No.253【ファンドレイジングスーパースター列伝】久布白落実(熊本) [2018年09月10日(Mon)]
久布白落実
久布白 落実(くぶしろ おちみ、1882年12月16日 - 1972年10月23日)は、戦前戦後における女性解放運動家の一人。 1882年、 熊本県鹿本郡出身の牧師、大久保真次郎の長女として生まれる[1]。真次郎は、1902年に渡米し、ハワイとオークランドに日系移民のための教会の設立した人物[2]。徳富蘇峰、徳冨蘆花の姪。幼い頃洗礼を受ける。 1903年、女子学院高等科卒業後、渡米。そこで日系移民女性の実情に接し、廃娼運動を志す。米国太平洋神学校に在学中に久布白直勝と出会い、結婚してシアトルに住む。[3] 1913年に帰国し、夫と共に大阪、高松、東京で牧師として活動する。夫と共に、東京市民教会を創設する。それと平行して、廃娼運動の他、市川房枝らとともに婦人参政権運動にも参画する。ーーーーーーーーーーーーーーーー (Wikipediaより) ![]() 大正5年(1916)に、公娼制度を撤廃するための活動を携わりました。 そこで、「五銭袋運動」「握り飯運動」という独自のファンドレイジングを始めました。 「近代の山鹿を築いた人たちシリーズ「久布白落実」 山鹿市教育委員会」に詳しい紹介があったので、引用します。 http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1281667313180/files/010.PDF 矯風会総幹事に就任 高松にいるとき、不幸続きで沈滞気味みの落実にとって、唯一の楽しみは東京から送ってくる矯風会の機関誌『婦人新報』を読むことでした。この中で矯風会の公娼制度撤廃の記事にふれ、廃 娼論を書き、東京の矯風会に送りました。 これがきっかけとなり、夫直勝の協力もあって落実は一家で上京します。そして、大叔母の矢嶋楫子が会長の日本キリスト教婦人矯風会の総幹事に就任しました。大正五年(一九一六)、落実が三十三歳のときでした。以来、公娼制度を撤廃するために精力的に活動を展開します。 五銭袋運動、握り飯運動 最初に実施したのが「五銭袋運動」でした。公娼制度の廃止の必要性を多くの国民に理解してもらうために行った教育活動で、運動に賛同する人たちに一口五銭の募金を呼びかけました。何万 という募金袋が全国の支部会員に届けられ、この運動の啓発と資金活動づくりが広く展開されました。東京の矯風会本部に妹の矢嶋楫子と落実を訪ねてきた祖母の徳富久子は、鶴のような体から力強い声を出して「落実さん、あんた、この袋と死になさいよ」と励はげまましたといわれます。五銭袋運動は約十年間続けられました。これにより、募金袋の数だけで四十万、総額二十万円の募金が集まりました。一方、各地の遊郭廃止運動の先頭に立ち、売春を斡旋する業者と戦い、講演会を開いて社会に訴ったえ、政府、国会、県議会に廃娼請願を続けました。また、売春婦 ふをやめた婦人の救済・保護活動にも手を差し伸べました。矯風会が昭和五年までに婦人ホームに収容した人員は十一万百五人を数えました。(『婦人新報』一九七六年二月号)大正十五年(一九二六)には、落実が発起人となり、島田三郎や阿部磯雄らの廓清会と矯風会との合同の廃娼連盟を設立します。落実はこの連盟の財務委員長となり、「握り飯運動」と呼ばれる募金活動を行います。この運動は、「一個の握り飯をこの運動に献ずるのは天下の御用だ」と強引に相手を説得するすさまじいものでした。落実は日本各地や、樺太や満州にも足を伸ばし、募金活動を続けました。この活動は廃娼運動をしっかり陰から支えました。 ーーーーーーーーーーーーーーーー Wikipedia:久布白落実 By 日本基督教連盟 - 『皇紀二千六百年と教会合同』, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8726166 |