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東日本大震災当日の話 〜その5〜 [2011年03月12日(Sat)]
大震災当日の締めくくりとして、自分が所属する日本財団の当日の対応について、深い自戒の念と共に、書いておきたいと思う。

11日の深夜(正確には12日の午前4時)、私は全役職員宛てにやるせない気持ちでメールを送った。

それは、日本財団が日本財団ビルのある赤坂周辺を含め、多くの帰宅困難な方々が出ているにも関わらず、一切、それを助けることもなく、休憩場所も提供せず、ひっそりと一夜を明かしてしまったという事実について、「人を助けることをミッションとする組織のあり方はそれでいいのか?」という自戒も含めた残念な思いを吐露するメールだった。

私は、実は当然、そういう動きが日本財団ビルで行われているものだと勝手に思い上がっていたのだ。
しかし、そんな動きは全くなかった。

多くの日本財団職員も帰宅困難者となり、ビル内に泊まっていたにも関わらず、全く何も、人助けのためのアクションをしていなかったという事実に落胆は大きかった。

しかも、各省庁をはじめとする公共施設はその方々に次々と受け入れを表明、会社やコンビニなどもそれを手助けしている中で、最もやらなければならない組織の一つである日本財団が何もしていなかった。その存在意義を考えた時、それはあってはならないことだ。

しかも、日本財団ビルの地下二階には、万が一の時のために非常用物品の備蓄があり、毛布もあれば水もストックされている。

それをこんな時に役立てず、一体いつ使うつもりでいるのか? ということを苛立ちと共に書いた。

そんなメールを役職員に送っても仕方のないことは重々承知だった。これだけの災害が発生し、自分もある意味被災者となった時、そんな冷静に組織として今すぐに何をすべきかに思いを巡らせることができるほうがむしろ変なのだということはわかっている。

それでもなお、自転車で走る中で見た、黙々と秩序立って歩いて行く多くの帰宅困難な方々の後姿を思い出すと、何度も悔しさがこみあげてきたのだ。

自分が一言、日本財団ビルに立ち寄って、それを伝えていればきっと動いてくれたであろうことは間違いがない。単に誰もそれに気付く余裕がなかっただけなのだ。

しかし、取り返せない時間と共に、その機会は失われていた。

とすれば、「ここから日本財団は何をするのか」、それこそが本当に問われる時間が迫っていた。
東日本大震災当日の話 〜その3〜 [2011年03月11日(Fri)]
震災からわずか6時間という異例の早さで「東北地方太平洋沖地震支援基金」が立ち上がったことは決して偶然の産物ではない。

これまでCANPANプロジェクトが行ってきた全ての事業がつながってここに集約された結果と言える。

CANPANプロジェクトに関わってくれているスタッフは、まだ余震が続く中でバナーを作ってくれたり、文言をお互いにチェックしたり、クレジットカード決済システムとの連携を含めて、本当に必死でがんばってくれた。

不安だったスタッフもいたと思うが、そんなことは一言も言わず、ただひたすら夜を徹して作業をしてくれたのだ。これはミッションを共有している者たち同士でなければ決してできないことであった。

そしてこの基金を立ち上げて数時間も経たないうちに、すでに何万円もの寄付が集まり始めていた。

この浄財は必ず現地で、それこそ命がけでがんばるNPOの皆さんに届ける、そんな思いを強くしながら朝を迎えた。

この一連の時間、CANPANセンターの事務所自体に人は居らず、帰宅できる者は帰宅し、遠方で帰れない数名は近くのCANPANプロジェクト協力カフェでもある「フォレスタ虎ノ門」さんに避難、自分は自転車を駆って、帰宅難民となった人達が秩序だって黙々と歩く姿に感銘を受けながら街の様子をリサーチしつつ自宅に戻っていた。

これは、リスクの点で組織機能を分散させるという意味があった。
CANPANセンターはこの非常時でもクラウド組織として機能できる。そう信じての分散だったが、それを確認することはできた。

ただ、余震の続く中での分散は、リスクを伴う判断だったと言わざるを得ない。
事務所のビルが耐震構造のビルならともかくリスクがあると言うのだから、今夜中にやるべきことをやるには、他に採る選択肢も自分にはなかった。

そんな中で、非常時にこそ機能するCANPANプロジェクト、という自分の思いを他のスタッフも持っていてくれたことが何よりうれしかった。

ちなみに、家では、愛犬も一人で留守番していたが普通に元気で出迎えてくれ、倒れたものと言えば飾ってあったKING OF POPのマイケルのフィギュアが倒れていた程度だったが、熱帯魚の水槽の水回りはそれなりの打撃を受けてしまった・・・困った

震災に強い家を目指してかなりこだわって自ら設計した家だが、この、趣味の領域だけは、リスク管理が難しい・・・とあらためて思った・・・ダメ
東日本大震災当日の話 〜その2〜 [2011年03月11日(Fri)]
一時間ほどすると、外にいたCANPANセンターの皆も建物の中に戻ってきた。
まだこの老朽化したビルの中が安全だとはとても言えない状況ながら、外にいるのも安全とも言えないのが、都市の災害というものの恐いところでもある。

まだ退社時間には一時間近くも時間があったが、とりあえず表向きの業務は終了した。ここからは非常時対応の時間となることを覚悟した。

災害が起こってから72時間、それは被災した人を救出する上で最も重要な最初の時間帯だ。

この72時間までの間に、がれきの下敷きになって救助を待つ人などの生存確率は10%程度にまで下がる。つまり、72時間以内、しかもできるだけ早く救出しないと10人に9人は亡くなってしまうのだ。

しかも、天気を見れば、東北は相当な寒さ。しかも津波で濡れている可能性も高いとすれば、水分がさらに熱を奪う。
この夜を乗り切れるかどうかというほどに切迫した状況下で事は推移していると言わざるを得ない。

この間、実は民間レベルで支援できることはほとんど皆無と言っていい。
軍隊(自衛隊)や警察、消防など、専門部隊の作業を邪魔しないことくらいしかできないのだ。

とすれば、自分達が今すべきことは何か?

それは次に来るであろう、市民活動として被災地支援のために多くのNPOやボランティアが活動する資金を調達しておくことだ。

被災地支援は、阪神淡路大震災や中越地震を見ればわかるとおり、国や行政だけでは成り立たず、NPOやボランティアが本当に大変なところを担う。

そして、今回も多額の「義援金」が被災地のために寄付されるだろう。

しかし、この「義援金」は、これら被災者のために必死で活動するNPOやボランティア達には一円も使われないのだ。

それは、皆、長い時間をかけた後、被災者に渡される。
だから、これはこれで必要なお金には違いないのだが、今、困っている被災者のためにはならないという意味で非常に残念な制度なのだ。

だから過酷な環境で支援にあたるNPO達は自腹で被災地に向かうことになる。

それを防ぐための方法、それはCANPANとしてNPOの活動資金となる募金を一刻も早く集めることだ。

ということで、CANPANペイメントを担当するマネージャーの高島さんと相談し、一気に「東北地方太平洋沖地震支援基金」を立ち上げたのである。


東日本大震災当日の話 〜その1〜 [2011年03月11日(Fri)]
「東北地方太平洋沖地震」が発生した時、自分は内閣府で「新しい公共」推進会議の「情報開示・発信基盤に関するワーキング・グループ」に参加していた。

ビル自体も古かったのもあるだろうが、非常放送のスピーカーがうまく鳴らなかったり、上水道が壊れたり、国の中枢機能を担う建物としては、甚だ危機管理ができていなかった。

おそらく立派な建物を建てると税金の無駄遣いだとか、そういうことを言われてしまうから、貧相な状態を維持しているのだと思う。

しかし、非常時に役に立たないようなビルに行政の中心機能を持たせておくことのほうが国民のためにならないということは間違いないことなのだから、声を大にして言ってもらいたい。

立派過ぎる建物であることや華美の建物であることと、非常時に役に立つような堅牢な建物であることとは別の話なのだということくらい国民だって理解してくれる。

それはさておき、ちょうどミーティングも最後の最後に地震が来たため、なんとか閉会したところ、ビルにヒビが入っているとかで、できるだけ早く退避してほしい旨の伝令(非常放送が機能しないため)が来て外に出る。

不安げな顔をした人達がヘルメットなどをかぶりながら外に退避していた。

この時はまだ、東北地方が震源で震度8の地震があったということを、Yahoo!の宮内さんがいち早くiPhoneで情報をゲットし、教えてくれた。

CANPANセンターに電話を入れるも、もちろんつながらない。

ツイッターだけが生きていて、それを見ているとどんどんツイートが流れてきていた。

阪神淡路大震災の時の唯一の通信手段は、当時はまだ普及間もなかった携帯電話だった。
珍しい携帯電話を片手に被災地を歩き回ったことを思い出した。

今回はまた新しい通信ツールとしてのソーシャルメディアが生きていた。
しかもSkypeも生きているという情報もツイートされていた。
とりあえず通信手段が確保できていることに安心する。(これは災害時、何よりも重要なことの一つだ。)

虎ノ門のCANPANセンターのある海洋船舶ビルに着くと、ビルの中には入ってはいけないという。
ビル自体が40年以上経っていて立て替え検討中のビルだけに、今回の地震でどうもヒビが入っているとのこと。

CANPANセンターの皆は無事で、ビルの外に避難も終わっていて胸をなでおろす。

外で少し待っていたが、CANPANセンターの状況と、何より情報が欲しかったのでジリジリしてしまい、余震が来て死んだら死んだで仕方ないとビルの中に入り業務に戻る。

見事にミーティングルームの本棚が倒れていた。
この時、倒れた逆側でミーティングをしていた人がいたが、幸いにも怪我もなく済んだとのこと。本当に幸運だったと思う。




そして、他の人の机は無事なのに、自分の机の周辺だけが震度8になっているのを発見する。。。困った



とりあえず情報収集しなければならないため、自分の机を片づけて、NHKのUSTを見て愕然とする。

「津波、しかもとんでもない規模・・・」

まるでハリウッド映画のような、非日常的な光景を目の当たりにして、自分の頭の中で、直感としか言いようがないが、「これは阪神淡路の比じゃない災害だ。CANPANとしてしなければならないことを今すぐやらなければ」という閃きが起こった。

それをきっかけに、頭の中でやるべきことが、それこそ津波のように明滅してくると同時に冴えわたってきて、冷静さに拍車がかかった。

こういう時、自分の心は異常に冷静になってくる。つまらない時には容易にパニックになる自分の頭が理路整然としてしまう。

それがいいのか悪いのか、よくわからない。
ただ、自分がやるべきことが見えるという意味で、自分はこの性格が今の仕事には向いているように感じる時がある。
東日本大震災当日の話 〜その4〜 [2011年02月11日(Fri)]
私の実家は茨城県の水戸市にあるが、兄には全く連絡がつかない状態が続いていた。
水戸の隣町にあたる大洗町は津波の被害を受けたようで、心配は募るがどうしようもない。

「今、自分にできることをする」と心を落ち着かせ、パソコンと向き合いながら、自分にできることとして、「CANPANプロジェクトしてやるべきことをとにかくやる」ことだけに努めることにした。

クレジットカード決済によるNPO支援のための基金は立ち上げたが、それだけでは世の中の人に届かない。

そこで、安否確認情報を17時の段階で取り急ぎ載せていたトップ画面の「CANPANニュース」に基金のことも登録、寄付の呼びかけをはじめた。

この安否確認のサイトは非常にシンプルだ。こんな時にはシンプルが第一だが、これがあること自体を被災された方々が知っていることが前提のシステムとなっている。

したがって緊急時で無事の時にはここに登録するということを家族などで決めておくという準備がないとダメなのだ、と今回実は初めて知った。。。

そのため、兄の携帯番号も入れてみたが該当なしと出て、それで不安になるのもどうか、安心もできないし、となんとも言えない気持ちになった。

そんな中、21時頃にTwitterを使って募金の呼びかけを開始した。

23時39分にはCANPANのオフィシャルメルマガである「cocoCANPAN」の緊急配信を行い、基金へのご協力と共に、震災発生からすでに活動を始めていたCANPANプロガーの情報を配信した。

CANPANには、全国の情報発信力に長けた8000を超える団体の方々が登録している。
またそれとほぼ同数のプロガーの方々がいる。

こんな時に、このネットワークはなんと心強いことだろう。

テレビは一切のCMをせず、この震災のニュースを流し続けていた。
千葉ではコスモ石油のガソリンタンクが爆発し炎上している姿が映し出されていた。

それを見ればみるほど、この震災が信じられないほどの規模の災害であること、そのためには日本中のNPOの力が必要になること、そしてその時にCANPANはその一つのコアとして機能することができること、そんなことを玉突きで考えながら、72時間以内に自分たちは何をすべきかを考え続けた。