No.072【ファンドレイジングスーパースター列伝】呉 秀三(日本) [2018年03月13日(Tue)]
呉 秀三
![]() 呉 秀三(くれ しゅうぞう、元治2年2月17日(1865年3月14日)- 昭和7年(1932年)3月26日)は、日本の医学者、精神科医。東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)。日本における精神病学の創立者。クレペリン学派の新しい精神病学の普及を通じて精神病患者の看護法を改めた。日本における最初の精神衛生団体である精神病者慈善救治会を組織(1902年)、三浦謹之助と共に日本神経学会を創立[1]。日本の近代精神医学者のほとんどが、呉の息のかかった人といえる[2]。 ーーーーーーーーーーーー (Wikipediaより) もしかすると、精神障害関連分野における、日本初のファンドレイザーは、呉秀三かもしれません。 福祉分野関係者にとっては、次の言葉で有名かと思います。 ーーーーーーーー 『精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察』(1918年)のなかで述べた『わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし』という一節は特に有名であり、東京都立松沢病院の敷地内に建立されている呉の銅像の元にも書かれている。 ーーーーーーー Wikipediaより引用) さて、呉秀三にとって、ファンドレイザーとしての功績は「日本における最初の精神衛生団体である精神病者慈善救治会」に関することです。 日本精神神経学会のHPに詳しく掲載されていたので、引用します。 『歩み5:精神病者慈善救治会とその後 呉秀三は、欧州留学中に知った精神病院の救護会について、帰国(1901年、明治34)後大日本婦人衛生会で講演したが、それをきっかけに翌1902年(明治35年)10月10日、呉皆子(呉秀三夫人)が主唱して精神病者慈善救護会が設立された。目的は貧困精神病者への慈善事業であった。翌1903年(明治36年)12月に会報「心疾者の救護」第1号が発行された。1905年(明治38年)11月に大隈綾子(大隈重信伯爵夫人)が会長に就任、1919年(大正8年)9月に松井正子(大隈重信の養子信常の妹)が会長になった。 以後会長はいない。明治の元勲大隈重信は呉秀三の精神衛生運動のよき理解者、最大の支援者であり、のち侯爵となり、広く社会活動に尽力した。早稲田大学(1882年東京専門学校、1902年早稲田大学)の創設者であることは衆知のとおりである。 1921年(大正10年)精神病者救治会と改称され、慈善事業から社会事業へと切り替わった。東京府立松澤病院内の臨時救護所の設置(1924年)、駿河台の精神病者相談所の設置(1926年)、相談所内の治療部の開設(1926年)と続く。1927年(昭和2)救治会と改称され、呉秀三が理事長に就任。1929年(昭和4年)三宅鑛一が理事長になった。同年精神病者救治会と改称、会報は「救治会会報」と改題された。1930年(昭和5年)会からの資金で松澤病院内に新設された印刷作業所で、戦後数年「精神神経学雑誌」が印刷された。1931年(昭和6年)救治会と改称され、そこで目的は慈善事業から社会事業に発展した。 1943年(昭和18年)救治会、日本精神衛生協会、日本精神病院協会を統合して精神厚生会が設立された。残念ながら、精神病者の救護・治療・予防・社会的処遇改善のための社会事業団体としての救治会活動は戦後復活しなかった。』 https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=14 精神病者慈善救治会に関する寄付については、以下の論文で記載がりました。 日本医史学雑誌 第 54 巻第 1 号(2008) 大隈重信と日本の精神衛生運動(岡田 靖雄) 1931 年までの救治会への寄付金 38,000 円ほどのうちで,個人最高額は大隈熊子(重信娘)の1,600 円で,大隈夫妻 850 円,松井正子 317 円となっている. ーーーーーーーーー http://jsmh.umin.jp/journal/54-1/82.pdf 精神病者慈善救治会の財源やその後の展開などは、こちらの論文が参考になります。 天理大学社会福祉学研究室紀要第 17号 2015年 精神病者慈善救治会・救治会における実践の意義と限界 大阪産業大学 木村敦 https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3954/SKI001701.pdf Wikipedia:呉 秀三 By 不明 - 『神経学雑誌』第22巻、1922年11月5日発行。, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8965847 |