(1)東京渋谷・日赤医療センターその@日赤医療センター医療ミス、医療過誤
昭和 年おおよそ 年前長男ヒロキは東京都広尾の日赤医療センター産婦人科で雨野森先生の担当で出生しました。しかし腸に問題があり○○の頃手術をすることになりました。しかし予定ではもっと成長して数年後とのことでしたが野沢医師の要望で急きょすることとなりました。場所は東京都渋谷区広尾日赤医療センター広尾病院、執刀は小児外科の野沢医師でした。堀小児外科部長の事前の説明では「大きな危険を伴う内容ではありません」とのことで同意書も取られませんでした。しかし通算して2度手術をするので長期予定で9月13日、時期はずれの台風が訪れた翌日入院いたしました。
9月21日、1回目の手術も数時間で終了し完全看護で付き添いも求められず帰宅したのを憶えています。私たち夫婦にとっては初めての子供でありひとり病院へ置いて行くのは非常に不憫でしたが日赤広尾病院であればとの安堵感もありました。当時は江戸川区に住んでいて自宅からN病院まで車でおよそ1時間30分ほどの道のりを面会時間に間に合うようたいへん急いだのを覚えています。
手術後8日目9月29日まだ面会時間に至らない午前、私の職場に担当のN医師から急の電話がありました。
「子供さんが高熱を出しているのですが、どうも普通の熱ではなさそうです。詳しいことは病院で話しますがすぐ来て下さい」
「いますぐですか、どんな状態なのですか」
「すぐ来て下さい緊急の事態です、悪い状態です、奥さんにはすでに連絡してもうこちらへ向っています」
なにがあったのか全く予想できず、とても不安な気持ちで職場から30分ほどの病院までの道程をタクシーで急ぎました。
タクシーの車窓から見える景色はとても爽やかな快晴で、まだ残暑の眩しい陽の光がいっぱいで、みんなのんびりしているように見えます。
小児病棟のヒロキの部屋は昨日までの様子と打って変わり広いスペースになっていました。他のベッドをすべて室外へ出して1つのべットだけにしたようでした。部屋の中央に寛樹が寝ているベッドが置いてあります。寛樹に呼びかけましたが返事もせず苦しそうな表情で「うーうー」とうめいています。何よりも顔色が黒ずんでいて相当悪い状態である事が分かりました。
妻もすでに到着していて不安でいっぱいの様子です。小児外科部長の堀さんが
「状況を説明いたします、昨晩あたりから高熱が出まして様子を見ていたのですが40度ほどの熱がずっと下がりません。チアノーゼもありどうも普通の熱ではありません。今検査をしています」
とても張り詰めている空気、静まり返っているけれどいまにも金属のなにかが床に落ちてキーンと音がするようなそして冷房の強く効いた部屋、窓越しの外は青空で風もなく陽射しも眩しく暑い、こんな日にこんな事が起きるのかと辻褄の合わない妙に不安な胸騒ぎに初めて駆られていました。
「うーうー」
突然寝ていた寛樹がすごい呻き声をあげて上半身を弓のように反らし、白目を出してひきつけました。一体何が起こっているのか、わたしも妻もうろたえるしかありません。
「早く処置して」妻が誰に言うともなく叫びました。
担当医師、看護婦が右往左往しています。
「これは熱による発作です。今発作止めの薬を入れます。まだはっきりしたことは言えませんがどうも敗血症だと思われます。原因は不明です、危険な状態で24時間ぐらいが山だと言えます。」
そんなばかな
「病院に入院していて突然こんな事が起こるのだろうか」
「同じ病室の同じ病状の子供たちはみな経過も良く順調なのに私たちにだけなぜこんな不幸が訪れるのか。これは病院になにかミスがあるのではないだろうか」
いろいろな想いが脳裏を巡ります。
「死んでしまうのだろうか」
担当医師も
「なぜこのようなことになったのか分かりません。できるだけのことをします」
と言う、そのような話の中で分かってきた事は
「生命の危険な状態であること。血液中に何らかの原因で大量に黴菌が入り血液自体が負けてしまっている現象が敗血症であること。この毒の血液が全身に巡るから様々に悪い状態が出現すること」
医師は
「差し迫っているのは腎臓です。すでにごらんのように尿が出なくなっています。」
子供の体には胸に脈拍のモニターが取り付けられ何本ものチューブが何処からか繋がっていて、その1本の尿管に入れられたチューブを指さしました。濃い色の尿が袋に溜まっています。
「これの原因の菌が特定できればそれに合う抗生剤で対応できるのですが菌の培養は1週間ほどかかります。いまは全般に効くような抗生剤を入れていますがどうもよく効いていないようです。このままでは腎臓が機能しなくなってしまいますので交換輸血しかないと判断しました。すぐ始めたいのですが同意していただけますか」
「とにかくなんとかしてください」
何でもいいから命を助けてもらいたい、ほんの1時間の間に私たちの意識は病院に到着したときのものとは全く違っていました。
「うぉー」またおおきな痙攣が始まりました。
とても見ていられないような表情。医師がつぶやくように他の医師に
「こんなときに突然やられることがあるんだよなー」
とつぶやきます。やられるとは死亡することです。これを聞いていた妻は突然嗚咽しました。
「なんでこんなことになるの」
「でも、そんなことは今言っていられない、とにかくこの今を乗り切って子供に生きてもらわなければ」声には出さずに心の中で私は自分に言い聞かせていました。
交換輸血とは片方の腕の血管から新鮮な血液を手作業で注射器を使用して入れてゆきます。同時にもう片方の腕から悪い血液を輸血するのと同じ速度同じ圧力で抜いてゆきます。
心臓に大きく負担がかかり心臓が停止することもあるそうです。心臓に負担をかけないように2名の医師で行います。
1回の交換は約600cc1時間〜2時間ほどかけて行っているようでした。
「終わりました。また状態をみて行います。見てくださいおしっこがたくさん出てきました。」
尿管のチューブから途切れることなく尿がでています。子供の表情も苦しい苦悶は消えています。
「いまは落ち着いた状態です。全身状態も予想以上に安定しましたのでひとまずは大丈夫でしょう。今夜はこの病棟の並びの部屋に仮のベッドを用意しますので休んでください。食事も今のうちに摂ってください」・・・・
眠れずに子供の傍に付き添う私達。それでも交代で少しは眠ったのだろうか、病棟に明るい陽射しが差し込んでいます。
しかし寛樹は依然として意識はなく呼びかけても反応はしません。熱も上がってきています。
その日夕刻また交換輸血が始まりました。結局意識は戻らないまま腎臓の機能低下との戦いが始まりました。
来る日も来る日も交換輸血と検査の繰り返し。病室は輸血でもれた血痕が床に点在し凄惨な状況となっていました。わたしたちも家に帰ることもできず仮設のベットで仮眠を何時とったのか分からないながら3日が過ぎていました。
しかも子供の体は他の臓器も敗血症の影響が出始めていて心電図も不安定になりつつありました。決して改善していない、むしろ悪くなっている事を私たちは感じ始めていました。
第1章 東京渋谷・日赤医療センターそのA
そして熱発から1週間後、医師は
「依然として重篤な状態です、何とか私たちもしなければと思っています。それでこんな幼い子供が入るのは異例の事ですが救命センターのCCUに入れたいと思います。医師団によるチームを作りまして最善を尽くしたいと思います」
との言葉を小児外科部長から聞くことになります。
10月4日(AM2:20多臓器不全、意識不明全身にむくみ)N病院4階集中治療室CCUに入室することになります。受付から一番遠い目立たないエレベーターを上がると狭い廊下になっていて、その通路の途中にCCUへの面会入口があります。ドアを開けるとスノコが床にひいてあり靴を脱いで上履きに履き替えます。同時に白い頭覆いを被り割烹着のような大きなエプロンそしてマスクを着けます。そしてインターホンで氏名と面会の希望を告げて待ちます。処置中などの都合によって1時間ほど待たされる事もあります。
「現在の寛樹君の状態を説明します」CCUで担当になったチーフの麻生医師の説明です。(麻生医師はこの数年後ベトナムで枯葉剤により2人の体が付いて生まれてしまう奇形となった双生児の担当医になった方です)その説明によると
「敗血症の原因菌が特定できました。大腸菌の1種ですがこの菌は死滅すると毒素を出す達の悪い菌です。つまり抗生剤や白血球などが菌を退治して死滅するとそれがまた血液を悪くしてしまう追いかけっこのようなもので,現在対処法を見つけているところです。」
「お願いしますとにかく命だけは助けてください」
CCUは時間単位で物事が進行してゆくめまぐるしい世界です。しかし本来のICU救命とは違いその1歩手前の人たちが入室するところでした。それでも数時間後にはICUへ行ってしまう人、急に亡くなってしまう人など入れ替わりも目まぐるしく、こんな幼い子供が重篤のまま頑張っている事自体奇跡でした。そして私達も一進一退の子供の状況で自宅に帰ることはとても出来ませんでした。
病院の敷地の中に一戸建ての使用目的が良く分からない建物が数棟あります。その一つ、2階建で部屋数も多くある建物の2階の1部屋をあてがわれます。有料なのか無料なのか分かりません。とにかく病院側は
「ここで待機してください。なにかあれば内線電話で知らせられます。病棟までは数分とかかりませんから」
しかしこれらの医療費はどうなのだろうか、救命医療は莫大な料金と聞いていたのでそんな不安も脳裏を過ぎりますが子供の事以外考える余裕はありません。「あとはなんとかなる」と思い必死で耐えています。
そんなCCU入室から数日たった頃さらに子供にとって最悪の状況が現れました。それはその時点で最悪と考えたのではなく、現在思い返した時にこの状態が今の状況を引き起こしてしまったと感じているからです。私達は出来ることならCCUでもずっと付き添いをしていたかったのですがそれは出来ません、そのかわり頻繁に面会に行きました。本当はずっと付き添って居たかったのですがしかたなく2時間に1度ぐらい昼夜を問わず出かけました、看護士や医師には迷惑かなと思いながらも漫然と部屋で待っている事は出来ませんでした。
そんな面会の折、子供の左の頬がピクピク引きつるのを見ます。よく全身を見ると左足もピクピク動いています。さらに観察すると途切れることなく一定のリズムで引きつっています。そして付添いの看護婦がストップウォツチを持ちその痙攣の間隔を測っています。不思議と全身でなく頬と左足の付け根から下だけが痙攣しています。そして医師の説明を聞くまではたいした事ではないだろうと思い込みましたがH小児外科部長は。
「非常にやっかいな事になりました。実はこの痙攣は脳が髄膜炎を起こしている為です。命に関わりますが治療できます、すぐに薬で止めますから。ただし後遺症が残りますそれは覚悟してください。今後の問題ですのでまた相談しましょう」
堀小児外科部長からの話でした。
思い返せばこのとき子供の脳が徐々に破壊されていたのです。しかしわたしたちはまず命が助かる事しか考えられませんでした。医師が言ったとおり痙攣は数時間で止まります。しかし翌日また痙攣が始まります、それも数時間で止まりました、その後この痙攣については出現しませんでした。
まだ意識不明のまま子供は頑張っています。
このどうしようもない状況に医師団もあせりが見えます。そして何とか切り抜けたいとの思いから医師がいままでのこの種の菌に効果があると言われている抗生剤から新しい抗生剤に切り替えます。そしてその結果なんと血液のデータはかなり改善したのです。
「全身状態がかなり良くなっています。血液のデータが回復に向かいつつあります。後一つの問題は血小板です。全然足りていないのです。血小板があまりにも少なくこの成分のみの輸血をします。」
「ほらクモの巣のように皮膚の下から出血しているでしょう。そしてなにかの大出血があると血が止まりません」
見ると皮膚の所々に直径5センチ程度のくもの巣のような茶色の痣のようなものが上半身の所々にありました。
(しかしなんとか最悪の状態をきりぬけつつある)
そんな印象を私たちは直感的に感じました。
「あとは血小板さえ増えてくれれば」これが希望といえるのかわかりませんが今までの打ちのめされた状況の中では私たちにはそれでも希望だったのです。
あまりにも突然、CCUからの連絡が入ります
「意識がもどりました。希望のもてる状態です、すぐ面会にきてください」あてがわれた1部屋に電話が響きました。
10月14日尿も増加し顔色もよく寛樹は目を開きました。あまりにも突然のことです。
「ひろき」妻が呼びかけます。私も呼びかけます、丸い目でいったい何があったのか不思議そうなあどけない表情です。
「助かった」とこのとき思いました。まだ依然として血小板は少なく、全身がむくみ黄疸もでて皮膚は黄色くなっているけれど、心拍モニター,点滴のラインはつながったままだけれどそして尿管もつながり痛々しい状況だけれど
「助かった」と思うのです。
親子の絆は目に見えないけれど不思議な感覚でつながっていることを私たちは感じていました。医師の話では
「なぜか分からないのですが抗生剤を変えてみようかと感じまして、別の抗生剤を数日使ってみました。それが良かったようなのです」私達は祈りが通じたような気がしました。
その後は数日で驚くほど回復してゆきました、そして10月26日CCUから一般病棟へ移れるまでになりました。
11月6日には血小板も14万になり血液についての心配はなくなりました。この間意識不明約一ヶ月、交換輸血7800t、奇跡的に命をとりとめたのでした。
そして11月26日入院から約3ヶ月間の時間を経て退院しました。入院費の請求金額は千円にも満たないものでした。そして医療過誤の疑いがこの後わたしたちにずっと付きまといます。さらに寛樹の左腕、足は脳髄膜炎の後遺症のため麻痺して動かず、CTスキャンの結果左脳に水が溜まりてんかんの波が脳波に出ているという満身創痍の状態での退院でした。
明るい秋の陽射しが病院の駐車場に一杯に輝いていて私達は記念撮影のように写真を撮り、現在このときの事を思い起こすことが出来る2枚の写真のうちの1枚となりました。
しかしヒロキの苦難の人生はこれが始まりでした、この後幾度もさらなる危機がせまります。そして私たち夫婦にとっても、全く予想しなかった別の人生を歩まされることになります。(後述・このことは記憶をたどり書いています。本当は思い出したくない、思い出せば非常に疲れる悲しいことです。文章はなかなかはかどらず少しずつ書きました。また妻には見せたくないものです、読ませれば一気にそのときの状況を思い出し落ち込んでしまうでしょう。しかし次男もたくましく成長して来ていてやはり記録しておくことがわたしの務めであるとおもいます。このヒロキの物語はこれが始まりです。