第74話 熊野古道紀伊路の寄り道・天神崎へ行く[2008年02月09日(Sat)]
立春を過ぎてもまだまだ寒い日が続いています。日本列島に寒気団が居座り、太平洋南岸を低気圧が通過するときは近畿地方の内陸部でも雪が積もるという予報どおり、2月9日の活動は中止になりました。2月に入ってからは一度も炭窯が開けられず、活動報告もできなくなりました。
そこで、昨年の11月25日の見聞で少し古い話題ですが、天神崎の話題を書くことにしました。
第6回「熊野古道(紀伊路)を語り部と歩く」ツアでは、南部駅から紀伊田辺まで歩きました。昼食後、熊野古道からは外れていましたが、田辺湾に突き出た天神崎へ足を伸ばしました。
天神崎は日本のナショナル・トラスト運動の先駆けとして田辺市民たちの「市民たちの手による自然買い上げ」運動が昭和49年から現在も続けられています。
その運動は報道で知っていましたが、この地を訪れるのは初めてです。自然の宝庫といわれる天神崎を1時間ほどかけて歩いてきました。晩秋の良く晴れ渡った好天で、しかも潮が引いていて素晴らしい景色を満喫することが出来ました。その素晴らしい景色をお届けします。
古の熊野詣の人たちは天神崎まで足を伸ばさなかった?
昨年4月から始まった「熊野古道紀伊路を語り部と歩く」ツアは和歌山県海南市の藤白神社から始まりました。
熊野古道・紀伊路は田辺市内で東に向かう中辺路と海岸部を南下する大辺路に別れます。中辺路は潮垢離浜の記念碑から田辺市内を抜けて山また山の道へ入っていきます。
紀伊路は地図1に示すように、芳養王子から出立王子の区間はJRきのくに線にほぼ平行しています。その区間の南に突き出たところが天神崎です。
地図1 赤線の熊野古道紀伊路に地図中央やや右に突き出た天神崎
熊野古道のパンフレットには「熊野本宮、熊野速玉、熊野那智を熊野三山とよび、これらの神様のもとに詣でれば過去の過ちや病気や悩み、苦しみの一切が浄化され、新しく生まれ変わることができると信じられていた」と書いてあるとおり、古の人たちは難行苦行の古道をただひたすら歩くだけだっただろうと思います。
何もかも便利になった今の時代だからこそ、価値観も変化して「自然の宝庫」に気付いた天神崎です。古の人たちはのんびりと少し足を伸ばして岬を一回りする時間的、経済的余裕も無かったのではないでしょうか。
古の人たちは熊野古道でどんな景色に感嘆したのだろうか?
上皇の熊野御幸は鳥羽離宮に程近い鳥羽の湊から船に乗り淀川を下って難波津(天満橋付近)より陸路、四天王寺を経て泉州、海南を南行、田辺より中辺路を越えて熊野本宮に到達しています。往復750キロおよそ1ヶ月の信仰の旅です。
今まで藤白神社から8回で紀伊路を踏破した景色の中では、岩代王子から千里王子までは古の人たちにとっても素晴らしい景観として目に焼きついたことと思います。
神坂次郎著「熊野まんだら街道」の〔百三 御坊から千里まで〕の中で、岩代王子から千里王子までの浜つたいの古熊野の道の景観について、「岩代王子から千里海岸にむかう。近世の熊野街道が開かれるまで、岩代王子から千里王子までの古熊野の道は浜つたいにのびていた。海岸段丘をくだってくると、雑木にかこまれた道を歩いてきた目に、光る海と、いちめんの砂浜のひろがりがなだれこんでくる。
まばゆい陽光をはねた紀伊水道のむこうに、遠く四国の島かげがみえる。熊野へのながい旅のなかで砂浜つたいの道はここだけである。それだけに千里王子をたずねた旅びとのし印象は強烈である。「伊勢物語」や「枕草子」「大鏡」「拾遺集」なども、みなみなその景観のすばらしさをうたいあげている」と書いています。
写真1千里王子付近の砂浜つたいの古熊野の道の景観
岩代王子から千里海岸の浜つたい古熊野の道は、第5回の10月20日に歩きました。
写真1は今から800年前ころ歩いた古の人たちとそんなに変わらないであろう砂浜つたいの景観です。
ナショナル・トラスト活動とは?
広く市民や企業から寄付を募って自然地や歴史的建造物を買い取る、または所有者からの寄贈を受けることにより、これらを後世に残す活動です。
語り部さんが天神崎の中ほどで「ナショナル・トラスト運動発祥の国はどこですか」と3択のクイズを出しました。「英国」が正解で、「1895年にはじまり、法的に寄付制度がつくられたことにより大きく発展しました」と解説してくれました。
写真2 「財団法人 天神崎の自然を大切にする会」の案内板
天神崎ホームページ「天神崎について 生物の宝庫」から
「田辺湾は、紀伊半島の中ほどに位置し、多種類の海洋生物が数多く生息している世界的にも貴重なところです。
それは、黒潮の影響を強く受けているにもかかわらず湾内には暗礁が多く、潮がゆっくりと動いて南の海で生まれた種々の幼生の育成を助けます。
もう一つ大切なことは、後背地には、すぐ海岸林があり腐葉土層が栄養素を補給するとともに、風や雨などによる土砂の海への流入を防ぐことで全体のメカニズムが常に安定していることです。
しかしこれだけでは冬場の水温低下を防ぐことができません。幸いなことに田辺湾は西側に大きく開き、その時期には北西の季節風が黒潮を湾内に押し込む働きをしてくれます。
これらの条件が整い、日本でも数ヶ所にしか見られない生物の宝庫となっているのです。
例えば、暖かい海の代表であるサンゴが約60種類もあり、これは北緯34度近くの海では、世界的にも異例の数です。
また、潮の引いている2時間ほどの間に行われる磯観察で200種類もの生物が記録されます。田辺湾一帯から取れるウニの種類は約50種もあります」と書いています。
写真3 上:天神崎の岩礁と後背地の海岸林
下:潮が引いた天神崎の岩礁
酷暑の磯場のアラレタマキビ貝
上記「熊野まんだら街道〔百九 天神崎を守る〕」の中で、「別れぎわに外山さんは、磯場のアラレタマキビ貝を教えてくださった。それはいじらしいほど小さな三、四ミリほどの貝であった。真夏になるとこの貝は、灼(や)けつく磯に直立して熱を避ける。酷暑の磯場にはそんなおびただしいアラレタマキビ貝の群れが直立し、その小さな貝の上に肩車でも組むように仲間の貝が乗り、その上にまた貝が乗って、まるでスクラムでも組むように直立するのだという。『この貝が私たちの会のシンボルマークです』」と書いていました。
写真4 酷暑の磯場にアラレタマキビ貝の群れが直立(AGARA紀伊民報)
神坂次郎著の熊野まんだら街道は、平成6年2月に新潮社より刊行されています。文中の外山さんは、この記事が書かれた当時「天神崎の自然を大切にする会」の外山八郎事務局長です。
天神崎を訪れたのは秋ですし、磯に出る時間的余裕もありませんでしたので、インターネットのAGARA紀伊民報から、貝がスクラムを組んでいる写真を引用させてもらいました。