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No.081【ファンドレイジングスーパースター列伝】沢田美喜(日本) [2018年03月22日(Thu)]

沢田美喜

113px-Sawada_Miki.jpg

沢田 美喜(さわだ みき、1901年9月19日[1][2] - 1980年5月12日[3])は、日本の社会事業家。本名は澤田 美喜(読みは同じ)。

三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれ[4]、外交官の沢田廉三と結婚[4]。4人の子に恵まれる[5]。敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた。
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(Wikipediaより)

エリザベス・サンダースホームのことは、森美術館で開催されていた企画展で、たまたま展示されていた写真で、なんとなく知っていました。でも、それぐらいの知識で、今回、初めて詳しく知ることができました。そして、澤田美喜の名前を今回、初めて知りました。


早速、澤田美喜の足跡をいくつかのWebから引用します。

Wikipediaより
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1948年2月:孤児院エリザベス・サンダース・ホームを設立する[10]。進駐軍と日本政府から迫害をうけ、経営は窮乏を極めた。
1949年:ホームの寄付金を募るためにアメリカで講演会を行う。このころニューヨークで澤田家はグレース・ケリーと親交をもち美喜および長女恵美子の親しい友人となる。グレースはモナコ公妃となったあとも美喜の活動の良き理解者として支援する。
1950年:ホームに基金を作るため、再びアメリカで講演会を行う。
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三菱人物伝 澤田美喜(上)
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man22.html
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ある日、満員列車で美喜の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜の頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえった。美喜は天命を覚えて身震いした。

「日本にはいま大勢の祝福されない混血孤児がいる。そうだ、私はこの子らの母になる…」

夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始した。GHQに日参し「大磯の旧岩崎家別荘に混血孤児たちのホームを作らせて欲しい」と訴えた。混血孤児の問題は直視したがらない人が多かったが、教会関係者や一部の在日米国人、それに使命感に燃えた多くの人々に支えられ、美喜は諦めなかった。

執拗に陳情を繰り返す美喜の希望がかなうときが来た。ただし「物納された別荘を買い戻すならば」との条件付きだった。美喜は寄付を募り、私財を投入し、なお足りない分は借金に駆けまわった。GHQの指示ですでに資産を凍結された父久彌は、「世が世だったら、大磯の別荘くらい寄付してやれたのに…」と嘆いた。

昭和22年、美喜はついに別荘を買い戻し、ドクター・バーナードス・ホームのように学校も礼拝堂もあるエリザベス・サンダース・ホーム(※6)をスタートさせた。美喜、46歳だった。
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三菱人物伝 澤田美喜(下)
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man23.html
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パリ時代からの親友ジョセフィン・ベーカー(※1)が、美喜がエリザベス・サンダース・ホームを作ったことを知ると、すっ飛んで来て、日本各地で公演し、資金確保に協力してくれた。その上、ホームの孤児ふたりを自らの養子として引き取ってくれた。
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澤田美喜 〜孤児の母として捧げた半生〜
https://www.jinken-net.com/gozonji/information/0902.html
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◆ エリザベスサンダースホームの設立
 ▲エリザベスサンダースホームの遠景  孤児救済事業の実現に向け美喜は無我夢中で行動を開始します。夫の廉三や父の久弥は理解を示してくれましたが、戦後の財閥解体により国に財産が接収されていて元手が全くありませんでした。また、施設として使用するのに適当と思った大磯の別荘も財産税の代わりに物納されており、政府に掛け合うと400万円で買い戻すように言われます。自分の財産を全て換金し、さらに借金や寄付によってなんとか買い戻しますが、生まれてからお金のことなど考えたこともなかった彼女にとっては苦難の連続でした。
 その間にも、ホームへは孤児たちが次々と加わっていきましたが、運営資金の不足からミルクも買えない状況も生じました。そんな時、美喜は自分の大切な持ち物を売り払ってミルク代にしました。また、乳母役を申し出てくれる女性や、こっそりミルクを届けてくれる占領軍兵士などの多くの善意に支えられながらホームは運営されてゆきます。
 そして待望した最初の寄付がありました。その寄付者エリザベス・サンダース女史にちなみ、ホームを「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けます。
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追記:
Facebookでこの記事を投稿したところ、教えていただいたエピソードです。

澤田美喜さんの偉業に関する書籍は岩美町立図書館で
http://iwamiguideclub.com/iwakijyouhou/sawadamiki.html

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岩美町のプライベートビーチでもある熊井浜。熊井浜には鴎鳴荘(おうめいそう)という別荘があります。
その別荘はかつて、神奈川県大磯にあるエリザベスサンダーズホームの保養地として使用されていました。孤児院エリザベス・サンダース・ホームを設立されたのは岩美町出身の国連大使、澤田廉三氏の奥様の澤田美喜さんです。
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熊井浜の鴎鳴荘の保護に携わる感動人情エピソード3つ!
http://iwamiguideclub.com/member/kumaihama.html



Wikipedia:沢田 美喜

By 朝日新聞社 - 『アサヒグラフ』 1952年12月24日号, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33205776
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