【ファンドレイジングスーパースター列伝】Vol.50 渋沢栄一(日本) [2018年02月19日(Mon)]
渋沢栄一
![]() 日本資本主義の父、CSRの先駆け-渋沢栄一。現在でもなお数多くが上場企業として活躍する500社の企業を創り出す一方、600もの社会的事業をつくった。 ーーーー 恒例の第1回「オールド・ファンドレイジング大賞」応募事例のご紹介です。 13個目のエントリーは、ラスト・エントリーです。 とりをつとめるのは「渋沢栄一」です。 早速、Wikipediaからの引用です。 ーーーーーーーーー 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。 正二位勲一等子爵。雅号に青淵(せいえん)。 ーーーーーーーー 社会活動に関する箇所の引用です。 ーーーーーーーーーー 社会活動 渋沢は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。 日露戦争開戦の前年にあたる明治36年(1903年)、対印貿易の重要性を認識していた渋沢は、大隈重信らとともに日印協会の設立に携わり[5]、第3代会長をつとめた。 関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。 当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。 また日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。なお渋沢は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。 ーーーーーーーー 渋沢栄一のファンドレイザーとしての功績を見ていきましょう。 公益財団法人渋沢栄一記念財団のWebサイトからの引用です。 ◎"民"の力を結集して震災復興を - 渋沢栄一に学ぶ / 木村昌人 http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/earthquake/earthquake01.html 『被災民とともに東京にとどまり、大震災がもたらした難局に敢然と立ち向かうことを宣言しました。当時すでに83歳の渋沢は、豊富な経験を生かし、"民"の力を結集して、震災復興に挑戦することになりました。』 『次に渋沢は、救済事業資金調達のため、山科礼蔵、服部金太郎ら実業家有志と相談し、組織作りを始めました。9月9日、無傷のまま残った東京商業会議所(現在の東京商工会議所)に集まった約40名の実業家に対し、座長の渋沢は、"民"の立場から救護と復興に関する組織を立ち上げることを提案しました。9月11日には貴族院・衆議院議員有志が加わり、大震災善後会が結成されました。事務局は東京商業会議所に設置され、民間による救援活動の拠点としました。』 『1923(大正12)年9月11日、大震災善後会の副会長に就いた渋沢は、自ら5万円の寄付を行うと同時に、米国の知人24名に大震災の状況を知らせる手紙を送り、9月13日には援助依頼の電報を打ちました。大震災発生のニュースが全米を駆け巡り、鉄鋼王ゲーリー、銀行家ヴァンダーリップ、材木商クラークなど米国の錚々たる実業家が、心温まる見舞いと激励のメッセージを日本の各方面や渋沢へ送ると同時に、大がかりな義援金募集を開始しました。 その結果、予想をはるかに上回る巨額の義援金や大量の救援物資が届けられました。渋沢ら実業家の長年にわたる対米民間経済外交がその成果を発揮したといえましょう。』 『こうして、協調会による救援活動の資金を"民"の力で調達し、国際的なモラル・サポートを得た渋沢栄一は、東京市内各地を慰問し、現場のきめ細かいニーズを集めながら、救済復興事業の促進に席を温める間もなく活動しました。とても83歳とは思えぬ行動力でした。』 こちらの記事も参考になります。 ◎関東大震災後における渋沢栄一の復興支援 / 守屋淳 東日本大震災復興シンポジウム「渋沢栄一の経験から考える、いま「民」にできること」 - 基調講演 http://www.shibusawa.or.jp/eiichi/earthquake/earthquake02.html こちらのページに具体的なファンドレイジングの数字が載っていましたので、引用します。 『5.協調会と大震災善後会、海外への呼びかけ では、それぞれの活動について見ていきましょう。まず協調会での震災救護事業ですが、罹災者の収容、炊き出し、掲示板の設置、収容所の設置、臨時病院と、今も行われている活動がほぼ網羅されています。 次に、大震災善後会。ここに集まった義捐金は420万円以上、そして公債債権も26万円集まりました。この写真は築地本願寺が三河島につくった託児所の写真ですが、こういったところにお金を入れていくという活動をしています。 また、海外への呼びかけとしましては、渋沢栄一はアメリカ人から非常に尊敬を受けていました。偉大なる老人という意味の「グランド・オールド・マン」と言われており、そうした「つて」を通じて、大企業関係者、経済界、商工会議所、教会関係の重要人物に電報を打つ形で、自分の無事を知らせました。それは同時に、義捐金のお願いにもなっていたわけです。そのこともあり、ゲーリーが会長を務めるニューヨーク日本協会の10万ドルを最高額として、アメリカからは13万ドルを越える義捐金が大震災善後会に入りました。ちなみに、アメリカでは大統領からの呼びかけもあり、1,060万ドルという、当時としてはとてつもない巨額の義捐金が集まりました。』 ネットで検索していたら、Googleブックスで「大震災善後会報告書」を発見しました。 https://books.google.co.jp/books?id=Ma-2Gp2PVvkC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false (慶応大学の図書館に所蔵されているものです。) ページ数で約450ページ。 寄付募集の仕方や、どのような救援事業にいくら使ったのかなどまとめられています。 この当時の救援活動の一覧になっています。 さらに、付属資料で寄付者名簿もありました。 寄付者名簿は、各地域で集めた寄付の寄付者の氏名も記載されています。寄付は一口1円以上で集めたようですが、1円の寄付者も一人一人、名前と金額と都道府県が掲載されていました。 たまたま見ていたページで、「群馬 中曾根松五郎 30円」という記載を見つけました。中曾根康弘元内閣総理大臣のお父様ですね。 みなさんも時間がある時に、ぜひ、大震災善後会報告書を見てみてください。 Wikipedia:渋沢栄一 By 不明 - Japanese book Kinsei Meishi Shashin vol.2 (近世名士写真 其2), 発行 : 1934 – 1935この画像は国立国会図書館のウェブサイトから入手できます。これはライセンスタグではありません!別途、通常のライセンスタグが必要です。詳しくはライセンシングをご覧ください。English | 日本語 | +/−, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2731636 |