【ファンドレイジングスーパースター列伝】Vol.61 香淳皇后(日本) [2018年03月02日(Fri)]
香淳皇后
![]() 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年(明治36年)3月6日 - 2000年(平成12年)6月16日)は、昭和天皇の皇后。今上天皇の実母。名は良子(ながこ)、久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王。 歴代皇后の中で最長寿である(満97歳没)。 ーーーーーーーーーーー (Wikipediaより) 「官民克ク力ヲ戮セ結核予防竝二治療ノ達成ニ努メムコトヲ望ム」 1939年4月28日、香淳皇后が下された御令旨です。 これにより、公益財団法人結核予防会が生まれました。 結核予防会のHPからの引用です。 http://www.jatahq.org/siryoukan/ayumi/1939.html ーーーーーーーーーーーーーー 創立期、戦時体制期(1939-1945) 産業革命以後、結核は工場・大都市・軍隊などを中心に急速に広がり続け、1918(大7)年には死亡率は10万対257.1という最高値を示した。その後死亡率はわずかに減少したが、31(昭6)年の満州事変勃発の頃から戦時体制に入ると再び増加に転じ、39(昭14)年には死亡数は15万4千人を超え、死亡率は10万対216.3、その多くは「国民ノ中堅タルベキ青壮年男女ナルヲ以テ…経済、産業、国防等ニ及ボス影響亦甚大ニシテ新東亜長期建設途上ノ一大障碍タルヲ免レズ(予防会資金造成趣意書)」と、もはや放置できなくなった。この状況に対し皇后陛下は4月28日に「官民克ク力ヲ戮セ結核予防竝二治療ノ達成ニ努メムコトヲ望ム」との御令旨を下された。政府はこの令旨を体し、国を挙げて「財団法人結核予防会」を設立し結核対策を推進することとなった。 皇后陛下の思し召しを受け、結核予防会総裁には秩父宮妃殿下、会長は厚生大臣、理事長は厚生次官、副会長には財界と学会から代表を選び、はじめは厚生省内に事務所が設けられた。予防会は創立後、年表に示すように活発に活動を開始したが、2年余で太平洋戦争に突入、44(昭19)年には戦局が急速に悪化、予防会の活動はほとんど不可能となった。 ーーーーーーーーーーーー 戦後復興期(1946-1950) 予防会の創立時には政官民協力して資金の造成に努めたが、終戦までに集めることが出来た寄付金の合計は実に14,416,012円に上った。現在の貨幣にすれば100億円を超える金額である。当時はこれらの動産の大部分を国債、国策会社の社債などにして保有していたため、終戦とともにその大部分を失った。終戦時336人の職員を抱え事業を実施していた当会は経営困難となり、1946年7月にはついに113人の退職者を出し、組織の簡素化、再建が急務であった。その上、創立時より実際上の経営に当たってきた常務理事、結核研究所長を始め主要役員は大部分が辞職した。予防会会長は厚生大臣、理事長は厚生省次官というように、政府に全面的に頼りきっていた予防会は、戦後は組織の上でも民間団体として民主的に再出発することが必要であった。 一方、戦後の生活荒廃、栄養不良などで結核のまん延は著しく、戦後の混乱で死亡統計を始めデータはないが、水道橋の第一健康相談所には健康診断、あるいは人口気胸受療者などがつめかけ、戦後の混乱の中で病む人、心配する人、助けを求める人で診療所、療養所は混雑し、結核予防の活動も求められた。また、政府に対しては健康診断の結果を示し、結核予防の理論と経験を述べて「対策の推進」を強く要望した。 ーーーーーーーーーーーー 明治・大正時代から戦後にかけて、結核は喫緊の社会課題でした。 この問題に取り組むために、どのような動きがあったのか、とても参考になります。 また、結核予防会の歴史を紹介するページで、企業と社会事業の関係について、面白い事例があったので、引用します。 ーーーーーーーーー 保生園開園式(1939年9月) 第一生命保険相互会社は結核対策実施の重要性を早くから認識し、35(昭10)年7月「財団法人保生会」を設立し、結核予防センターとでも言うべき健康相談所(保生会館)を水道橋に、療養所を東京府下東村山村に建設して実行に取り掛かった。保生会館は既に完成し、療養所の完成直前に、皇后陛下の御令旨を戴いた財団法人結核予防会が設立されると、保生会は結核予防会に統合し大規模な体制の一環として運営した方が所期の目的達成に有効と判断し、保生会の財産一切を結核予防会に寄付することと決定した。 東村山の療養所は9月25日に開園式が行われた。八国山南面の丘陵地帯一帯の41,544坪、患者収容定員は214人であった。なお、第一生命からの寄付の経緯を記した記念碑は、新山手病院玄関前の前庭に建てられている。 また、結核予防会本部は初め厚生省内に置かれていたが、12月10日に水道橋の保生会館(現・本部)に移った。 ーーーーーーーーーーー 保生園、結研附属療養所の委託病棟 結核予防会の動産は、大部分が満州鉄道などの国策会社の債券として保持されていたため、敗戦とともに大部分を失うこととなった。しかし結核医療を進めるためには、結核病棟を建築し運営する資金が必要であった。一方、各企業では職員の結核発生が後を絶たず、その治療に当たる医療機関を探すことが切実な問題であった。この両者の要望を結びつけ、委託病棟という形で病棟建設が始められた。 41(昭16)年2月 保生園に東京ガス株式会社の平心寮を開設。 49(昭24)年12月 結研附属療養所に東京電力委託病棟を開設。 以後55(昭30)年12月までに、保生園では、東京ガス(50床)、第一銀行(20床)、高島屋飯田(10床)、第一生命(30床)、NHK(15床)、シチズン時計(10床)、国際電電(30床)の7社、計165床、自前の病床を加えると最高時には490床であった。 結研附属療養所では、国鉄(117床)、官公庁非現業(54床)、富士銀行(74床)、東京国税局(50床)、朝日新聞(50床)、日本銀行(81床)、日本軽金属(30床)、東京電力(66床)の8社、計522床の病棟の委託を受け、自前の病床を加えて636床で治療に当たった。委託病棟での診療は、それぞれの健康保健組合からの直接の委託だったため、いわゆる健康保険による診療制限は無く、自由にX線検査などの各検査、治療が可能だったので、いわば最も望ましい医療が行われ、これはまた結核の臨床研究にも大きく役立つこととなった。 ーーーーーーーーーーーーーーー 前者の事例は企業のCSV、後者の事例はNPOが企業にサービス提供するビジネスモデルですね。 Wikipedia:香淳皇后 By 宮内省 - http://alaskainpics.club/justephoto-emperor-hirohito-and-wife.acp ([1]), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61877674 |