2018年10月3日から5日、ギリシャのテッサロニキで開かれているヨーロッパ評価学会(EES: European Evaluation Society)の2年に1度の大会に来ています。500人ぐらいが参加していますが、日本から来る「もの好き」は私ぐらいで(最終日に明治大学の源さんが参加しましたが)、もの好きついでに、日本で発展的評価(DE)を学んでみたらこういう解釈になりましたという Prezi を使った発表をやってみました(文末のリンク参照)。
今回の大会のテーマは、「よりレジリエントな社会のための評価」。このテーマで繰り返し出て来たキーワードに、次の2つがありました。
1. 「複雑」:世界も組織もより複雑になっており、それを意識した評価が必要になっている。
2. 「倫理」:評価者の責任は変化しつつあり、中立な立場から価値判断をするのが評価者という常識が通じなくなってきている。そこで考えないといけないのは、評価者としての倫理。
そもそも日本でDEの研修事業を始める直前の昨年(2017年)7月、我らが師匠、マイケル・クイン・パットンのワシントンDCでのDE研修に参加して、ランチをともにしながら日本の研修の打合せをしました。日本のNPOやソーシャルセクターではまだまだ評価の経験値が少ないという話をしたら彼が次のように返答しました。「そうか、よかったじゃないか。評価の学びを外さなくてよいのだから。。。(Well, then, you don’t have to unlearn evaluation…)」。今回のEES大会で、このことばの意味が少しわかったタイミングがあったのでご紹介しましょう。
基調講演者のひとり、トマス・シュワント氏(イリノイ大学名誉教授)の話。世はトランプ時代。事実の価値が軽んじられる、いわゆるポスト真実社会(Post-truth world)になったという言説は欧米ではよく聞かれます。そういう時代だからこそ、評価(事実特定と価値判断!)が果たせる役割を再認識しなければならないというところから氏の講演は始まりました。確かに、事実の価値を重んじる人々からすれば、とんでもない世界になったものです。評価者としては当然の観察ですよね。
ところがそこから話は急展開し、「ポスト・ノーマル時代の評価」になりました。なんだそりゃ?
↑基調講演で「ポスト・ノーマル時代の評価?」と問いかけるシュワント氏
「ポスト・ノーマル」の用語は、「ポスト・ノーマル科学」から来るものです。彼の主張をかいつまんで言えば、こんな感じになるでしょうか。
そもそも評価とは合理的思考を信じている/合理的思考では、評価者が独立した立場を維持し、精緻な方法で、エビデンスの力を信じて行動すれば、正しい価値判断ができると考える/正しい価値判断を繰り返すことによって社会は進歩していく/評価専門家はこの意味で社会の進歩に貢献することができる。
これが「ノーマル時代の評価」だとすれば、いつのまにか時代は移ってしまっているのでは?というのが彼の問いかけです。そして、もしそうだとすれば、評価者の仕事とは一体なんなのか?
簡単に答えが見つかるわけではない、と前置きしたうえで、シュワント氏は評価専門家が考えるべきいくつかの糸口を提供しました。例えば、「ポスト・ノーマル時代」においては、
- イノベーションは、技術が生むものから別物に変容する。
- ガバナンスは、「AからBへモノ(政策、制度、仕組み、事業)を届ける」モードから「関係性により構築する」モードへ変化する。
- 政治は、代表制から人々のもとへ帰る。
- 生産の価値は「ともに行うこと」に宿る。
- 知識の創造の中心には倫理が据えられる。
- 評価者は、中立な観察者からファリシテーターになる。
「さて、いかがかな?」とシュワント氏。会場では質疑応答が始まりました。そこで私が思い出したのが、マイケルの、Well, then, you don’t have to unlearn evaluation… のことば。まさに彼が実用重視の評価を実践しながら、たどり着いたひとつの答えとしてのDE。そして、その背景にあった時代の変化。つながりましたね。
この項つづく。
「DEやってみよう!(昨年のDE研修一期生の最終的なDEの理解の発表をもとに、CSOネットワークとしてまとめたもの)」は、こちら↓
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同じものの英語版(EES大会で発表したもの)はこちら↓
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