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第227話 興福寺中金堂・来秋の落慶に向けての動静[2017年09月26日(Tue)]
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 今年の3月頃から、ブログ「竹炭作り」の更新をしようとしたが、パスワードを入れても開けなくなってしまった。筆者は80歳を過ぎてしまったので、これを契機にブログを止めようと思っていた。
 その代りにホームページをつくることになった。その関連でCANPANブログへのアクセスもできるようになった。そこで、また「竹炭作り」のタイトルにこだわらずいろんな話題を書くことにした。

 そこで来秋に落慶を迎える「興福寺中金堂」の話題を書くことにした。

 はじめに
 興福寺・中金堂が来年(平成30年)秋に落慶を予定している。その内陣には、興福寺の教義である法相の祖師達を描いた大柱「法相柱(ほっそうちゅう)」も再建される。仏教に造詣の深い日本画家の畑中光亨(こうきょう)画伯が、法相柱に貼る14名の祖師画を奉納前に特別展観が大阪・高島屋で開催中であり、9月1日に出かけてきた。
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 この展示された祖師画は2018年秋に予定されている中金堂の落慶とともに、高さ10mにも及ぶ大きな柱に貼りあげられることになっている。

 この展覧会に先立つ2年前の平成27年(2015年)4月6日の朝日新聞朝刊(大阪本社)27ページに、「奈良・興福寺の特別公開2015」の記事が掲載された。その記事「中金堂 伝統と革新・進む再建『匠の技』間近で」の中で、「4月6日〜19日に開かれる。今回の目玉は、2018年の落慶をめざして300年ぶりの再建が進む中金堂の建築現場。瓦が載って工事終盤にさしかかった、巨大木造建築の細部を間近に確かめられる、最初で最後の機会だ」という。
 中金堂が江戸時代に焼失してから300年ぶりに再建されつつある建築現場の細部を間近に確かめられる、この機会を見逃すわけにはいかない。4月10日にハイキング仲間のKさんを誘って見学してきた。
 今回の「興福寺の寺宝と畑中光亨展」といい、2年前の建築現場を間近に見学できることなど、300年ぶりに再建される中金堂が一年後の落慶に向けての、またとないチャンスで、300年前の庶民にはこのように間近で見られる機会はおそらくなかったであろう。
 建築に係わった人たちはともかく、一般庶民が間近で文化財を見学できるのは、今の時代だからだろうな!とつくづく思う。それを見逃せば間近に見られることは何百年もないだろうし、今後中金堂を訪れた人たちは遠くから眺めるだけになるだろうと思う。
これは千載一遇のビッグチャンスであり、それを間近で体験したことを現地で撮ってきた写真やネットなどでまとめてみた。

中金堂

 興福寺のホームページ「国宝・文化財:中金堂」から抜粋すると「中金堂は興福寺伽藍の中心になる最も重要な建物で、寺伝では創建者を日本の律令制度をまとめ、栄光の藤原氏の基礎を築いた藤原不比等(ふひと)に置く。旧中金堂は寄棟造、桁行7間・染行4間、屋根は2重で下の屋根は裳賠(もこし)がつき、規模は当時の奈良朝寺院の中でも第1級だった……6回の焼失・再建の後享保2年(1717)に焼失し、約100年後の文政2年(1819)に仮堂として再建された。中金堂が復興されるまで、興福寺の金堂としての役目を持つ……」と解説している。
現地で配布された「興福寺中金堂再建の歩み」によると、「(平成13年)基壇の発掘調査が行われ、1300年前の版築・礎石を確認」として、写真が示されていた(写真1)。

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写真1 基壇の発掘調査

 その説明では「発掘調査の結果は、古記録の記事とも合致、室町時代中期の再建中金堂の実測図もあり、創建当初の中金堂の姿が明らかになった……」と解説している。
2015年4月10日に再建されつつある現場写真の中に「文政再建の中金堂仮堂」の写真が展示されていて拝借したのが写真2である。

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写真2 文政再建の中金堂仮堂

内陣の柱と法相柱と身舎(もや)

 内陣とは、「神社の本殿や寺院の本堂で,神体あるいは本尊を安置してある神聖な場所をいう」(デジタル大辞泉から引用)。

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写真3 中金堂の模型

 写真3の模型では、外側に並ぶ柱は、裳階(もこし)と呼ばれ、日本大百科全書(ニッポニカ)から引用すると、「寺院建築で建物外部の軒下に回した庇(ひさし)で、本屋の軸部を裳裾(もすそ)のように隠すことからこの名がある」。その内側の屋根を支える前面に8本、右に折れて4本が見えるが、これらの柱が内陣を構成している。

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 図1 一番内側は身舎(もや)

 図1で一番内側の身舎(母屋・身屋・身舎〈もや〉)とは、@寝殿造りで、主要な柱に囲まれた家屋の中心部分。ひさしはこの部分から四方に差し出される。(大辞林 第三版の解説)
図1の身舎にかかるまでの作業を展示写真などから見てみると、写真4は裳階繋虹梁組立である。

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写真4 裳階繋虹梁組立(H24年1月)

 写真5は裳階軒部材が取り付けられた状況である。

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 写真5 裳階軒部材が取付けの状況

 写真6の工事中の写真で見ると、一番内側で内陣天井組立作業を行っている。図1では身舎の柱で基壇側の左から3番目が法相柱になる。身舎には本尊が祀られるが、真ん中の左の柱が法相柱になる。

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写真6 身舎などの内陣天井組

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写真6 身舎などの内陣天井組立

寺院に使う太い柱の調達

 平成13年11月に、薬師寺東塔の解体修理を前に「水煙降臨展」を見学したとき、東塔の心柱として使われる樹齢千年の台湾産の檜も展示されていた。

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写真7 樹齢千年の台湾産檜

 この樹齢千年の檜には、写真8に示す寸法が表示されていた。根元の径が1.76m、先端で1.37mの大木である。
興福寺を見学した時、担当者に「薬師寺では台湾産の千年の檜が展示されていた」と話したところ、「現在、台湾産は輸出禁止になっている」と言うことだった。

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写真8 長さ14.2m、直径元1.76m

 東塔の心柱に使うような太い柱と中金堂の建物に使う柱とは用途が違うが、太い柱は写真1の模型で分かるように数多く丸太が使われている。
 日本財団CANPANの「箕面だんだんクラブ・竹炭作り」の「第206話 興福寺・中金堂の建築現場を間近に見る」で書いたものを引用すると、「瀧川寺社建築の瀧川昭雄会長は『古社寺の建築に必要な大径木は、直径数m、樹齢200〜400年だが、そんな木は国内にないという。平城京跡の昨年完成した大極殿で樹齢400年前後の国産材を求めていたが、300年弱のものを入手するのがやっとだった……巨大な柱36本は、直径77cm、長さ9.9mである。柱にはアフリカ・カメルーンの(アフリカケヤキ)使用しており、ヒノキに比べると赤く、木目が斑に見える……『価格は国産材の数分の一で、強度も十分』と話す。これらの柱の原木は直径が2m近く、25年も前から少しずつ購入した」と紹介していた。

 写真9は興福寺の屋根に近い箇所の複雑な構造(斗栱〈ときょう〉)である。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説によると、「斗栱とは、建築物の梁や桁 (けた) にかかってくる上部の荷重を集中して柱に伝える役目をもつ部材の総称。組物ともいう」と解説している。
太い柱の部材だけでなく、組物などにも多くの木材を使っていることがわかる。

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写真9 中金堂の屋根付近の構造

 寺院建築の特徴を「コトバンク(大辞林 第三版の解説)」で検索すると、「仏教寺院に建てられる建築。仏教とともに大陸の建築様式が伝えられたもので、礎石・土間床・組物・瓦葺かわらぶき屋根などを特徴とする。その様式には、奈良時代に唐様式を採用して成立し、その後も広く用いられた和様と、鎌倉時代に宋から新しく伝えられた大仏様(天竺様)と禅宗様(唐様)とがある」としている。

法相柱に貼られた祖師達の絵


「興福寺の寺宝と畑中光亨展」には、興福寺中金堂の模型があり、その内陣には、興福寺の教義である法相の祖師達を描いた大柱「法相柱(ほっそうちゅう)」を見ることが出来た。
模型の中の法相柱の祖師達を貼った大柱は写真撮影が禁止だったので、ネットから法相柱に貼られるだろう画像を引用した。

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 写真10 法相柱に貼られた祖師達

 2017年6月13日の奈良新聞によると、「柱絵は立像が縦180cm、横66cm、坐像が縦135cm、横86cmの大きさ。 唯識の教えを大成した無著菩薩や法相宗の開祖•慈恩大師から、 同宗中興の祖とされる鎌倉時代の解脱上人 (貞慶)までの高僧14人を、天平時代をイメージした群青色の背景の中に描いた」と解説している。

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写真11 描かれた14名の法相祖師

 写真10から立像が180cm×2に、坐像135cm×2で祖師像の貼る高さは6.3mになる。法相柱の高さは約10メートルであり、直径77cmなら円周約240cmである……描かれた14名の法相祖師は〜鎌倉時代を下限として法相の教えを確率・発展させてきた、インド・中国・日本の高僧達を順に挙げると〜。無著菩薩→世親菩薩→護法論師→戒賢論師(以上古代インド)→玄奘三蔵→慈恩大師→淄洲大師(ししゅうだいし=法相宗第二祖・慧沼)→濮陽大師(ぼくようだいし=智雄)=以上中国→玄ム僧正→善珠僧正→別当行賀→真興上綱→権別当蔵俊→解脱上人。
写真7の一番下段は世親菩薩で、その上の坐像は慈恩大師、三段目は玄ム僧正、4段目は権別当蔵俊だろうと思われる。写真7では隠れている法相柱の高僧は円周約240cmでどのように配置されているのだろうか。
立像の幅が66センチ、坐像は86センチなので、限られた法相柱に祖師たちがどのように配置されているのか、来週秋の落慶では内陣には入れないだろうが、気になることではある。

興福寺の五重塔の眺め

 長々と書いてきたが、興福寺の眺めでいえば、猿沢池に写る五重塔の眺めが素晴らしいと思っている。平成21年11月14日に個人ブログに書いた「第18話 猿沢池の亀・カメヘン?!」では、「亀は噛めへん」、大阪弁の「カメヘンで!」に加えて「カメの甲羅に鳩が載っても『カメヘン!』」のダジャレ3つを入れたブログを書いたことがある。
 その時には、奈良市内を散策して最後にたどりついたのが猿沢池であった。池の水に写る猿沢池は疲れを取るには最高の眺めだった。

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写真12 猿沢池から見る五重塔(2021年10月29日)
 
 中金堂の建設現場を見学したとき、屋根近くからから五重塔を撮った写真を紹介したい。
 今後何百年後に解体や修理が行われない限り、ドローンで空中撮影でもしない限りは撮れない写真である。その写真を紹介して筆を置くことにする。

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 写真13 中金堂屋根付近から撮った五重塔


(平成29年9月26日)






第224話 綾部市黒谷で紙すきを体験する[2016年10月09日(Sun)]
 平成28年度の箕面シニア塾は6月30日に開講式があり、プログラムBの「発見!体験!チャレンジ」を受講している。9月16日のテーマツアーは「黒谷和紙すき体験」で、生まれて初めて紙すきを体験してきたことをまとめてみた。

黒谷和紙工芸の里

 8時半に集合場所のメイプルホール前を出発し、箕面トンネルを抜け、亀岡から京都縦貫道・国道27号を通って旧口上林小学校の黒谷和紙工芸の里に着いたのは10時20分頃だった。

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地図 黒谷和紙への道(パンフレットからコピー)

 綾部市観光ガイドには「綾部は京都府のほぼ中央に位置している。古くはすぐれた織物の技術をもと漢部(あやべ)氏一族が支配したといわれ、地名になっている。製糸に係わる歴史はその後も続き、日本が誇る世界的メーカー、グンゼもこの地で創業した」と、紹介している。
 また、黒谷和紙の歴史には「今から800年以上前、戦いに敗れた平家の一団が人の少ない山間に身を隠し、周りに自生していた植物『楮(こうぞ)』と川の水を使って紙をつくりはじめ、その後この地を『黒谷』と呼ばれるようになり、江戸時代の中期、地域を治める山家藩が力を入れた事から紙漉き村″としてきて、今日では、昔ながらの製法を守る全国でも数少ない和紙の産地として知られる」と書いていた。

 バスを降りると、二階建ての校舎が目に入った。

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写真1 小学校跡の黒谷和紙工芸の里(パンフレットから)

 綾部市立旧口上林小学校が平成17年3月に閉校したことの記念碑がたっていた。その年の秋には校舎を改装し「黒谷和紙工芸の里」と「京都伝統工芸専門学校和紙工芸研修センター」(写真1)があり、今日の紙すきセンターの体験場所である。

入口の二宮金次郎像

 正面のすぐ横の桜の木の下に二宮尊徳(通称は金次郎)が背中に柴を背負い、手には本を諳んじている懐かしい像が立っていた。
 今回のシニア塾で参加した28人は平均70歳くらいだろうと思う。私のように80歳を超えた人は少ないだろうが、二宮金次郎の像は知っている年恰好なのだろう。「二宮金次郎の像だ」と聞こえてきた。

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写真2 二宮金次郎の像


 昭和18年に吹田の国民学校に入学した当時、校門横にはこの像が立っていて、礼をしてから教室に入ったように記憶しているが、そのことより校門を入る手前で上級生の女の人が「歩調をとって!」と号令をかけて緊張して門をくぐったことの方が強い思い出として残っている。
 また、講堂の前に奉安殿(第二次大戦中まで、各学校で御真影や教育勅語などを収めていた建物:デジタル大辞泉から引用)という小さな建物があった。これらは終戦後、無用の長物になってしまったから、早々に撤去されたのだろう。記憶の底にある奉安殿は比較的簡易なものでよく似たものをネットから引用した。

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写真3 戦前に会った奉安殿(ネットから引用)

二宮金次郎像は箕面の滝道でも見られるし、吹田の小学校にはまだ像が残っている学校もある。
二宮金次郎が小田原の酒匂川の氾濫で農地を流された荒れ地を少しずつ開拓していき、困難を克服していった江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。今も三戸岡道夫著「二宮金次郎の一生」という540ページの本を机に置いているが、それほど、尊徳(通称は金次郎)の生きざまに感銘を受けている。
我が家に日めくりカレンダー「心に響く先達の言葉(到知出版社)」には、「太陽の徳、広大なりといえども、芽を出さんとする念慮、育たんとする気力なきものは仕方なし」が毎月17日には、二宮尊徳の言葉が出てきて心に刻んでいる。

 「困難な状況においても、努力して学ぶ彼の姿勢を見習いましょう」という教えは今でも通用すると思っていたが、ネットで検索してみて驚いた。「全国各地で相次ぐ二宮金次郎の撤去…原因となった保護者のクレームとは」には、歩きながら読書する金次郎像に対し「子供が真似したら危険だから撤去すべき」との批判が保護者から寄せられた例、「歩きスマホを助長している」などの意見があったという。
 因みに別の検索で「原典といわれる『報徳記』を見ると、像の姿で知られるあの場面には『誦(そらんじる)』という表現が使われています。ですので、正しい解釈は『薪を背負って歩きながら、勉強した内容を暗唱していた』となります」と書いていた。

黒谷工芸の里

 見学は2班に分かれたので、私たちのグループは展示室から案内された。

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写真4 黒谷和紙工芸の里の入口


 入った突き当りに、和紙を利用した代表的な製品が陳列されていた。提燈や行燈であったが、展示室には和紙で作った座布団、唐傘、和紙の卒業証書や賞状、壁紙などに使うのだろうか、大きさサイズの和紙も展示されていた。美術品の修復にも和紙を使うことがあるという。

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写真5 代表的な和紙使用の品

 和紙で作った座布団(写真6)は珍しい製品だけに「洗濯はできるのか」といった質問が出ていた。

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写真6 和紙で出来た座布団

和紙の原料


 和紙の原料は、楮(こうぞ)、みつまた、雁皮(がんぴ)と学校時代に習ったので覚えていたが、どんな植物なのか知らなかった。この工芸の里の校庭に楮とミツマタが植わっていた。

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写真7 楮の木
 
 楮は、くわ科の落葉低木で3メートル近くになり、翌年同じ根からまた伸びる。ここ黒谷では紀州や土佐から持ち込まれているそうだが、韓国やタイからも輸入しているとか話していた。
繊維は太くて長く強靱なので、障子紙、表具洋紙、美術紙、奉書紙など、幅広い用途に原料として最も多く使用されているという。
 みつまたも隣に植わっていた。枝分れの状態がほとんど三つになっていると説明があったが、写真を撮りながらみつまたになっているのが確認できた。
繊維は柔軟で細くて光沢があり、印刷適性に優れているので、局納みつまたとして印刷局に納入され、世界一の品質を誇る日本銀行券の原料として使用されているとの説明があった。

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写真8 みつまたの木

和紙の製造工程


 黒谷和紙の里では、楮を主な原料として使っているが、毎年12月に楮畑で収穫される。「楮蒸し」は皮をとりやすくするために蒸し、熱いうちに、使用する皮の部分をはぎ取る(はぎ取ったものを『黒皮』という)乾燥させて保管する。
 「楮もみ」は、黒皮を川につけて足で踏んで揉み、「楮そろい」で表皮とキズを削り取り、白皮にして保管。
この工芸の里での作業は、@「煮ごしらえ」では水に二日ほどつけて柔らかくし、A「楮煮」作業(写真9)で煮る。

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写真9 楮煮

 B「みだし」では水洗いし、小さなゴミをとり、C「紙たたき」で餅つきのようにたたいて繊維をほぐす
 D「ビーター」:水とたたいた楮をビーターに入れ、どろどろの綿状「紙素(しそ)」にする(写真10)。

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写真10 ビーターに入れ「紙素」にする(パンフレットから)


 E「紙漉き」漉き船に水、「紙素」と「トロロアオイ」の根から出てくる粘液「サナ」を入れ、簀桁(すげた)で漉くが、トロイアオイの根の粘液を入れるとは初めて知った。

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写真11 トロロアオイの根(パンフレットから)



 「オクラに似た花を咲かせることから花オクラとも呼ばれる。この植物から採取される粘液はネリと呼ばれ、和紙作りのほか、かまぼこや蕎麦のつなぎ、漢方薬の成形などに利用される。主に根部から抽出される粘液を「ネリ(糊)」と呼び、紙漉きの際に楮、ミツマタなどの植物の繊維を均一に分散させるための添加剤として利用される」という。(ウィキペディアから引用)

 Eの紙漉き作業になると、テレビなどで見る機会があるので分かるが、それまでに5つの工程があることを知った。

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写真12 実習生の紙漉き作業


 展示室を回っている途中で、併設されている「和紙工芸研修センター」の実習生が紙漉きをしていて卒業証書の紙を漉いていると話していた。

 F「押し」漉き重ねたものをプレスし水をしぼり、G「乾燥」は蒸気ボイラ―乾燥機か板干し乾燥し、H「選別」では、紙の重さ、出来具合をチェックして市場に出荷される。

和紙でハガキづくりを体験する

 和紙つくりの体験では、上記「和紙の製造工程」のE紙漉きから始めた。
 「紙素」と「トロロアオイ」の根から出てくる粘液「サナ」を入れた漉き舟に簀桁(すげた)を入れて、3回水平に動かせた後、写真13のように垂直にしたあと、余分な紙素などを漉き舟に落とす(写真14)。

写真13 漉き舟で3回動かした後垂直にする

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写真14 簀桁の水分等を漉き舟に落とす


 写真15は漉き終わって未だ乾燥しないうちに、赤、黄、緑色の色素を筆で落とし終わった状態である。

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写真15 漉き終わった後、色を落とした状態

 紙漉きの体験はここまでで、この後参加したみんなの作品にメモ用紙に名前を書いて押しと乾燥は工芸の里の方にお任せした。

 9月16日に黒谷和紙「工芸の里」で体験してつくったハガキは、10月7日の「絵手紙で心の交流」の講座で受け取った(写真16)。

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写真16 体験で出来上がった和紙のハガキ

 紙漉きも絵手紙を書くのも初体験であった。出来上がった和紙のハガキで絵手紙を書くのはもったいないので、もっと練習してから使うことにした。

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写真17 講義資料「絵手紙とはなんですか」

「絵手紙は絵葉書と違って自分で絵を描き、自分の言葉を書き入れて、相手に手作りのぬくもりを送る」と解説されていた。絵と書き入れた自分の言葉に魅力を感じた。

(平成28年10月9日)



第222話 謎の蝶・アサギマダラの写真を貰う[2016年07月19日(Tue)]
 今年の6月1日に私市から「府民の森・ほしだ園地」へ「¥ハイキング仲間11人と出かけた。国道18号沿いの天野川の磐船峡(写真1)を歩いた。

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 七夕伝説発祥の川・天の川の案内板があり、その解説には「天の川は、交野の歴史文化を育んだ由緒ある川、生駒山系の豊かな山地自然が生んだまさに『交野の母なる川』です」と紹介されていた。

アサギマダラの写真などを貰う

 私市駅から2時間弱で「星のブランコ」に着いた。「星のブランコ」は、その橋のたもとの解説図(写真2)を引用すると、深い谷間に架かる対候性鋼板(歩道幅員1.4m、歩道部は木板米松使用)を使った40m+200m+40mの吊り橋の人道橋(写真3)である。

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写真3 星のブランコ・人道橋の吊り橋

 その橋のたもとで昼食をとった。
 一休みしたとき、Mさんから「今年の5月末に、国東半島から20分ほどの姫島へ出かけたとき、アサギマダラが20匹ほど飛んでいて写真を撮ってきた」と5枚と「姫っ子新聞(写真4)」、「姫島きつね新聞」を貰った。

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写真4 姫っ子新聞

「姫っ子新聞」には「姫島はカレイが有名です。5月にはカレイ祭りが行われます……」と紹介されていて、Mさんは姫島のカレイ祭りに出かけたのだろうか。「姫っ子新聞」の3枚の写真の下段にはアサギマダラが乱舞している様子を載せていた。

 国東半島の思い出

 国東半島へは2013年8月に大分県豊後高田市で開催された平成26年度全国高等学校総合体育大会カヌー競技に、孫の応援で行ったときの合間に国東半島を一周している。

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地図1 国東半島付近(平凡社の日本地図から引用)

 その当時、国東半島の海岸の先に姫島があることなど全く知らなかったが、平凡社の世界大百科事典・日本地図や姫島観光案内図、国東半島一周の海岸で撮った写真5を見ると、姫島だろうと思われる。

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 地図2 姫島観光案内図(ネットから引用)

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 写真5 国東半島の海岸から前方の島を見る

 
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写真6 切り立った山道の国東半島

 3年前に一周したときの印象では、地図で見てもそんない大きな半島でもなく、ずんぐりした丸型で山地が多く、海沿いの道を走っているが、海からはずっと高い切り立った写真6のような道路を走っていた

 国東半島の海岸へ出る途中には、かんかん照りの日差しの中に黄色いひまわりの花が更に暑さを増幅しているように思えた。

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写真7 ひまわりの花が満開

 国東半島の北の付け根の豊後高田市から時計回りに走ったが、途中高規格の空港道路が出てきて大分空港が入って行った。国東半島が結構厳しい山地なので、空港は沖へ埋め立てて空港を造成したようだ。

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写真8 国東半島に埋め立てられた大分空港

アサギマダラの思い出


 3年前の平成25年8月29日、ハイキング仲間とバス旅行で伊吹山山頂のお花畑を散策していたとき、アサギマダラと初対面したことを思い出す。

 東遊歩道から西遊歩道まで約1時間を散策していた。山頂では初秋の様相でサラシナショウマ(写真9)の白く長い穂のような花が咲いていた。

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写真9 初秋の伊吹山に咲くサラシナショウマ

 駐車場近くで、「アサギマダラだ!」と、私の前方にカメラを構えた多くの人がいたが、私が撮ろうとしたときにはヒラヒラと別の場所へ飛んでいき、撮ることができなかった。蝶々にしては大きく、黒と白のまだらの翅だったことを思い出す。飛び去ったところに咲いていたのは紫色の花で、調べてみるとイブキトリカブト(写真10)だと分かった。

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写真10 西遊歩道に咲いていたイブキトリカブト

 この記事を書くにあたって、伊吹山のアサギマダラを検索してみると、多くの写真が公開されていた。

貰ったアサギマダラの写真

 いろいろと思い出すことが多くて前置きが長くなってしまったが、貰ったアサギマダラ写真を披露しよう。

 写真11の裏面には2016.5.28の穂づけに「姫島灯台 南方島←→日本遠距離飛来 春秋に立ち寄りスギナビソウの蜜」と書いていた。

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写真11 姫島灯台の周りを飛ぶアサギマダラ

写真12は、4匹ほど固まって何かを舐めているのだろうか。Mさんは「翅の色が実際と違っている」と注釈していた。

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写真12 4匹集まったアサギマダラ

 実際の翅の色は、スナビキソウの花の蜜を吸っている写真13の黒色の翅をしている。

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写真13 スナビキソウの花の蜜を吸っているアサギマダラ

スナビキソウ(ネットから引用)


 ネットで「スナビキソウ 姫島」を検索すると、「305■スナビキソウはアサギマダラを惹きつける不思議な花/ムラサキ科スナビキソウ属/小さい旅、スナビキソウはアサギマダラを惹きつける不思議な花/ムラサキ科スナビキソウ属」で詳しく書いていた。
 それによると、「スナビキソウはムラサキ科スナビキソウ属の植物。海岸に生える草である。地下茎が砂の中に長い地下茎を引いて増えるので「砂引草」の名前がついた。花期は5〜8月。花は5裂し、茎の先にかたまって、集散花序という形で咲く。花は白く、中心部は黄色い。ムラサキ科の花に共通の独特な印象がある。分布は北海道、本州、四国、九州。コルク質の実が海水に浮かんで遠方に広がる。したがって、漂流物が打ち寄せる砂浜に見られることが多いという。以前は観察できた海岸でも、環境変化で消滅したところが少なくない。花には香りがあり、強く昆虫を惹きつける。特にアサギマダラという蝶が集まることに関しては、大分県姫島が有名である」と書いて、そのままを引用した。

 このデータのHPは、鰍rRS研究所で、その講師には「栗田昌弘」と写真入りで出ていた。

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写真14 「謎の蝶 アサギマダラはなぜ海を渡るのか?」の本の表紙

 次回は栗田昌弘氏の著書「謎の蝶 アサギマダラはなぜ海を渡るのか?」を引用しながら、謎の蝶を紹介してみたい。

 上記の本の「はじめに」には、「重さは0.5グラムにも満たないほどの軽い蝶で、普通にふわふわと飛んでいるだけに見えますが、何と春と秋には1000kmから2000kmもの旅をします。定期的に国境と海を渡ることが標識調査で証明された蝶は世界に一種しかありません」という。

 秋には池田市の五月山にも飛来するというから、五月山へ出かけ、貰った姫島の写真を役立てたいと思っている。

(平成28年7月19日)


第212話 青春18キップで行く蒲郡〜幡豆(その1)[2015年08月20日(Thu)]
 私たちのハイキング仲間(会員20名)では、青春18キップを利用してよくあちこちに出かけている。今回は8月9日〜10日、年寄14人で三河湾(地図−1)の蒲郡、東幡豆の民宿に1泊の旅となった。

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 地図1 渥美半島と知多半島に囲まれた三河湾


 地図1は西浦温泉の「西浦萬葉の小径」の「朝日輝く丘」の説明用の地図を利用した。地図1は上が南なので、右が知多半島、左が渥美半島である。三河湾内の一番奥深い所が蒲郡で、岬の右側に幡豆町がある。
三河湾の南西方向の先は志摩半島で、その手前に神島、答志島、菅島などが点在している。

 5年前の8月末に答志島から伊勢神宮へ行ったのも青春18キップであった。その時撮った答志島から小さく見える山なみ(写真2)は、三河湾の蒲郡辺りだろう。

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 写真2 答志島からみた三河湾の山並み(平成22年8月30日撮影)

 
 ちなみに、帝国書院「中学校社会科地図」で答志島から北東方向にみると、地図2で分かるように蒲郡であった。

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地図2 答志島から北東方向に蒲郡


 青春18キップ 

 8月9日8時大阪発の新快速「米原ゆき」前から2両目に大阪・高槻・京都の各駅から乗り合わせ、14人は京都で合流した。
 米原までほぼ満席だったが、乗り換えの米原駅7番線大垣ゆきのホームには、新快速に乗り合わせた乗客がそのまま移動した感じだった。ローラー付でカバーをかけた自転車のた団体や女性を含む団体を見ると、年配ばかりであった。

 「青春18キップ」の前身は、1982年3月から発売された「青春18のびのびきっぷ」で、主に学生の春季・夏季・冬季休暇期間に発売された。今や「老人18キップ」に様変わりしたようで、青春を謳歌している若者は見られなくなった代わりを、第二の青春を謳歌している年寄が車両を占めているといった風情であった。

 米原駅8番のホームから出発する特急「しらさぎ」の案内では、わざわざ「この特急には、青春18キップではご利用いできません」とアナウンスをしていたが、このキップを利用して旅行に出かける老人には百も承知で、特急や急行などが利用できない分を「新快速」などを使って目的地へ早く着くためのスケジュールはあらかじめ作成している。
 
 私たち年寄はトイレが近いから、トイレのある車両近くに乗ることにしているのも、このキップを利用する工夫の一つである。

蒲郡駅付近

 カンカン照りの猛暑の中、12時前に蒲郡駅に着いた。初めて降り立った蒲郡駅は道幅が広くすっきりした駅前広場だった。そこに、大きなヨットがモニュメントとして設置してあった。民宿の送迎バスの待ち合わせ場所が「ジャパンカップの大きいヨットのあたり」と書いていた。
観光交流都市「蒲郡」を象徴するモニュメントとしてアメリカズカップに参戦した「ニッポン・チャレンジ」のヨット(JPN-3)が設置されている。(フリー百科事典ウィキペディア「蒲郡」から引用)

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 写真3 蒲郡駅前のヨットのモニュメント


 南口駅前広場から竹島埠頭へ続く道路は、歩道の横に僅かに水が流れた側溝のようになっていて、「海の町・湯の町がまごおり」の幟旗が建ち並んでいて整然とした街並みであった。

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写真4 蒲郡のメインストリート

竹島と藤原俊成卿

 蒲郡駅から海までは10分程で行けるが、昼食を予約した店への道を間違えて猛暑の中をうろついてしまった。
 昼食後、海岸の方へむかうと緑で覆われた小さな島・竹島が見えた(写真5)。竹島巡回マップには周囲約680m、竹島橋は昭和61年に架けられた387mの2代目はコンクリート橋である。

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 写真5 こんもり緑で覆われた竹島


 竹島へ行く途中の竹島園地の中に「藤原俊成卿像」が目にとまった。

 竹島というと、領土権問題で島根県か韓国かでもめていて同じ字だが、琵琶湖の竹生島と竹島はつながりがあるようだ。というのは、この藤原俊成卿像の解説に「竹島は平安時代に国司として蒲郡の竹谷・蒲形地区を開発したといわれる藤原俊成卿が、三河湾に面して温暖な景勝地を好み、久安元年(1145年)〜久安5年(1149年)の当時、クスが群生していた荒地の開発をおしすすめ、蒲郡の礎を築いたと言われている。開発成就を願って琵琶湖竹生島から勧請(註)したという俊成ゆかりの竹島は、現在蒲郡のシンボルになっている……」。

(註)@神仏の来臨を請うこと。A神仏の分霊を他の場所に移しまつること。宇佐神宮から分霊を迎えて石清水八幡宮をまつったことなどはその例。

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写真6 蒲郡のシンボル・藤原俊成卿像


 さらに、蒲郡図書館のレファレンス事例詳細に「『竹島に2本竹を持ってきた』という話が載っている資料はないか」という質問の回答に、「『三河誌』p.292《古歌名蹟部(下)》に、《俊成卿が江州竹生嶋の竹を移し植えたことから竹嶋と号す》といった内容が書かれている……」と回答している。

 俊成卿像の横に解説と和歌2首があった。その左側の和歌は百人一首で「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」である。

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  写真7 小倉百人一首の藤原俊成卿


 「小倉百人一首」の皇太后宮大夫俊成の絵札には、上記の歌(写真7)がある。
 俊成は歌人としてもすぐれ、千載和歌集の選者として知られているが、鎌倉時代の代表的歌人藤原定家の実父であることも知った。
 
竹島と東郷平八郎

 上記「竹島巡回マップ」で、「竹島とは!!」には「島全体が国の天然記念物(昭和5年8月25日指定)65科238種の暖地性植物が自生しており、林床のキノクニスゲは日本の分布の北限。八百富神社に祀られている竹島弁財天は日本七弁財天の一つで、巳年と亥年にお開眼される」と説明している。

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写真8 八百富神社の大鳥居


 八百富神社前に「献額之碑」に「八百富神社の大鳥居は大正4年(1915年)9月に建立され、そこに掲げられた初代の額は日本海海戦(1905)で名高い東郷平八郎の筆によるものでありました。しかし、太平洋戦争(1941年〜45年)で供出の憂き目にあい、大鳥居から姿を消しました……」と書いていて、ボランティアガイドから、「鉄砲玉になって飛んで行った」と言っていたが、実は本殿の中に木製の額は鉄砲玉にならないから、東郷平八郎の筆の額が掲げられていることを教えてくれた。

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 写真9 東郷平八郎の筆による額


 仲間の一人が「軍人なのにしっかりした字を書いている」と感心していたが、ネットで「東郷平八郎 揮毫」で検索すると、「東郷平八郎の作品 無料査定 買い取り」などとともに、全国に揮毫した作品があった。

 フリー事典(ウィキペディア)の「東郷平八郎、米海軍での東郷崇拝」には、「第二次世界大戦後、GHQによって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われたが、米国海軍は東郷に関するものには手を触れさせなかった……」といったことを知るにつけ、幕末から明治時代の薩摩藩士で軍人の生涯を調べてみたいと思っている。

 竹島島内を散策

 島内は急な101段の石段があり、石段の横には「奉納八百富神社」の幟旗と江戸時代の燈籠があるが、遠くから見た緑の饅頭の小さな島は、木々に覆われていた。

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写真10 幟旗と燈籠と木々に覆われた竹島


 台風で屋根瓦を壊した大木や太い幹の木を指して「たぶん、タブノキや!」とダジャレで言ったのだろう。ガイドが教えてくれた(写真11)。

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写真11 大木のタブノキ


 この島は国の天然記念物に指定されているので、木を切ることができないので、社務所の横に生えているヤブツバキは写真12のように、木を優先して穴の開いた屋根しているという。

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 写真12 屋根を突き抜けたヤブツバキ


 竹島には八百富神社、宇賀神社、大国神社、千歳神社、八大龍神社の5つの神社が祀られている。その神社を通りすぎて、急な石段を下りていくと龍神岬に出た。

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写真13 龍神岬から南に三河大島が見える


 竹島の散策は、約1時間で終えた。
 昼前に蒲郡駅から南の方を見たとき、「あれ!蒲郡城かな?」と思ったが、天守閣にしては現代風に見えていて、高台に建てたお城風の建築物だろうと思っていた(写真14)。


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  写真14 西側から見るとお城に見えたホテル


 帰り道、竹島橋を渡って高台を見ると、東西に広がった蒲郡クラシックホテルであった(写真15)。

 フリー百科事典(ウィキペディア)によると、「経済産業省が認定する近代化産業遺産の一つ。1934年に蒲郡ホテルとして建てられたホテルで、城郭風の建築である」。

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写真15 近代化産業遺産の一つ蒲郡クラシックホテル


 3時半過ぎに、今日の宿泊地・東幡豆へは民宿からバスで迎えに来てもらった。
 翌日には西浦温泉の「西浦萬葉の小径」を巡ってきたが、この続きは、次回にまとめることにした。


(平成27年8月20日)


第207話 花の吉野は傘の花[2015年04月24日(Fri)]
 大阪近郊の桜の花は満開を過ぎて散りはじめたか、葉ザクラになってしまったが、花の吉野は4月中旬でも下千本が散っても、中千本、上千本さらに奥千本と長く花見ができる。
そんな桜情報をたよりに4月14日、近所のおじいさん連中7人がバスツアで吉野山へ花見に出かけた。バスツアは雨天決行で、朝8時10分に千里中央に集合し、新大阪で10人ほどを乗せて定員いっぱいのバスは一路吉野山に向った。
朝の天気予報の雲の動きを見ると、奈良地方では昼間は切れ目もあるので本格的な雨天でもなさそうだった。
「出来れば雨の中の花見は勘弁してほしいな」と祈る気持ちだったが、南阪奈道路から橿原神宮では本格的に降りだしていた。
ハイキングでは「晴れ男」と言われるほどだが、久し振りに雨に降られた吉野山の花見をまとめてみた。

傘をさして下千本から

 道の駅「大淀」でトイレ休憩の後、40分程で吉野山観光駐車場に到着した。途中新御堂筋や、南阪奈道路から橿原神宮近くの平面街路へ入る付近で渋滞に巻き込まれ、かなり遅れたと思ったが、出発時間は4時半で帰りの渋滞で遅くなるのだろうか心配だったが、「ひと目千本!日本随一といわれる桜の名所へご案内!たっぷり4時間以上ご散策をお楽しみ」と言ううたい文句だけの時間をとってくれた。
 配布してくれた「吉野山散策マップ」(図−1)には主要ポイント間距離一覧表で4時間内に復できる時間を判断で来るようにしていてくれていたが、「奥千本へはバスで行っても帰れない」と注意があった。

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図‐1 吉野山散策マップ(配布資料から)


 到着したころは小降りだったが、桜の下で弁当を開けるような雰囲気ではなかったので、京料理の弁当を車中で食べた。
 
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 バスから降りて最初に撮ったのが写真1である。

 山並みに霧が立ち込め、墨絵の世界だと感じた。満開の桜の華やかさはないが、幻想的な雰囲気を醸しだしていた。どんどん先を行った店先に、霧がたなびいた吉野の山並みを撮ったプロの写真家の写真が展示されていて、満開の桜を撮ったものより味わいがあるように思った。

 「七曲り下の千本」の解説板を過ぎたころから黒門(金峰山寺の総門)にかけて道も狭くなった上に、下の千本の花は散ってしまっていたが、花の吉野は傘の花がいっせいに開いていた。

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写真2 下千本付近の傘の花


金峰山寺

 30分程で金峰山寺蔵王堂に着いた。「吉野・大峰の古道を歩く(且Rと渓谷社)の金峰山寺では、「金峯山寺修験道の根本道場にふさわしい大建築で吉野山のシンボルである。重厚壮麗な木造建築ながら、総檜皮葺屋根や軽やかな反りが印象に残る。創建は古く、役行者が山上ケ岳で蔵王権現を感得し、その姿を桜の木に刻んで祀ったのが蔵王堂だという」と紹介している。

 寺の前の桜は葉桜になっていて、雨も小やみになっていた。

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 写真3 金峰山寺の前の葉桜


 4日前の興福寺の特別展でみた組物が気になり、金峰山寺の組物をデジカメに収めた。
金峯山寺の中心を担う本堂は、桃山時代末期の天正19年(1591年)に、豊臣秀吉と秀頼(ひでより)親子によって再建されたものである。

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写真4 金峰山寺の組物


 金峰山寺から約600m登った吉水神社から金峰山寺の方を振り返ってみると、この辺りでは葉桜になっていた。

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写真4 吉水神社から金峰山寺を望む


一目千本

 吉水神社の手前に「一目千本」と案内板が懸っている(写真5)から、ここからの眺めは一目で千本も見える豪華さを言っているが、吉野山だけの専売特許ではなく、宮城県白石川堤でも使われていた。

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写真5 吉水神社前の一目千本の案内板


 吉野山にはシロヤマザクラを中心に、約200種、3万本が密集していると言う(吉野山観光協会)。シロヤマザクラは、我が国の桜の中で最も代表的な種類で、古くから詩や歌に詠まれ親しまれてきた。主に本州中部以南に自生しており、別名シロヤマザクラとも呼ばれている。
 一目千本の案内板から遠くの山並みにはわずかに霧に包まれ、ピンク色のサクラが見られた。

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写真6 吉野の山並みにわずかに残ったシロヤマザクラ


 その横には以前に撮った満開の写真が展示してあったが、もう少し早い時期の好天では、写真7のように見られるのだと言うことだろうか。

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写真7 一目千本の横に掲示してあった写真


竹林院の群芳園奥庭を観覧

 バスを下りてから登り坂を休憩なしに1時間40分も歩いて午後2時になっていた。散策マップで観光駐車場から竹林院まで2.4キロ歩いてきた。竹林院に入り、国際観光旅館横の長いすで一服した。
 もらったカタログには「昭和56年には昭和天皇皇后両陛下御宿泊の栄を賜った歴史」と書いてあった。

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写真8 歴史を刻む竹林院の建物


 休憩した後、写真8の左隅の小さな入口から庭園に入った。

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資料1 群芳園奥庭の観覧券


 観覧券の裏面に、竹林院縁起抄が書いてあった。「聖徳太子が吉野山へ来られた時一宇の精舎を建て椿山寺と称する。其后天武天皇は専ら御願施物を寄せらる。源義経が逃げて来たとき頼朝より追討の書が当院に送られてきた。南北朝の対立後後小松天皇の勅命により竹林院と改称される……庭園は群芳園といひ豊太閤吉野観桜の際千利休が築造したもので桃山中期の名園としてとして大和三庭園の一といはれている」と書いていたが、そんな由緒ある庭と知ったのは帰宅してからである。

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写真9 群芳園奥庭の枝垂れザクラ


上千本では散りはじめか?

 竹林院を出て花矢倉展望台まで登っていくことにした。険しい登り坂で遅れに遅れて付いていった。
 山間の道だったので、左に展開している吉野の山並みは見えなかったが、民家の軒先だろうか、枝垂れ桜が満開だった。

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写真10 上千本の満開の枝垂れ桜


 花矢倉展望台近くでは標高が約600メートルと、バスが駐車している観光駐車場とは約400メートル高いだけに、写真11で見るように満開に近かった。
7人全員登ってきたところで、上千本での記念写真を撮ったのは3時だった。4時半の集合時間に間に合うように急いで下山した。

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写真11 花矢倉近くのシロヤマザクラ


吉野山の土産はくず餅を買う

 黒門近くにくると、土産店が並んでいて、日もちの少ない柿の葉すしよりも、吉野山なら吉野くずを使ったものがよいと、くず餅を選んだ。女性店員は「くずもちなら、これが定番ですよ」といわれ、仲間の3人ともこの店で買った。

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資料2 土産に買ったくず餅の包紙の一部


 帰りのバスの中で、「吉野クズを使った土産がたくさん出ているが、本当に吉野山で採れたくずだろうか」とKさんから聞かれた。

 今回のバスツアはあいにくの雨に降られたが、雨が降っていて霧が立ち込めた吉野の山並みの幻想的な墨絵の世界を見られたのだから、この感動をブログにまとめておきたいと思っていた矢先の質問だったので、調べてみたいと即座に返答した。

 たまたま吉野山観光駐車場近くに掲げてあった吉野葛の図と説明書を撮ってきていたので、以下に再現してみた(写真12)。

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写真12 吉野山観光駐車場の吉野葛の説明板


 写真12の「葛晒す水まで 花の雫かな―美しい吉野の水に晒した吉野葛とは―」を細かい字と古くなった説明板で判別しにくい文字を再現してみた。「クズは秋の七草の一つで、野生葛の根より採集した吉野葛は最高級のでんぷんで古来より原始食、自然食の元祖である。吉野葛は吉野地方において俗界を離れた山伏や修験者たちが自給自足の糧としてまた山間僻地の人達の保存食、飢餓食として、古くは平安時代の頃よりつくられた。古書や文献によれば吉野山脈、金剛葛城山脈に産する葛は山地保存条件や気候により最高とされ、現在では自然食や病中病後の滋養食として格別に珍重がられている。吉野山で販売される吉野葛はその名のとおり、伝統と品質を守り厳選を重ね極寒に製造され吉野山並に奈良県の特産土産物品として推奨されているものである」と説明している。

 ネットの「吉野葛製造事業協同組合の団体概要」には、「現在では根を掘る人も、良質な葛根が掘れる山も少なくなってきています。そのため、古くから先祖代々受け継がれてきた吉野晒という製法と、『吉野本葛』、『吉野葛』を守り続けていこうと、昭和58年に葛の製造及び加工を行う事業者または組合の地区内に事業場を有する者からなる組合を発足しました」と書いていた。

土産を買った店に電話で聞いてみると「鹿児島県で採った葛の根を購入している。昔のような晒す方法ではなく、吉野の水を使って工業的に晒している。葛の根は吉野山ではないだろうが、隣の天川村に唯1軒だけ昔の製法でされているところがある」という答えだった。

 別の店に聞いてみると、「掘り子さんが山に入って採ってきているところもあるし、鹿児島県から葛の根を仕入れているところもある」ということだった。

 生憎雨が降ったり止んだりの空模様だったが、バスツアは駐車場が満杯になっていた。花の吉野へ来た人たちは、土産物として「吉野くず餅」を買って行く人も多い。これだけ多くの人が押し寄せてきては、古来からの伝統製法というわけにもいかない。まさか中国からの輸入のクズ粉なら、はっきりと表示してもらいたいが、時代にあった製法ならばこだわることもないと思う。

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写真13 冷やした土産のくず餅



 買ってきた「吉野くず餅」は冷蔵庫で冷やして、子供や孫たちが来た時にみんなで、黒蜜ときな粉をまぶして美味しく食べた。

(平成27年4月24日)



第206話 興福寺・中金堂の建築現場を間近に見る[2015年04月13日(Mon)]
 2015年4月6日の朝日新聞朝刊(大阪本社)27ページに、奈良・興福寺の「特別公開2015」の記事が掲載された。
「中金堂 伝統と革新・進む再建『匠の技』間近で」の中で、「4月6日〜19日に開かれる。今回の目玉は、2018年の落慶をめざして300年ぶりの再建が進む中金堂の建築現場。瓦が載って工事終盤にさしかかった、巨大木造建築の細部を間近に確かめられる、最初で最後の機会だ」という。

 最近は姫路城など建築現場を間近に見学できるイベントが行われているが、「巨大木造建築の細部を間近に確かめられる。最初で最後の機会」という言葉に誘われて10日の雨模様の中で、見学に出かけた。

中金堂(ちゅうこんどう)の位置

 図−1の「興福寺境内案内図」には、南大門跡を中心に中金堂(再建計画中)、東金堂、西金堂跡が配置されている。

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図−1 興福寺境内案内図


 東大寺南大門や法隆寺南大門などと耳にするので、「南大門」をコトバンクで検索すると「都城・仏寺などで、南方に建てられ、中心的な建物に通じる門。ふつう、正門とされる」と解説している。 また、「金堂」とは「仏教寺院で本尊像を安置するために造られた堂。仏殿,本堂ともいう。塔の背後または横に建設される。奈良時代には一寺院で複数の金堂を併置した例もある。最古の遺例は法隆寺の金堂 (7世紀後期)。堂内を金色に飾ることから名付けられたとされる 」と解説している。
 興福寺の売店で買った「興福寺のすべて(鰹ャ学館)」には、東側の本坊、大湯屋、菩提院大御堂を除けば、奈良時代の伽藍復元図とほぼ同じ配置である。その復元図の解説によると、「創建当初、どのような全体計画があったのか不明であるが、結果的には塔は一つしか造営されず、その対象位置に南円堂が建つことになった」と書いていた。

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写真1 文政再建の中金堂仮堂(展示の写真から)


 藤原不比等が和銅3年(710)に着手し、7年(714)に金堂供養をした。歴史の荒波の中で7回の火災・再の建後、文政2年(1819)に仮再建された建物(写真1)が、老朽化したために平成12年に解体された。今回の特別公開では、再建中の建物の横の「国宝館」には、写真1の基壇の発掘された宝物が展示されていた。

中金堂の大きさ

 規模は東西36.6b、南北23b、高さ21.2bである。 写真2の模型は1/20だとか聞いた。

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写真2 中金堂の完成模型


 上記記事の中に「国産の大径木が枯渇状態のため、カメルーン産のアパ(アフリカケヤキ)の柱やカナダ産ヒノキの梁を用いた」と書いている。「2年前の11月に開催された薬師寺東塔の水煙展では樹齢千年の台湾檜の大木が展示されていたのに、アフリカ産の大木なら、熱帯雨林の中だから、柔らかい木ではないのか」と思った。

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 写真3 薬師寺水煙展で展示された台湾檜


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写真4 薬師寺東塔の台湾檜の大きさ


 写真3と4は、薬師寺で撮影したものである。そのことを係員に聞くと、国内産は規制があって使えないし、台湾は輸出禁止だと言う。

 ネットの「古社寺の修理・木の情報発信基地」の中で、中金堂の建設を担当している瀧川寺社建築の瀧川昭雄会長は「古社寺の建築に必要な大径木は、直径数m、樹齢200〜400年だが、『そんな木は国内にない』という。平城京跡の昨年完成した大極殿で樹齢400年前後 の国産材を求めていたが、300年弱のものを入手するのがやっとだった……

 巨大な柱36本は、直 径77cm長さ9.9mである。柱にはアフリカ・カメルーンの(アフリカケヤキ)使用しており、ヒノキに比べると赤く、木目が斑に見える……『価格は国産材の数分の一で、強度も十分』と話す。これらの柱の原木は直径が2m近く、25年も前から少しずつ購入した」と紹介している。

 写真5は中金堂の建築現場の各工程段階の写真を展示していたのを撮影したものである。

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写真5 建物構造図(展示の写真から)


写真5 建物構造図(展示の写真から)


文章では表現しにくいので、展示していた写真をデジカメで撮って利用させてもらった。
写真2の模型の外側の裳階(もこし:寺院建築で建物外部の軒下に回した庇[ひさし]で、本屋の軸部を裳裾(もすそ)のように隠すことからこの名がある:大辞林から)。

 巨大木造建築の本体を支える36本の柱はその内側で使われている。一緒に見学にいったKさんが写真2の完成模型の柱の本数を数えて庇を受ける柱は36本とは別であることを教えてくれた。だから、写真5の外両側低い柱2本は裳階(もこし)で、その内側の5本の太い柱(全体で36本)が巨大木造建築の重量を支えていることが写真5の構造図で理解できた。

 中金堂の大きさは、東大寺大仏殿(江戸時代)の大きさは、東西57b、南北50.5b、高さ・46.4bに次ぐ巨大建築とだそうだ。東大寺大仏殿の天平創建時の大きさは、正面11間(86b)、奥行 7間(50.5b)、高さ 47bともっと大きかったという。

建物の基礎・柱・壁

 天平時代の巨大木造建築の中の、大仏殿に次ぐ中金堂の柱には、朝日新聞の記事によると、「礎石には半球状の突起を設け、そこに36本の柱を据えた。地震でも突起が柱に衝突せず、揺れの力を逃がすことができる」と書いて、今回の見学でぜひ見たいと思っていた。
見学の時点では、屋根瓦まで載っている状態だから、柱の突起も展示の写真で見ることができた。

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写真6 裳階柱だぼ穴・礎石だぼ(展示の写真から)


 写真7の基礎施工図によると、裳階柱だけでなく、建物本体の柱にも、だぼ穴、礎石だぼが施工されていることが分かる。

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写真7 基礎施工図(展示の写真から)


 写真7には「石造り出し ダボ」の下は花崗岩でその下は無収縮モルタルを使うよう指示されている。また、本体を支える鉄筋コンクリートは高耐久性コンクリートである。均しコンクリートとその下の捨てコンクリートの下の砂地盤と鉄筋コンクリート空気抜き穴を設けている(写真8)。

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写真8 基礎工の詳細図(展示の写真から)


 写真8の柱の下に「当初礎石」が書いてある。ネットで「礎石」を見ると、「建造物の基礎に据えられ、建物の重量を地面に伝える石材で、柱や土台が直接地面に触れて腐食劣化するのを防ぐ。飛鳥時代に仏教建築とともに移入された技術とされる。礎石を用いることで建物の耐用年限は飛躍的に延びるが、掘立柱建物と異なり、柱が自立しない」と説明している。今回の再建では、鉄筋コンクリートで高耐久性コンクリートを使っている。創建当初のような建物下の環境をコンクリートで遮断してしまうと、湿気等で柱の腐食が考えられるので、100φの空気孔を設けたと考えられる。

 巨大木造建築の耐久性を高めるために、柱の腐食などを防ぐ工夫がなされていることが分かった。係員に聞くと、シロアリ対策もしていると言うことだった。

 このほか、地震対策として建築物では柱だけでなく、壁が重要な働きをしている。ネットの「耐震補強工事の必要な建物−OCN」(www32.ocn.ne.jp/~toh/w_taisin1.htm )によると、「木造建物の構造を考える上では3つの要因が重要となります。

 1つめは壁の働きです。木造建物の水平力(地震、台風による力)には柱でなく壁が抵抗します。壁の種類には、弱い壁(雑壁)と筋違いを配したり、面材(構造用合板等)を使用した耐力壁とがあります。建物全体の耐震性を高めるには、この耐力壁をバランスよく配置する事が大切です」と解説している。

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写真8 耐震補強壁の組立(展示の写真から)


 建てられた当初、今から300年前の文政再建の中金堂仮堂(写真1)には使われていないこうした工法は、「伝統と革新」の中で、匠の技が伝承されていくのだろう。

仏閣にみる組物

 神社やお寺で建物を張り出して支えている写真9の構造をよく見かけるが「組物」という用語だとは知らなかった。

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写真9 柱上の軒を支える組物


 大辞林 第三版の「組物」よると、「斗拱・抖拱(ときょう):木造建築で,斗(ます)と肘木(ひじき)を組み合わせて,柱の上に置き,軒桁(のきげた)などを支えるしくみ。主に,寺院建築の深い軒を支えるために用いる。斗組(ますぐみ)。とぐみ。組物(くみもの)」と説明している。

 中金堂の建築現場に入る前の展示場には、組物の実物大の一部が展示されていた。写真9のように離れて見るのと違って、写真10でみた実物は大きかった。

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写真10 展示された実物大の組物


「梁などはカナダ産のヒノキを集めた」というので、カナダから輸入したヒノキは相当太い木材ものだろうと、係員に聞くと、「梁はそんなに大きなものはなく、小物である」ということだった。
 確かに現地で撮ってきた写真11を見ても、大きな梁は見当たらなかった。 

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写真11 複雑に組まれた組物


 建築現場でKさんが「組物(写真9)で壁の向こう側はどうなっているのだろう」と質問してきた。「対称形ではないだろうが、壁の向う側の組物と荷重を支えるのにバランスが取れている」と返答した。
 下に降りて、展示の模型で確認してみた。柱を中心に壁の外側は写真9や写真11にみられル構造になっている。壁の内側は梁が長く伸びていた。

 写真12は展示写真の「裳階(もこし)隅斗拱」で壁の内側部分の構造がよく分かった。

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写真12 裳階隅斗拱(展示写真から)


興福寺の屋根

 今回の特別公開は、足場が組まれた状態で、上りの仮設用階段と下りと同じなので交互に上り下りすることになる。足場の3階は屋根を間近に見ることができた。

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写真13 興福寺の屋根と防護した鴟尾


 屋根のてっぺんの白く防護した鴟尾(しび)は、展示場に2分の1の模型(写真15)が展示されていた。その解説には「鴟尾という言葉が現われたのは中国晋代(3世紀から5世紀)のこととされ、魔除けや防火のまじないとして宮殿や寺院の大棟両端に飾られ、日本には百済から伝わった。鳥類でもなく、魚類でもない鴟尾は古代の役人たちの革靴に似ているので、沓形(くつがた)ともいわれ、次第に鯱(しゃち)に変化、移行した。興福寺からは出土していないので、現存する唐招提寺金堂や古代寺院から出土する鴟尾の姿にならい、中金堂出土の鎮壇具唐草文をアレンジして造った、2分の1の模型」と説明書があった。

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写真15 展示された1/2の鴟尾の模型


 3階の屋根を見学したついでに、足場ネットがない所から東金堂と五重塔を撮った。こんな機会でないと撮れない撮影ポイントであった。

 五重塔などの写真を撮っていたとき、係員が「中金堂の次は五重塔の再建になるだろう。何しろ今の五重塔は室町時代の再建だから」と話されていた。Kさんは「猿沢池から見る五重塔が見られなくなったら、景観が台無しになるね」と応えていた。

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写真16 中金堂の屋根から撮った東金堂と五重塔

 五重塔(国宝)は天平2年(730年)、光明皇后の発願で創建された。現存の塔は応永33年(1426年)頃の再建であるから、589年前の建築である。木造建築物がこれほど長く持ちこたえているとは驚いた。

 古都奈良の文化財が1998年に世界遺産として登録されている。雨模様の中を興福寺の特別公開の見学者の中に外国人もけっこう見受けられた。

 興福寺中金堂の特別公開では、伝統を重んじながら、貴重な文化財を末永く後世に伝えていくために、最新の工法を取り入れていることを知ることができた。

(平成27年4月13日)



第163話 大阪城周辺はソメイヨシノが満開![2012年04月11日(Wed)]
 昨日は好天に恵まれ、11人のハイキング仲間と大阪城周辺の花見に出掛けた。明日は雨で荒れ模様であるとの天気予報が出ていたこともあって大勢の花見客でにぎわっていた。
11時にJR大阪城公園駅に集合だったので、さすがにこの時間にはサラリーマンの姿は少なく、家族連れや若い女性が多かった。
 


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写真1満開の桜の下のにぎわい


 4月10日の夕刊「桜だより」の10日11時現在で、大阪城公園・毛馬桜之宮公園は満開と出ていたから、まさしく満開の良い時期の花見となった。

 思いっきり開いた花びらを近づけて撮ってみた(写真2)。


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写真2 満開の桜の花びら


 持ってきたビールや清酒、焼酎で喉を潤して一息ついたところで、大川沿いの桜並木を上流に向かって歩いていった。

 ネットで「毛馬桜之宮公園 桜」で「桜名所 全国お花見900景2012 - Walkerplus」を検索してみると、関西の人気お花見スポットランキング2位(2012年4月11日現在)にランクされている。

 その情報には「開花状況 満開で、大川の毛馬洗い堰から下流の天満橋まで延長4.2キロの河川敷を利用した河岸公園で、右岸には造幣局や泉布観など明治初期を代表する建築物がある。桜並木は天満橋から桜之宮橋(銀橋)あたりを中心に、ソメイヨシノ、山桜、里桜など約4,800本が植えられており、夜遅くまでたくさんの花見客でにぎわう」と解説していた。

 ちなみに、関西の人気お花見スポットランキングの1位は、「兵庫県・西宮市の夙川公園」で、3位には「京都府八幡市の淀川河川公園背割堤地区」、4位には大阪城西の丸庭園で、近くに桜の名所がそろっている。


 夙川公園の河川では船の行き来はできないが、毛馬桜之宮公園は大川の両岸に桜並木が広がっていて、花見客を乗せた船が行き来していた。

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写真3 花見客の船が行き来する大川


 乾杯を始めた11時半過ぎには未だ露天はブルーシートで覆われたままだったが、国道1号線の桜宮橋近くに出てきた2時過ぎには、桜のトンネルの両側に屋台が開店し始めていた(写真4)

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写真4 桜のトンネルの両側の屋台

 昨日撮ってきた写真をパソコンに取り込んで見てみると、大阪城外堀の北側の「桃園」で満開の桃の花を撮っていた。

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 写真5 大阪城外堀北側の桃園


 桃の花も写真5に見られるように、満開に咲いていたが、桜の花の賑わいにくらべて、いかにも寂しい感じがした。

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写真6 満開の桃の花

桜も桃も同じバラ科でとても似ているが、写真2と写真6を見比べて見ると違いがわかる。



 ネットの「All About特集 お花見」には、「桜」は「・花柄がひじょうに長いので、枝からこぼれんばかりに花が咲く・花芽が房状についているので、花数が多くとても華やか。
・花びらの先が割れている」で、「桃」は「・花柄がひじょうに短いので、枝に沿うように花が咲く・節の中央に葉芽があり、その両側に花芽が1個(つまり1節につき2個)なので、梅よりも華やかに見える・花びらの先が尖っている」と解説している。

 続いて、「種類によっては例外もありますが、基本情報として押さえておくと役立つとして、イラストやマーク化された花びらも、梅=丸、桃=尖っている、桜=先割れ になっていますから、それを思い出してみてもいいでしょう」と書いていた。

 天気予報のとおり、大阪では午後から本格的に雨が降り出した。この雨で路面の水溜りに、散った花びらが一面に浮かんでいることだろうか。


(平成24年4月11日)
第158話 以楽公園(枚方市)の紅葉[2011年11月23日(Wed)]


 今年の秋は暖かい日が続いてきれいな紅葉が期待できないと思っていたが、このところの急な冷え込みで近所の公園でもすっかり色づいてきた。

 昨日は枚方市香里ヶ丘6丁目にある「以楽公園」へ出かけてきた。ハイキング仲間のKさんからふだんは開放されていないが、「平成23年11月10日木曜日から平成23年11月24日木曜日まで庭園内を散策できる」と企画してくれた。


以楽公園

 京阪電車枚方公園駅に11時に、いつものハイキング仲間が8人集まった。企画してくれたKさんは昨年寝屋川に引越ししてきたばかりで、他のメンバーも枚方市内のことを知らなかった。

 駅から急な坂道を登って「御茶屋御殿跡」に登ってしまった。この辺りで出会った人は「以楽公園」と聞いても全く知らなかった。この間約30分ロスしたが、12時にはやっとたどり着いた。
 道路沿いから「以楽(写真1)」と書いてあったので、目的地は直ぐにわかった。




写真1 以楽公園


 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の概要によると、「以楽公園(いらくこうえん)は、重森三玲の作庭による池泉回遊式の日本庭園である。 中央に自然の湧水による苑池を囲み、曲水、滝石組の築山、四方に春夏秋冬を表現した平安式の庭を配置している。

 香里団地の開発に際して日本住宅公団が計画、香里ヶ丘環境美化協会の資金協力を得て1961(昭和36)年4月に完成した。 団地の中に有る庭園として、「みんなが一緒に十分楽しむ庭園」という願いを込めて「以楽苑」と命名される。 しかしその願いに反し立ち入りを拒むように周りを柵により囲まれ、長い間十分な手入れがされないまま荒れるに任されていた。

 20世紀末になり、重森三玲の関係者により重森三玲の作という事が知らされた事により、改めて1998年に整備が行われた。2006年現在は不定期に開放されている」。

 枚方市役所・土木部公園みどり課の「以楽公園秋の一時開放」は、平成23年11月10日木曜日から平成23年11月24日木曜日までの午前10時から午後4時まで」で、明日1日だけである。


以楽公園の紅葉

 フリー百科事典によると、「重森三玲が作庭した庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある・・・・・・」。

 池の周囲を回遊できる庭園で一時開放以外は、庭園内を散策することができないし、寺院などのように拝観料が要らない。

 身近な場所なので、ぜひ園内を回遊されることをお勧めする。ブログに掲載できる限度の5枚の紅葉の写真を掲載してみた。










(平成23年11月23日)
第155話 安治川沿いの史跡を訪ねて[2011年10月07日(Fri)]


 第150話、第151のブログ「平洋丸の進水式」で安治川河口の日立造船桜島工場で大型船が進水した話題を取り上げたところ、この安治川沿いで育ち、箕面市在住のU市議からコメントをいただいた。
 市民活動の場で付き合いがあり、Uさんの友人で大阪市西区九条の「川沿いを歩ける町づくりの会」のK代表に、九条の史跡を案内してもらう機会をつくってもらった。
江戸時代初期の新田開発から明治のはじめには外国人居留地として開かれた川口エリアをはじめ、旧府庁が置かれるなどした江之子島エリアなどの史跡を訪ねてきた。


九条 川沿いあるきMAP

 昔の面影を残す狭い九条の路地裏を抜けて9月30日午後3時にK代表と落ち合った。
 当日は雨模様だったが、A3版の「あるきMAP」には、濡れても大丈夫なようにラミネート加工した説明図を準備してもらっていた。




 図1 九条 川沿いあるきMAPの一部


 この地図は安治川からJR環状線、尻無川、木津川を囲んだ地図で、全体は28の史跡が写真入りで解説付きだったが、本稿では安治川沿いの居留地跡周辺の地図に絞った。

九条村の古地図から

 図2は「貞享四年新撰増補大坂大絵図」から九条村を中心に切り取ったものである。
 絵図の右側中央辺りは、碁盤の目の町並みが描かれている。当時の大坂は三郷といって大川で南北に二分されていて、北組(絵図●印)、南組(絵図▲印)それ以外は天満組だった。




 図2 貞享四年(1687)新撰増補大坂大絵図の一部


 本渡 章著「大阪古地図むかし案内」(創元社発行)によると、「大阪平野は大川・尻無用・木津川・中津川・神崎川などの河川がはこぶ土砂が堆積して、面積を広げていった。慶長年間(1569〜1615)の末ごろから、沼沢地や海辺の干拓による新田開発がすすみ、江戸時代にはさらに盛んになって、寛永(1624〜)以後の200余年間で水際線はおよそ4キロメートルものびた。大坂という大都市の形成には、新田の造成が大きく関わっている……


 九条島は中津川・大川の河口に発達した砂洲である。もともと南浦とよばれていたが、寛永元年(1624)に幕吏の高西夕雲が幕府に願い出て、地元の池山新兵衛らとともに開発をはじめ、幕府お抱えの儒学者、林羅山が衢壌(くじょう)島と命名した。延宝年間(1673〜1681)この洪水のとき、一本の木笏(モクシャク)※1が漂着し、京都九条家のものと判明したので九条島と字を改めたという……」と、この町の来歴を書いている。

*1木笏……東帯装束の着用に際して威儀を整えるために手に持った板片。長さがほぼ1尺なので、シャクの名になった。


大仏島と古川

 安治川沿いを歩いていて「元古川が流れていた場所で橋があったのでその名残だ」とか「大仏島と呼んでいた所です」と説明を受けたが、上記「貞享四年大坂大絵図」には記載されていなくてよくわからなかった。

 ネットの検索で「摂津名所図会」の「大仏島」に掲載されていた「文化3年(1803)」の絵図には古川が安治川に平行して流れていて、囲まれたところが大仏島だった。




図3 文化3年(1803)の絵図


 その大仏島の川口3辺りでは「富島」の名を冠した会社が目についた。

 上記ネットの「大仏島」の説明に「富島(大阪市西区川口3)は、もと大仏島と呼ばれていた。江戸時代三傑僧の一人・公慶が、永禄10年(1567)に焼失した東大寺大仏殿の復興を志し、全国勧進行脚の途中、この地に松庵をむすび付近一帯の浄財寄付を募ったところ、膨大な喜捨※2が集まったので大仏島と呼ばれた。後に「富んだ島」ということから富島に変わったという。古川町とともに元禄16年(1703)大坂三郷のうち天満組に編入された。幕末には萩藩の蔵屋敷もあった」と解説してあった。

※2進んで寺社、僧や貧者に金品を寄付すること

 昭和の中頃まで安治川には12ヶ所の渡しがあったそうで、「富島の渡しの跡」の碑が図1のHにある。


安治川開削

 安治川の開削で九条の新田開発は進んだが、図1、図2から新川(安治川)がなかったらと絵図を見てみると、九条島が川の流れをふさぐかたちで横たわっていて洪水の一因であり、大坂に出入りする船の運航にとっても障害になっていた。

 「安治川と河村瑞賢紀功碑」には「もとの九条島(衛攘島)はデルタ地帯で、たび重なる淀川洪水のため、被害が絶え間なかった。そこで、貞享元年(1684)2月幕府は治水の専門家である河村瑞賢に命じ、九条島を掘り割り、淀川の水を一直線に大阪湾へ導くことにした。4年の歳月を費やして、貞享4年に開削されたのが安治川である。はじめ新川と呼ばれたが、元禄11年(1698 )この地が安らかに治まるように願いをこめて、安治川と改名された」と書いている。

 ネットの検索では長さ約3km、幅90mで、貞享元(1684)年2月11日起工、4年余を費やし、貞享4年4月竣工を見た。

 この辺りを歩いていると、「海の御堂筋」の幟(のぼり)旗が目についたが、「淀川の水を一直線に大阪湾へ導いた」と言う文言が、一直線に南北を貫く御堂筋になぞられたネーミングだろうかと思った。

 安治川沿いの護岸から繋留した船へ行く階段を登って安治川から下流の大阪湾を望んでみた。




写真 安治川左岸から大阪湾を望む


 写真の遠くにJR環状線のトラスドランガー橋が小さく見える。

 安治川の開削により、大阪湾から直接蔵屋敷に接岸できるようになった中之島や堂島には蔵屋敷が増えていった。
 大坂蔵屋敷表(天保14年)によると、125の蔵屋敷のうち、中之島に42、堂島附下福島23の蔵屋敷があって、数多くの船が往来していたことがうかがえる。

 治水目的で作られた安治川は、水運の発達で町は繁栄したが、治水では目立った効果は得られなかったようだ。

 安治川開削から20年後の1704年2月に起工し、柏原から堺の間約14.5kmに新しい流路を開削する大和川付替工事が8ヶ月で完成した。これで、河内平野は、大和川からの洪水から解放された(大阪府「治水のあゆみ」から)。


河村瑞賢

 河村瑞賢が治水の専門家になるまでを、中央公論社「日本の歴史16」で調べてみた。

 要約すると「瑞賢の父の代までは伊勢の国司北畠氏に仕え、北畠氏が信長に滅ぼされたのちは蒲生氏郷に仕えていたという。生まれつき利発な子で、片田舎にうもれさすのは惜しいと思ったか、父は二、三分の金を与えて江戸へくだらせた。6、7年間働いたが、日の目を見なかった。

 大坂は天下の台所、ここへは諸方から人が集まって成功していると聞いて小田原まで行ったとき、一老人が、『江戸には天下の武士が集まっていて諸国の金銀がたえまもなく流れこんでいる。人の気性も大きく、金づかいもはでである。大坂は商業が盛んだといっても江戸とは比べられない。また上方の人は、はでな使い方をしないから、いっきょにもうけることはできない。江戸を去るのは愚かなことだ』と諭された。

 江戸に戻って日雇頭として働き、人足の口入れ稼業を始め、材木屋までなった。才能のすぐれた人であったから、多数の者が入りこんで、手足を働かせ知恵をめぐらせているなかで、しだいに頭角をあらわしたのだろう」と書いている。

 世界大百科事典(平凡社発行)によると、「江戸の明暦の大火に際し、木曾山林を買占め莫大な資産を作ったという。さらに土建業を営み、幕府や諸大名の工事を請け負った。

 1670年(寛文10)幕府より奥州信夫郡の幕領米数万石を江戸に回漕するように命ぜられた。瑞賢は沿岸を現地踏査し、刷新的回漕策でこれを行い、さらに72年に、出羽国村山郡の幕領米の江戸回漕にも従事し、房総半島を迂回する東廻航路(東廻り海運)と日本海沿岸より下関、大坂経由の西廻り航路を確立した」という。


安治川開削でにぎわった九条

 図1のDは川口運上所跡・川口電信局跡で、「慶応3年(1867)この地に大阪税関の前身である川口運上所が設置され、外国事務や税関事務を取り扱っていた。明治3年川口運上所内に川口電話局が開設され頭まで電話線が架設された。
 これは日本最初の電話線であり、大阪電信の発祥の地である」と説明書きの横に居留地付近の地図があった。




  
図4 川口居留地付近の地図


 図4は明治時代の地図だろうが、地形そのものは大きく変っていないなかで、当時は大阪府庁や警察、大阪市江之子島庁舎など官庁街であったことがわかる。

 このほか、プール女学院跡、現大阪女学院跡、現平安女学院跡、桃山学院跡、雑喉場魚市場跡など案内してもらった。

 かつてにぎわっていた九条界隈は、高層マンションの建設など都心回帰で人口増加率が高いという。


 9月に大阪市内街並み再発見でハイキング仲間と空堀通り付近を散策してきた。

 今回は九条界隈に生まれて70年近く暮らしてこられたK代表に、同行してもらって史跡を解説までしていただいた。充実した「街並み再発見」の午後だった。


(平成23年10月7日)


第149話 バイカモの花[2011年08月30日(Tue)]


  残暑お見舞い申し上げます。
 
 今年の夏休みも残り1日になってしまった。毎日がサンデーで特段夏休みは関係なさそうだが、近くに住む孫たちが我が家にやってくるので彼らの生活に合わせたリズムになりがちだ。
 今年の夏休みの印象に残ったことを思い出して書いてみた。
 近からず、遠からずの日帰りで涼しい夏を過ごしたいと、8月6日に車で孫たち5人とJR醒ヶ井駅近くの地蔵川に咲くバイカモの花と養鱒場に出かけた。


平成の名水百選:「居醒の清水」

 昨年4月初旬にハイキング仲間と関が原宿から醒井宿までをウォーキングしたとき、「居醒の清水」を知った。



写真1 コンコンと湧き出る居醒の清水


 写真1の「居醒め清水」と書いた案内板の辺りからコンコンと湧き出ている清水は、霊仙山(りょうぜんざん)に降り注いだ雨が長い年月をかけて地下を流れ、その麓の一つが居醒の清水となって湧き出ている。

 昨年4月のハイキングでは冠雪の伊吹山(1377m)を右手に見ながら歩いたので、この清水も伊吹山地からだろうと思っていた。

 あらためて日本地図(平凡社世界大百科事典「日本地図」)によると、鈴鹿山脈の最北に位置する霊仙山(1094m)が醒井に近いことが分かった




図ー 醒ヶ井近辺の地図


 醒井養鱒場も、この霊仙山の麓の湧き水を利用してニジマス、ビワマス、アマゴ、イワナの渓流魚が育てられている。

地蔵川に育つバイカモ(梅花藻)

 中山道69次の61番目の宿場町として栄えた醒井宿は、街道沿いに居醒の清水から湧き出た水が、地蔵川となって流れている。
 その東側の山が迫った狭いところを名神高速道路が通り、西側には東海道本線が走っていて、その狭いわずかな平地を中山道が通っている。
 古い時代の建物は建て替えられているが、道幅もほとんど変わらない街道筋は、宿場の風情を残していた。

 昨年訪れたとき、地蔵川沿いはサクラが満開だった(写真3)。




写真3 地蔵川沿いの街道(平成10年4月6日撮影)


 「ハリヨ バイカモ 平成5年3月、醒井区」の案内板にバイカモのことが書いてあった。

 「バイカモ(沈水植物 キンポウゲ科)は、水温15度前後を保つ澄んだ湧水を好み、川の水底に群生し、流れに沿って這うように育つ鮮やかな緑色をした多年生水草である。手のひら状の葉が特徴で長さ50cmの藻である。初夏から晩夏にかけて水面上に梅花状の白い花が咲く。バイカモに寄生する水生昆虫は、ハリヨの好物であり、バイカモが繁殖することにより急流をさえぎり、ハリヨの巣づくり・産卵に絶好の場所を提供している」と解説していた。

 昨年4月に見たバイカモは、春未だ浅かったせいか、緑色の葉が川の流れに沿って沈んだ状態だった。
 今改めて昨年の写真を見ても、川の流れが緑色でわずかに葉っぱだと判る程度だった。

 今年8月にみたバイカモは澄んだ清水に川一面に緑色の葉っぱが写真4に見られように、流れに沿ってなびいていた。




 写真4 這うように流れにそうバイカモ


 そのバイカモの花は、小さな白色で花弁は5個、倒卵形で基部は黄色である。
 川べりからズームで花をアップして撮ろうとしても、なかなかうまくいかなかった。
 中学1年生の孫が水に入っていたので、バイカモの葉を踏まないように近づいて撮ったのが写真5である。




写真5 水面から顔を出したバイカモの花



 バイカモの花を見に行ったこの日は、カンカン照りの蒸し暑い日だった。孫たちは地蔵川で水温が約15度の川の中に足をつけて遊んでいた。

 昼食は醒井養鱒場でニジマスなどを食した。食後孫たちは園内の川に入って遊んでいたが、冷たくて長く入っていられないと言っていた。

 この川ではとても水遊びができないので、彦根の琵琶湖松原水泳場へ寄り道する羽目になった。

 8月も終わり近くになると、あれほど「シャーシャー」と鳴いていたクマゼミは聞こえなくなった。午後になって「ツクツクボウシ」の鳴き声が聞こえていた。


(平成23年8月30日)


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