して約2.8kmの箕面大滝まで、植物観察をしながら2時間以上かけて歩きました。

 写真2は平日でも大勢の行楽客でにぎわっている大滝近くの紅葉を撮りました。
未だ早かったかもしれません。もう少し色づくでしょう。




     写真2 箕面大滝付近の紅葉

 滝の左側の橋のたもとに、後藤夜半(神戸の俳人 ホトトギス派)の瀧前句碑「瀧の上に水あらわれて落ちにけり」が建立されています。

 昭和32年10月建立、この俳句は戦前全国名所俳句募集の瀧の部一位入選作です」と解説されていました。

 また、滝の右手の山裾には頼山陽も母を伴ってここで一編の詩を作ったという漢詩の句碑が建立されていました。周りには赤いツバキの花が彩りを添えていました。




    写真3 頼 山陽の碑文

 かつて『鞭声粛々 夜河を過る・・・・・・』と頼山陽の「川中島」を放吟したころを思い出しこの碑文の解説と読みを書いてみました。

 「この碑文は、頼山陽が山陽の母を伴い田能村竹田(画家)・後藤松陰(学者)・坂上桐陰(伊丹の酒屋)らと共に来遊したおり滝前で作詩したものです。箕面の滝が一名「孝養の滝」と呼ばれています。頼山陽(1780〜1832年)は、江戸後期の儒者で安芸の出身。江戸に出て尾藤二洲に学び史学に通じ、漢詩をよくした人物です。主な著に『日本外史』があります。平成元年3月」という「頼山陽碑文について」が説明されています。

 その右側に大阪の漢学者 故 木崎好尚の漢詩のよみが書いてあって「萬珠(ばんしゅ)沫(あわ)をそそいで、秋暉(しゅうき)に砕く。仰ぎ視る、懸泉(けんせん)の、翠微(すいび)を劃するを。山風、意を作(な)して、気勢を争い。横さまに、紅葉を吹いて、満前に飛ばしむ」と写真3の碑文の漢詩を読み下してありました。

 今回訪れませんでしたが、大滝を上がった奥箕面トンネルから政の茶屋へ行く渓流沿いの山腹の紅葉は見事です。

 昨年11月23日に勝尾寺旧参道から勝尾寺、政の茶屋を経て箕面の大滝から駅までハイキングに出かけました。




    写真4 箕面山中の紅葉(06年11月23日撮影)

 そのとき撮ったのが写真4です。絵の具で色とりどりの模様を描いたような見事な山腹の紅葉に感激しました。もみじの永観堂とは違った大自然の中の眼前に広大なパノラマが展開していました。

 このほかに今まで工事で通行止めになっていた地獄谷方面へ行く箕面川左岸側の道も歩けるようになりました。

 紙面の関係で素晴らしい箕面の紅葉の写真を数多く紹介できませんでしたが、是非晩秋の箕面の紅葉を愛でに是非おいで下さい。



プロフィール

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