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5/18ゆらゆらり体験記録 [2008年06月30日(Mon)]
(5/18に初めて参加された高田さんの体験記録です)

「ゆらゆらり!カラダ 自遊時間 体験レポート」

高田ひとし

 さて、「自遊」とはどういうことだろう? なぜ「自由時間」ではなく、「自遊時間」であったのだろうか? 僕がWSで感じたことはこの問いに集約されているように思う。「自遊」とは、いったい何なのだろうか?

1.流れ
 WSの流れは以下のようになった。

@  みんなで触れ合い

WSナビゲーターは花嵐の伴戸さん。参加者が続々と集まってくる。「しょうた」さんという男の人は、足(?)に障がいをもっているらしく車いすで登場。でも、車いすから降りると立てひざで縦横無尽に動き回る。力があり余っているよう。
しょうたさんと、「まよ」さんという全盲で知的障がいを持つ女性のお父さんが取っ組み合い、まよさんは伴戸さんと不思議な触れ合い。
もしかしたら、ある種の人間は一生涯触れることのない空間に僕は触れているのではないかと感じる。不思議な空間。全てが「許されている」ような空間だ。


A  身体をゆらゆら

いよいよ、WSが始まる。まずはみんなで身体をゆらゆら。日常の中で凝り固まった部分を解きほぐすように身体をゆらしていく。手・足・肩・身体全体。ここで、参加者の女性の一人が「てぃってぃってぃてぃ」と歌いだす。伴戸さんの話を聞かない彼女に対して、彼女の母親が「ほら、ちゃんとやりなさい」といった風に声をかける。けれど、伴戸さんは「どんな振る舞いも受け入れていきましょう。できないことはやらなくていいし、出来ることをやればいいんです」といったことを言う。ああ、そうなんだ、ここでは全てが許されているんだ、とさらに自己確認。
さらに、二人一組になって背中合わせになり、一緒にゆらゆら。息を合わせてゆすり合う。


B   歩く

次は、みんなで部屋の中を歩き回る。最初はゆっくり、自分のペースで。次は足を高くあげて、ゆっくり歩く、高くあげてゆっくり歩くを繰り返す。さらに部屋の外を意識して歩いてみる。身体が空間に溶けていく感じ。イメージ的には皮膚の毛穴が開いていくみたいな感覚。そして、十歩ごとにジャンプ。これがしんどい。十歩ごとにジャンプ、五歩ごとにジャンプ、三歩ごとにジャンプ、一歩ごと、0歩ごと! はあはあと息を切らしながら、身体があったまってくる。
その中で、すれ違った人に触れてみたり。
「それじゃあ、ゆっくりねっ転がってください」
ということで、一同、床にゴロン。軽くストレッチ。


















C   転がる

二人一組になってみんなで転がります。色々な転がり方を考えてみよう。このとき、ペアを組むんだけど、障がいを持っている人とペアを組むのにはどこかしら緊張があった。もちろん、初対面の人という要素もあるが、まだ障がい者より健常者の方が組みやすかった。ここら辺にも「障がい者に慣れていない自分」を発見。ほとんど触れ合う機会がないからどう触れ合っていいかわらかないというやつだ。この時はまだ緊張している。
結果的に、ある女の人と組むことになった。でもその人の身体に触れるのも結構遠慮がちになってしまった。後ほど気づくのだけれど、「健常者」と言われる彼女とやるよりも「障がい者」の人とやった方がまったく持って気楽だったし、楽しめた。これについては後で触れる。
二人、足をからめて回るというのが面白いということでとり立たされた。そのあとは、みんなで足をからめて回る練習みたいな感じになっていく。



D  休憩
ちょっとだれてきた感もあったのか、休憩。いい感じにリフレッシュした。


E  即興

即興でみんなが好き好きに入り乱れて好きな人と踊る時間。「踊る」といっても、それはどっちかというと「触れ合う」に近いかもしれない。
最初は健常者の人に触れにいってたのだけれど、遠慮がちにまよさんにアプローチしてみる。まよさんの腕に僕の手の甲を当てる。そこから少しずつまよさんに触れていく。
至福。何とも素敵な時間だった。まよさんのかすかな動きに応えて僕が動く。まよさんの流れの中に僕が入っていく。これが何とも気持ちがいい。疲れたこと・嫌なこと全て吹き飛んで、いうなれば癒された。これはなんでだろう? きっと、まよさんに触れていると全て自分という存在が肯定されたように感じるからだろう。まよさんは何か世界そのものを肯定しているような感じがする。「すべてそのままでいいんだよ」と言っているような……その「肯定された世界」の一部に僕はなった、ような気がした。それほど、このダンスは気持ちが良かった。
さらに、冒頭で「てぃってぃてぃてぃ」と歌っていた女性に触れていく。他の女性も加わって三人で「てぃってぃてぃてぃ」と歌う。ああ、気持ちがいい。
そして、極めつけは、彼女との「手」だけでのダンス。彼女の手の微妙な動きに合わせて僕も手を握り返す。彼女の瞳の動きに合わせて瞳を動かす。そういったかすかな動きで、僕は彼女と踊っていた。誰にも気づかれない秘密の営みのような気がしてドキドキして、はたから見たらただじっと止まっているようにしか見えないのだろうなと思うとまた、面白かった。
ここでの、ダンスは健常者の人とやるよりも、格段に面白かった。健常者の人とやった時は、何か、相手に期待されているような気がして、その「期待」に縛られてしまうからだ。それが、僕には苦痛だった。
まよさん達との「何もしなくていい」ダンスの方が面白かったのは、そういった「期待」を感じずに踊る(触れる?)ことができたからだろうか。
そんな風にして、即興の時間は過ぎて行った。




2.感想

 ほとんど、流れの中で書いてしまったけど、冒頭の「自遊」とは何か? という疑問に僕なりの答えを与えたい。
 「自遊」とは「自由に遊ぶ」という意味があるのだろう。じゃあ「遊ぶ」って何だろう? と考えると、それは「目的のない行為」なんだなとふと気づく。そう、遊ぶことには目的がない。たとえば、純粋に遊ぶ時、人は時間がたつのを忘れ、何かが達成されようがされまいが、誰かに評価されようがされまいが関係なくなる。しかし、そのように「純粋に遊ぶ」ということはとても難しい。どうしても他人の目という縛りに縛られてしまう。
 けれど、あそこの時間は別の時間だった。例えば、まよさんは人に触れるとき、その感覚が全てかのように、その「遊び」に集中する。しょうたさんは人と取っ組み合うとき、それがすべてかのように何度も同じことを繰り返す。
 それは何か「結果」や「評価」というものを超えた行為なんだろうという感じに、僕はとらわれる。
そして、「自遊時間」とはまさにこのような目的のない時間なのではないだろうか? だから、何かが達成されたり、何か評価されるようなことがあったりはしない。そこではただ自由な遊びが行われるだけ。「そこにただ生きている」という原則だけが支配する、全てが許されている、世の中の「流れ」から外れた疎外された場所。時間の流れが止まる、肯定された時間。自遊時間。
それはどこか聖なる響きを持たないだろうか? ゆらりゆらりと揺れる彼らの身体は、宇宙の音なき音と戯れている証拠で、その宇宙のリズムと一体化できる彼らこそ本当の「自分/自由な遊び方」を知っているんじゃないか。今この一瞬の「ゆれ」に身を任せる強さを持っているんじゃないか。
こんなことを夢想した尼崎の午前中でした。

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