【ファンドレイジングスーパースター列伝】Vol.05 佐野常民 [2018年01月05日(Fri)]
佐野常民
![]() 佐野 常民(さの つねたみ) 1823年2月8日(文政5年12月28日) - 1902年(明治35年)12月7日 By published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=327905 佐野常民は、佐賀県出身の政治家です。 ソーシャルセクターとしては、日本赤十字社の創設者であり、初代社長を務めた方として、名前を知っている方もいらっしゃるかと思います。 以下は、日本赤十字社のWebサイトからの引用です。 http://www.jrc.or.jp/about/history/ ーーーーーーーーーーーーーーーー 日本赤十字社は、1877年(明治10年)に設立された博愛社がその前身となっています。その後、1886年(明治19年)に日本政府がジュネーブ条約に加入したことに伴って、翌1887年に名称を日本赤十字社と改称しました。 博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の折、佐野常民さのつねたみと大給恒おぎゅうゆずるの両元老院議官によって設立された救護団体です。西南戦争では、明治政府軍と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広げられ、両軍ともに多数の死傷者を出しました。 この時この悲惨な状況に対し佐野、大給の二人は救護団体による戦争、紛争時の傷病兵の救護の必要性を痛感し、ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を作ろうと思い立ちました。 1877年(明治10年)、佐野、大給両人を発起人として、政府に対して救護団体博愛社の設立を願い出ました。しかし、この願いは認められませんでした。その理由は、 『このような考えは素晴らしいことではあるが、 ・現地には救護に必要な医師等は派遣しており、医療は足りている。 ・今、新しい組織を作って戦地に送れば、混乱をきたす。 ・欧州では国家間の戦争の際に組織(赤十字)を作って救護することは知っているが、このたびの内戦にまで適用されるものなのかどうかは分からない。 ・このような組織の創設は、平和な時に十分時間をかけて検討すべき。』 このようなものでした(「明治政府からの回答書」参照)。 しかしながら、戦場ではおびただしい数の負傷兵が手当てもされず、放置されていたことは事実で、博愛社の設立を急いだ佐野は、征討総督有栖川宮熾仁親王ありすがわのみや・たるひとしんのうに直接、博愛社設立の趣意書を差し出すことに意を決し、1877年5月、熊本の司令部に願い出ました。 有栖川宮熾仁親王は英断をもってこの博愛社の活動を許可されました。 救護活動の許可を得た博愛社の救護員は、直ちに現地に急行し、官薩両軍の傷病者の救護にあたりました。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 日本赤十字社では、1978年(明治11年)に「社員」という会員制度を設け、自主財源としたそうです。社員の年拠出金を「年間3円以上、12円以下」という上限を設けていました。 この当時、大卒初任給が8〜10円くらいでしたので、大卒初任給前後の金額だったと思います。 この時代のファンドレイザーは、事業や組織の設立と、ファンドレイジングを一緒に取り組んでいます。 Wikipedia:佐野常民 佐野常民記念館(佐賀県佐賀市) http://www.saganet.ne.jp/tunetami/index.html |