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第164話 安政南海地震で村民が避難した広八幡神社を尋ねて[2012年04月16日(Mon)]
 2011年3月11日の東北大震災では、日本中はおろか、世界各国からも衝撃を受けて支援の手が差し伸べられた。大震災の大被害の上に、東京電力福島第一原発の放射能漏れまで発生してしまってから1年以上が過ぎてしまった。
 それにしても、この東北大震災前に広く日本人が、昭和12(1937)年から昭和21(1946)年までの尋常小学校5年生用国語読本「稲むらの火」のことを知っていたら、「少しは被害や震災後の復興に役立ったのではないかな」と思う。

 尋常小学校5年生の「稲むらの火」は「大津波の被害を最小限に食い止めるために、安政東海道地震(1854年12月23日)で刈り取って田んぼに積まれていた稲わらを燃やして村人を高台の広八幡神社に避難させた」という庄屋五兵衛(浜口梧陵)ことを、小泉八雲作「生ける神」から、広村の教員・中井常蔵が書き改めたものである。

 「稲むらの火の館」や浜口梧陵のことは、平成23年4月1日に「第141話 大津波から村民を救った浜口梧陵の里を訪ねて」で公開している。
 このときは、村民が避難した広八幡神社に時間的制約で立ち寄ることができなった。

 今年3月28日の春休みに孫6人を連れて、「稲むらの火の館」や国指定史跡の広村堤防とともに、広八幡神社を訪れた。
 ちなみに、広村堤防は、浜口梧陵が、田畑や舟を失った人々に、私財をなげうって4,5百人分の日当を払い土手を築かせ、漂流物の激突を和らげる数千本の松と換金出来る木蝋(もくろう)が取れるハゼを数百本植えたという長さ600メートルの堤防である。
広八幡神社

 広村堤防から車で10分ほどの高台にある広八幡神社に向かった。
 駐車場の手前の花畑で白色の着物に、ブルーの袴を着た宮司さん(境内の展示資料に書いてある宮司・佐々木公平さんだろうと思われる)が、近づいて私や孫6人に話しかけてこられた。


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 写真1 広八幡神社境内


 写真1の右側の高い屋根は、室町時代の楼門で、三間一戸楼門、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物であるが、残念なことに正面からの写真は撮ってこなかった。
宮司の話では、この辺りは標高20メートルくらいで、頂上で標高40.7メートルである。

 2011年4月26日朝日新聞夕刊「こころ・広八幡神社」には、「15世紀末の津波では波が楼門の石段の3段目まで来たという伝承もある」と書いている。

 先月の31日に内閣府の検討委員会が公表した「南海トラフの巨大地震、最大津波34mを予測」によると、和歌山県すさみ町で18.3mを予測しているから、同じ県内の広川町の、この避難場所に津波が来ることは十分に考えられる。


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写真2 立派な拝殿と本殿


「稲むらの火」小学5年生校教科書に採用

 宮司からいろんな資料をいただいた。「Mar.2012 地理 岩田 貢『稲むらの火』に学ぶ」、「梧陵翁の碑(広川町史)」、朝日新聞2005年3月25日の切り抜き「わが街の自慢の史跡・記念碑」などである。
また、わざわざ小学校の教科書2冊を持っておられて、「稲むらの火」が小学5年生の国語教科書に掲載されたことを話された。

 境内に掲示されていた読売新聞2011年1月15日によると、「全国の公立小学校の6割で使われる……『稲むらの火』の冒頭部分を引用し、物語とモデルとなった人物としては浜口を紹介。わらに火を放つ場面に続いて、『本物の物語は実は、この後に始まる』として、浜口が私財をなげうって、住民と力を合わせて長さ600メートルの堤防を完成させた史実を記している……」と。

 筆者が小学校3年生のとき、上級生から「稲むらの火」の話をなんとなく聞かされていて知ってはいた。その後、広村堤防を訪ねてきたという友人の話やネットの検索などで「広村堤防」などで震災後の浜口梧陵の活動など、「本物の物語」のことを知るようになった。

 私財をなげうってまで堤防を完成させた梧陵の「本当の物語」が教科書で伝えられ、「昭和南海地震の際、堤防によって一帯の被害は軽微だったこと」も盛り込んであるという。
「稲わらに火を放ったという史実より、その後の広村堤防のことなどの史実をもっと多くの人に知ってもらいたい」と思っていた一人として、教科書で習った小学5年生にも共鳴を与えるだろうと思う。


小学4年生の社会科教科書にも

 宮司が持ってこられたもう1冊は、日本文教出版の「小学社会3・4年 下」(写真3)である。

 この教科書を見せられた孫は「同じ教科書なので持っている。4年生でこの教科書を習う」と言っていたので、帰宅してから見せてもらった。


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写真3 日本文教出版の教科書「小学社会 3・4年 下」


 「地いきのはってんにつくした人々」の章に、浜口梧陵、南方熊楠、大畑才蔵、華岡青洲の、和歌山県出身の4人が取り上げられていた。

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写真4 浜口梧陵を取り上げた社会教科書の一部


 浜口梧陵の章では「1.浜口梧陵はどんなていぼうをつくったのか」、「2.ていぼうはどのようにしてつくられたのか」、「3.浜口梧陵はわたしたちに何をのこしてくれたのか」「たしかめよう」と16ページに渡って取り上げられていた。

 社会の教科書だから、「稲むらの火」の話だけでなく、「どのようにすれば、浜口梧陵についてくわしくしらべられるだろう」として、見学する計画を立てる、広川町の見学、浜口梧陵のあとをたずねる、などを書いている。
 さらに、「津波のひがいをたしかめる」、「津波に負けないていぼうをつくる」、「今の広川町の人たちは浜口梧陵のことをどう思っているだろう」といった社会科の勉強の内容になっている。

 残りの3人、南方熊楠、大畑才蔵、華岡青洲については、「せんたく」で各ペーずつ取り上げていた。教える先生の選択で、上記の著名な人たちを浜口梧陵と同じ手法で調べていくことになるのだろう。


梧陵翁の碑

 宮司から社殿右手に、勝海舟自筆の題額などが刻まれた碑を是非見て帰るように勧められた。
もらった資料の「広川町史 下巻784P〜786P」の「梧陵翁の碑」について、「浜口梧陵翁の生涯の事跡やその徳行をたたえて、その没後建てられた碑は三基ある。
 ひとつは嗣子勤太氏によってその碑文を勝安房(海舟)に依頼し撰文と題額の揮毫をうけたもので、これは広八幡神社境内の一隅に明治二十六年四月に建碑された」とあって、「梧陵は浜口君碑 枢密顧問官正三位勲一等伯爵安房撰文並題額」のあとに、漢字だけの碑文が並んでいる。


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写真5 広八幡神社の「梧陵翁の碑」


 勝海舟の碑文の解説のなかに、「……家は世々、邑の豪族たり。人と為り、宏度(大きい度量)明達(道理に通じている)。群書を博渉(博覧に同じ)し、喜んで(好んで)徂徠學(朱子学を批判し、学は小なる道徳を捨てても大なる経世済民の学でなくてはならないとする)を修む。夙に大志を抱き。廣く四方知名の士と交わり。而して宇内の形勢において頗る所見を有す……」と書いている。

 昨年3月末に、この地を訪ねたときボランティアガイドに浜口梧陵の根本的な思想というか、哲学、考え方を尋ねたときにも、「経世済民」と言っていた。
「経世済民だけの四字熟語だけでは理解できない」と首をかしげると、「関 寛斎 蘭方医から開拓の父へ(川崎巳三郎著 新日本新書282)」のコピーを見せてくれた。

 その中に「彼(浜口梧陵)は、日本がやがて重大な激動期を迎えることを予感し、そのときの役に立つような埋もれた人材を世に出すことに異常な関心を持っていた。貧乏書生時代の勝海舟もまた彼の援助を受けた一人であった。辛らつきわまる人物批評で有名な海舟の座談筆記『氷川清話』のなかで、海舟は梧陵のことを『一種の人物』と評価している。梧陵は、『金持ちとたばこ盆の灰おとしは、たまればたまるほど、きたなくなる』と言われた当時の富豪のなかでは類を見ない、特別の金銭観を持っていた。金はためるためにあるのではなく、使うためにある。だから、たまった金をどう使うかがいちばん重要な問題である、というのが、ひらたく言えば、梧陵の金銭観であった」と引用したことを思い出した。

 いずれ社会科の授業で学ぶ小学4年生の孫には、上記に書いた浜口梧陵の金銭観を話してみることにした。


(平成24年4月16日)


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