No.095【ファンドレイジングスーパースター列伝】観音林倶楽部(日本) [2018年04月05日(Thu)]
観音林倶楽部
兵庫県の御影の住吉村に阪神電鉄が開通した明治40年(1907)頃、観音林に本格的な宅地開発を開始され、その後、財界人が次々と家族を連れて移住し、住吉周辺は高級郊外住宅地として発展していくことになった。 移住に続き、住人たちは子弟たちの教育施設の充実を図るために、幼稚園や学校を設立し、さらに地域住民の交流やまちづくりを考える場所として、明治45年(1912)に「観音林倶楽部」という社交コミュニティと会館を設立された。観音林倶楽部は、日本初の地域コミュニティといわれる。 この観音林倶楽部からは二人の大臣が出ていますが、そのうちの一人が文部大臣になった平生釟三郎だ。 この人の資産と会員の会費で観音林クラブは運営されていた。 実業家でもあった平生は育英事業、 教育・学術の振興などにも取り組み、 甲南病院や甲南学園を創設しています。 会員たちは、住吉の地に学校や病院、購買組合を続々と生み出していったが、その建設費や運営費は、会員それぞれの資産と会費によって賄われていた。 このコミュニティは、寄付や慈善のサロンとしても機能していた。 参考記事 神戸っ子アーカイブ:日本経済を動かした、地域コミュニティ「観音林倶楽部」 http://kobe-kobecco.com/archives/30796 生活協同組合コープこうべのルーツから http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/kobe/nada/nada019.htm この観音林倶楽部から、初期の生協活動の一つである「灘購買組合」が生まれています。 生みの親である、那須善治について、Wikipediaからの引用です。 ーーーーーーー 那須善治は、1899年(明治32年) 大阪の実業界へ進出して大阪に転籍し、その後、兵庫県神戸市東灘区住吉町に移った。第一次世界大戦中に相場師として巨万の富を得た。その後、実業界を引退して、社会公共のための奉仕を始めた。1921年(大正10年)、灘購買組合を設立して組合長となる。灘購買組合は、その後合併して灘神戸生協になった。 灘購買組合(その後合併して灘神戸生協)が、今日成長をとげたのは、創設者の献身と惜しみなく投じた物的奉仕によるところであるといわれている。 組合の歴史 那須は、社会事業に使う方法を平生釟三郎に相談した。賀川豊彦を紹介され、協同扶助の協同組合の話を聞いた。イギリスの協同組合の活動を見ていた平生釟三郎が、賀川豊彦の言いたかったことを那須に教えた。那須は、納得して、大正十年に灘生協が誕生することになった。 ーーーーーーーーーーーーー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%96%84%E6%B2%BB こちらの記事も、ぜひご覧ください。 生活協同組合コープこうべのルーツから http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/kobe/nada/nada019.htm 観音林倶楽部については、こちらもぜひご覧ください。 住宅総合研究財団イリf究論文集No.31,2004年版 旧住吉村の住宅地開発とその特徴 一日本の近代萌芽期における郊外住宅地一 http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/2004/0305-0.pdf |