〜従軍看護婦の体験から〜
看護師の歴史と従軍看護婦
「八月の会」主催「今、次世代に伝えたいこと シリーズ12」が、
平成28年7月31日午後、真岡市市民会館で開催されました。
「八月の会」は戦争体験者が少なくなり、
当時を語る方たちが年々薄れゆく記憶の中から紡ぎだしてくださる
平和への想いを広く知っていただくために、
毎年開催しています。
過去のポスター
今回は「従軍看護婦の体験から」ということで、
体験談の前に日本赤十字社芳賀赤十字病院の前看護部長の久保智子さんから、
戦前の赤十字看護婦は従軍することが義務使命であったことや、
戦後はナイチンゲール精神を基本としている歴史等を解説いただきました。
続いて長男の本坊順一さんに支えられ登壇した、
鹿児島県出身で90歳になられた本坊重子さんの体験をお聞きしました。
壇上の本坊さん親子
重子さんは子ども頃に何か社会のお役に立つ職業はないかと思い、
看護婦になることを決意し17歳で合格。翌昭和19年に召集令状を受け、
小倉の陸軍病院へ勤務。
小倉の病院では戦場から引き揚げてきた傷病兵の看護に当たりました。
物資が欠乏した中での勤務で、兵士に食べさせる物もなく、
水さえも満足に飲ませることが出来なかったことが、
今でも悔やまれ苦しい記憶として蘇る様子でした。
順一さんは、「八月の会」の皆さんからの働きかけによって、
お母さんの経歴を整理し、戦争体験を聞くことができ、感謝していますと述べ、
戦後、折角先輩たちが平和な日本を作ってきたのだから
命の大切さを伝えていければと思っていると話してくださいました。
会場からは戦闘体験者が、戦友が亡くなる様子を生々しく語られました。
会場入り口には、本坊さんの当時のアルバム、赤十字看護婦必携手帳、
救護員手帳など多くの資料が展示されていました。
多くの関係資料
赤十字看護婦必携手帳
救護員手帳
現在90歳になられた重子さん、7人のお孫さんと9人のひ孫さんがおられるそうです。
ひ孫さんに花束を受け取られる重子さん
現在は看護師となっていますが、あえて当時の看護婦という表記を使いました。
報告者 T.K
2016年08月02日
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ありがたいお言葉いただき、大変うれしく思います。
お母様のこと、遅ればせながら、謹んでご冥福をお祈りいたします。
私は足を運べなかったのですが、大変よい会だったと聞いた覚えがあります。それこそご家族で支えて下さったからこそだと思います。
頂いたコメントは、八月の会の皆さんにもお伝えしたいと思います。
コメント、本当にありがとうございました!