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第72話 大寒に熊野古道・稲葉根王子から清姫の墓まで歩く[2008年01月28日(Mon)]


 昨年4月から毎月1回「熊野古道(紀伊路・中辺路)を語り部と歩く」のツアに参加しています。その第9回目は平成20年1月23日に中辺路稲葉根王子から清姫の墓まで約10キロを歩きました。

 この日は二十四節気の寒の真ん中、大寒で、雨上がりの富田川沿いは季節に違わず寒い日でした。

 でも1週間ほどで立春です。春の訪れは梅の花からと言いますが、梅の生産量日本一の紀州路です。古道沿いには厳しい寒さに耐えながら、春を待つ梅の芽吹きが見られました。富田川沿いの春の息吹をお届けします。


稲葉根王子の水垢離場

 今回の熊野古道は稲葉根王子から国道311号沿いの富田川(当時は岩田川)に沿って歩きました。稲葉根王子横の堤防に水垢離場と書いた石碑とその横に解説がありました。



写真1 稲葉根王子横の水垢離場(写真は平成19年12月1日撮影)


  「富田川沿いに熊野参詣道が通り中世には熊野詣の水垢離場として重要であった。この川で禊(みそぎ)をすれば今までの罪がことごとく消え去ると信じられ、上皇や女院たちも徒歩で渡った。『平家物語』や『源平盛衰記』などにも登場し、また『いわた河 渡る心の深ければ 神もあはれと思はざらしめや 花山法王』など数多くの古歌が残されている。岩田川を最初にわたるこの付近の瀬を一の瀬といい、滝尻まで何回も渡りを繰り返したという」と解説しています。

いにしえの人たちは真冬に水垢離をしたのだろうか

 先に書いたように「語り部と歩く熊野古道」は毎月1回12キロほど歩いて13回で熊野本宮大社へ到達するツアですが、8月は暑い季節ですから計画からはずされていました。 

 今回のツアでは大寒の1月下旬に、かつて水垢離場だった富田川の稲葉根王子近くで市ノ瀬王子へ向かうため橋を渡りました。

 古の人たちが、神仏にお参りする際、しばしば全身に水を浴び、身を清めるにしても、大寒の寒い時期に熊野詣をしたとも思えません。

 語り部さんの解説では、今の時代はこの時期が汗もかかず一番歩きやすいが、その当時の人たちは、水垢離をするからこんな寒い時期には熊野詣には出かけなかったと言っていました。

 井上宏生著「伊勢・熊野謎解き散歩」によると、1081年に熊野詣をした藤原為房の場合9月21日に京を出発していますし、藤原定家は1201年10月5日に熊野詣の途中、天王寺に泊まっています。当時はやはり歩きやすい秋に熊野詣に出かけたのでしょうか。


富田川を渡る

 今から800年ほど前の平安時代末期の人たちは、富田川を何度も渡河して水垢離をしたといいますが、どのあたりか定かではないようです。

 くまの文庫4「熊野中辺路 古道と王子社」によると、「古道は石田御所(稲葉根王子付近の岩田川の北側に設けられていたと見られる)付近から、いまの富田川を渡り一ノ瀬王子に向かうが、渡河地点は明らかでない。ただ、地形的に見て稲葉根王子の上流ではなく、そこからさほど遠くないあたりを渡渉したのであろう」と書いています。

 また、石田川の項には「今の富田川の滝尻(中辺路町)付近から下流は石田川と呼ばれ……、いまではたびかさなる洪水によって川底が上がり広い河原になっているが、昔は川幅も狭く、御幸の盛んなころには一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬があり、川で垢離が行われた。女院が川を渡るときは、二反の白布をつないだ結び目につかまり、大勢の供の公卿たちが布の左右をささえ、女官たちにつき添われて渡河したという」とも書いています。             




   写真2 稲葉根王子から上流方向を見た富田川

 写真2は稲葉根王子から上流側の市ノ瀬付近の富田川です。

 語り部の話では季節によって水が枯れてしまったようになっていることもあるそうですが、川底を伏流水が流れているそうです。

 日本地図を広げてみると、富田川は果無(はてなし)山脈に源を発し、中辺路町、大塔村、上富田町を流れて白浜で太平洋に注いでいます。

 古の人たちは一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬と水垢離を繰り返しながら渡河したようですが、私たちも滝尻までに富田川に架かっている4つの橋、市ノ瀬橋、加茂橋、鮎川新橋、北郡橋(吊り橋)を渡りました。


春の息吹を感じながら古道を歩く

高菜

 大塔村に入って大塔郵便局から少し山へ分け入ったところに大塔宮剣神社碑があります。
語り部さんからこのあたりでは、「鮎川王子の祖先が大塔宮護良(もりなが)親王(1308〜35)にした仕打ちを、子孫が600年の間、正月の餅を断ってわび続けた」と語っていました。




   写真3 めはりすしを包む高菜

 その下りの山道の際に青々した高菜が植えてあり、鹿や猪の食害を防止するためにトタンで囲われていました。

 今までに3回歩いてきた中辺路の近露の宿の昼食の弁当は、高菜で包んだめはりすしでした。目を見張るほど大きいおにぎりが3個も入っていました。

 高菜はアブラナ科の越年草で、秋に発芽して翌年の1月下旬にはこんなに青々とした葉っぱになっていました。


杉の実


 鮎川王子の際に架かる鮎川新橋を渡ったところの消防署第二分団近くに背の低い杉の木が植わっていました。

 私たちが里山保全活動をしている「箕面市体験学習の森」にはたくさんの杉が植林されていますが、大きく成長した杉なので実を見る機会はなかったので、写真4に収めました。




        写真4 杉の実

 早春開花し、卵球形の球果を結び、春にははじけてスギ花粉となって飛んでいきます。

梅一輪

 梅生産量日本一の和歌山県ですが、中でも南高梅は代表する品種で、日本国内で生産される国産梅の6割は和歌山県産だそうです。

 第6回の切目から三鍋王子の紀伊路を歩いたとき、切目駅近くに和歌山県立南部高等学校がありました。

 語り部さんは南高梅について「明治時代に和歌山県の旧・上南部村(現・みなべ町)で高田貞楠が果実の大きい梅を見つけ、高田梅と名付けて栽培し始める。1950年に上南部村優良品種選定会が発足し、5年にわたる調査の結果、高田梅を最優良品種と認定。調査に尽力したのが校の教諭であったことから南高梅と名付けられた」と解説していました。



     写真5上 12月19日の梅ノ木
     写真5下 1ヶ月後には芽生えた梅ノ木 


 「寒梅」を詠った新島襄の漢詩「庭上の一寒梅 笑って風雪を侵して開く 争わず また 力めず 自ずから 百花の魁を占む」をその昔、詩吟で唸っていたのを思い出しながら、古の人たちも歩いてきた熊野古道の急な坂道に入っていきました。

 語り部さんは、この急な坂道で休憩した時、古道歩きの楽しみ方は3つあると教えてくれました。
@森林浴の楽しみ
Aこの急な坂道の古道には杉が植林されて、ところどころに石垣も残っていました。その周辺の樹木が無いと想像して、その地形や石垣を見ていくと、それがかつては棚田だったり、炭窯の跡だったりして古の人たちの生活が想像すると楽しめる。
B古の装束で古道を歩いている姿を想像しながら歩く楽しみ

 
 今回のツアでは水垢離して富田川を渡河する女院らの姿を想像して少し詳しく「富田川を渡る」の章を書いてみました。


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