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CLC活動日記
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石巻市渡波地区を訪ねて[2014年04月15日(Tue)]
情報紙の取材で、宮城県石巻市渡波地区に足を度々運んでいます。

渡波は、海から近いため
東日本大震災による津波で甚大な被害を受けました。
道沿いにあった「石巻市立女子商業高等学校」の建物も
いまは取り壊されて更地になり、
向かい側にはこの4月からコンビニがオープンしました。
この道を通るたび、切なさ、やりきれなさが胸にあふれます。

DSCN1175 (2)ss.jpg

「被災後は道の目印がなかったから、
コンビニができて、自宅への道案内が楽になりました」と
話すのは、取材でお世話になったAさん。
ここから山の手に入ったご自宅で被災。
海からだいぶ離れているのに、1階まで浸水。
県外避難を経て、現在はリフォームした自宅に戻られて生活しています。

すべては、在宅介護していたおばあちゃんを故郷に帰すため。
いろんな支援を得て、必死で自宅を再建したAさん夫妻。
「おばあちゃんは故郷に戻ってきたことをわかっていた」
「石巻で看取れたことがなにより」
と涙。

「渡波に帰ってこられた私たちは幸せ」
「でも、以前は通学路でよく聞こえた子どもの声がめっきり減った」
「空き地ばかりのまちの様子を見て気が滅入ることも」
複雑な心中を語ってくださいました。

一人ひとりの暮らしに宿る思い。物語。
支え合いとまちづくりの芽。
微力ですが、「月刊地域支え合い情報」で発信し続けたいと思います。
(友)
県北をめぐって雑感[2014年03月14日(Fri)]
先日、宮城県北を取材してめぐるなかで、
「命までケアする傾聴活動」に出会いました。
取り組みがとても新鮮で
私はいままで傾聴の本質を理解していなかったのだなあと反省しました。

また、被災者でもある現場のスタッフが意欲をもって働いていて、
来年度の収入が決まっていないなかで危機感を持ち、
現場スタッフが積極的に活動を広めようと動いていました。

現場をあるくと、東北の閉鎖的なまちのなかで
出る杭は打たれる・・という経験をされてきた地元の人たちに出会います。
傷ついた心、摩擦と苦悩のお話は涙ありで、なんともいえません。
私も一緒に泣いてしまう取材もあります。

私は事前に筋書きを描くことなく、
白紙の状態で取材に出かけて、相手の方からお話を聞くのがすきです。
取材というのは、傾聴の一つの形なのかもしれない。
そんなふうに思い始めた震災4年目です。

宮城県内を取材中[2014年01月27日(Mon)]
「月刊地域支え合い情報」の取材で、県内をいくつか取材中。
被災地では、災害公営住宅や防災集団移転の進捗とともに、
仮設住宅やみなし仮設から引っ越して新生活をスタートさせる
「転居期」に入りつつあります。

仮設と違い、災害公営住宅は恒久的に住むことができるので
引っ越した途端「自立した」と制度上みなされることが多いのですが、
実は阪神・淡路大震災でこの時期に孤立死が多く発生したそうです。

仮設を出て、自分の住まいをもてた安心感はあるものの、
せっかく2年半で顔なじみになった仮設を出て、
不慣れな新生活を送ることになるので、心細くなり、
体調を崩す方もいる、という現状を取材先で支援員の方から伺いました。

転居期のフォローがとても大切になることを実感し、
それを紙面でもお伝えしていきたいと考えています。
宮城県避難者交流会in東京[2013年10月07日(Mon)]
10月6日(日)、東日本大震災で宮城県から首都圏に
避難されている方を対象に
世田谷区で「避難者交流会」が開催され、
30人ほどの参加がありました(宮城県主催)。

CLCでは今年度、宮城県から助成を受けて
県外避難者を取材&交流会の開催を企画中で、
取材を兼ねて参加させていただきました。

県や世田谷区長のご挨拶ののち、
各市町村ごとにテーブルに分かれて
各自治体職員も混ざって2時間の懇親タイム。
宮城銘菓のお茶菓子もたっぷり。

「あんた、ここに居たのー?」「おかげさまで生きてたわよ」と
久々に再会する浜の女性たちがいたり、
「もっと早くこういう場がほしかった」という声が聞かれたり、
災害公営住宅への入居の相談をする方がいたり、
「宮城産のものが恋しくて、見つけては買って食べてるの」
という談笑もあったりと
各テーブルでいろんな話に花が咲きました。
お土産に、宮城の新米を一人ひとりにプレゼント。

詳しくは、「月刊地域支え合い情報」15号でご紹介しますね。
(友)
福島県浪江町へ行ってきました[2013年09月17日(Tue)]
昨年9月に創刊した「月刊地域支え合い情報
では、被災地の有識者や実践者で構成される
「企画委員会」を立ち上げ、紙面づくりへのご意見を隔月で頂戴しています。

9月2日の企画委員会では、福島県浪江町出身の
NPO法人Jin理事長・川村博委員のご協力を得て、
浪江町視察を兼ねた現地企画委員会を開催しました。

CLC所有の大型バスに乗り込み、仙台を出発。
途中、Jinの南相馬市の事業所に立ち寄り、企画会議をしたのち、
jin自慢の採れたて野菜や卵の昼食をごちそうになり(おいしかった!)、
通行許可証と測量器を手に浪江町へ。

この4月から、昼間だけ入ることができるようになった浪江町。
道路の横には、車や船が横転したまま転がっていました。
宮城・岩手の沿岸部の2年前の様子と同じ・・時が止まっていました。
あまりの様子に、車内は静まりかえりました。

jinの事業所は、福島第一原発から10キロ圏内にあり、
川村さんたちが奇麗に掃除をしたため、jinの周囲は人が住んでいるかのようでした。
(もちろん誰も住んでいませんし、歩いている人もいません)
震災前、ここは高齢者・障がい児者のリハビリ・通所施設として、
また障がい者とともに畑や鶏の世話をして汗を流し、
無農薬で評判の良い野菜や卵を販売していました。
「ここの卵は食べても大丈夫だから」と、
遠方から卵アレルギーの子どもをもつ親が購入にきていたほどです。

実はここで、川村さんたちは、ある企みを展開しています。
その様子は、TV番組「NEWS23」でも放映され、賛否両論寄せられています。
でも、私は川村さんたちの考え方にとても惹かれます。
まちに息吹を吹き込む取り組みだから。
川村さんの人柄を知るたびに、応援したくなります。
詳しくは、CLCの広報誌「地域生活応援誌Juntos」で近々ご報告いたします。

そして、私たちは人生初のスクリーニングも体験しました。
町民用と、広域(町外)用でスクリーニングの場が違うことを知りました。
前者は東電が、後者は内閣府が運営しています。
沿岸部よりも内陸部のほうが放射線量の高い現実のなかで、
もちろん誰も反応は出ず、またバスに乗り込んで仙台へ戻ってきました。

7年後、東京オリンピックのとき、
浪江町にたくさんの息吹が生まれていますように。
自分のできることをしていきたい。
11月に開く企画委員会では、岩手県釜石市・大槌町視察を行う予定です。
(友)





2年・・仮設住宅に思うこと[2013年09月16日(Mon)]
毎週、仙台市若林区の仮設住宅で、
子どもと親の居場所づくりをお手伝いしています。
区内最大の戸数で、仙台駅からもアクセスしやすい仮設住宅のため、
いまも支援団体が各地から訪れます。単発で。

この夏は、流しそうめんを3回開いたとか。
そのうちの1回が私たち・・・(そのときの様子はブログで紹介済みですが)
支援の在り方をとても考えさせられます。
自立を阻害するのではなくて、自立をお手伝いするためにも、
私たちは非日常ではなく「日常」を大切にして関わらせていただこうね、と
スタッフと再確認しました。

2年経って、自立再建して仮設住宅を出ていく世帯や、
息子・娘の家に引っ越していく世帯がポツポツでてきました。
仮設住宅で手仕事のリーダーを務めていた方も引っ越されました。
その様子を見届け続ける、幼子を抱えるママからは、
「災害公営住宅への入居を待っているけど、
いつ自分に順番がまわってくるのか・・まだまだだろうな」
というため息が漏れます。

小学生たちとドッジボールをしていて、ボールが道路に飛び出た時に、
「危ないでしょう!」と年配の方々に怒られました。
当然の危険なのですぐに謝りましたが、
でも、うまく言えないけれど、
これまで以上に皆さんがイライラしている雰囲気を感じます。

普段、目くじらを立てないような些細なことも気にかかる、
自分たちが仮設住宅に取り残されていくような思い。
なかには、津波で子どもや孫を亡くされて、
ことさら子どもの事故や危険に敏感な方もいます。
そのことを私たちも理解し、感じ合い、寄り添えたらと思っています。

「オリンピックが決まって、喜んでいるのは東京だけだよ」
という声も聞きました。
東京オリンピックをみんなで楽しめるように
復興がスピード感をもってすすむことを期待します。
(友)






驚きの出会い[2013年04月02日(Tue)]
3月23日(土)、東日本大震災被災者支援ふくおか市民ネットワーク主催の
広域避難者の交流会「Fukuoka Mama's Cafe」にお邪魔しました。

そもそもこちらの団体との出会いは
2月に大牟田市で開催した
「東日本大震災における 広域避難者・支援者交流会【福岡会場】」で
名刺交換をさせていただいたご縁でした。

団体名が表すように、運営主体も市民のみなさん。
「がんばりすぎずに」といいつつも、
たとえば無農薬の八女茶を出すなど、
デリケートな部分にもきめ細やかな対応をされています。

この日、集まったのは関東から自主避難をしている方が9組。
避難者同士だからこそ話し合えること、
そこには笑顔もあり、涙もあり、苦悩もあり。
一人ひとり背負っているものは違えど、
少しでも安心、納得できる場所で子どもを育てたい、という思いは共通で
それすらが脅かされている現状を痛いほど突きつけられました。

さて、会に参加されていた、一人の女性が
私の母校(高校)の所在地と同じところから避難してきているとわかり、
ついつい、個人的に話しかけてみました。

するとなんと、私の高校の(ずっと)後輩ということが判明!

生徒数も多い高校だったので、不思議ではないのですが
関東地方の高校を卒業し、遠く離れた福岡の地でそのご縁を感じるとは
なんとも不思議というか、嬉しいつながりでした。

交流会の様子は、今後のJuntosでご紹介をさせていただきます。
どうぞお楽しみに!

(CLC:flute)



冷凍おこぜの支援物資を配布[2013年04月01日(Mon)]
3月31日、雪が降る中、広瀬川倶楽部の仲介で
東京から東北関東大震災・共同支援ネットワークへの支援物資として、
冷凍おこぜ15キロ×10箱をいただきました。
ありがとうございます!
早速、次の被災された方々・団体へお届けしました。

●仙台市若林区の借上げ賃貸住宅(みなし仮設)住民の会「若松会」
 プレハブ仮設住宅とみなし仮設への行政支援には、格差があります。
 その格差を訴えながら、自分たちで豊かさを生み出そうと活動されています。
 ちょうど、若林市民センターで月1回のイベントを開いており、
 参加世帯(みなし仮設)にお渡ししました。
 会場は老若男女、かなりの熱気でした!
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●亘理町「NPO法人亘理いちごっこ」
 いろんな人たちが集うコミュニティカフェ。
 ランチ(350円!)をいただきながら、また新たな出会いがあって、
 とても楽しい時間を過ごさせていただきました。
2013040103s.jpg

●山元町花釜地区の橋元商店
 1000世帯が暮らしていた花釜地区は津波で被災し、
 現在、リフォームした被災宅へ260世帯が戻っていますが、
 再建したとみなされ、
 行政からの支援がまったくない状態で経済的に苦しいということで、
 戻ってきた世帯の拠り所になっている「橋元商店」の店主にお願いし、
 おこぜを配布していただけることになりました。
 買い物に来て居合わせたご近所の方も、
 近隣へおこぜを配布してくださることになり、
 3人のお写真を撮影させていただきました。

2013040101s.jpg
 (左が店主の橋元さん、中央が元山下中学校校長の渡辺さん)

●石巻市「石巻・開成のより処あがらいん」
 開成仮設団地にある「あがらいん」は、
 生活支援・地域支援に取り組んでいます。

丸2年経って、まだ支援物資が必要なの?と思われる方もいるかもしれません。
緊急時は過ぎましたので、
積極的に支援物資の提供を呼びかけることはしませんが、
被災地に感心を持ち続けて支援物資を提供してくださる方々の存在はありがたく、
また、3年目を迎え心身ともに疲れきっている被災された方々、
なかでも支援の手が薄いみなし仮設や在宅の被災者を
精神的、経済的に少しでも励ます一方法として、
共同支援ネットでは配布させていただきました。

今回も支援物資によって、新たな出会い&ご縁をいただき、
またそれぞれの地域、団体の近況も伺うことができました。
人々の関心が集団移転や災害公営住宅へ向かう中、忘れてはならない
被災した地元へ戻る世帯・みなし仮設で暮らす世帯の暮らしを、
今後も追っていきたいと思います。

おこぜを提供してくださった皆様、
配布にご協力いただいた皆様に感謝申し上げます。

(CLC:友)
3.11から2年の思い[2013年03月11日(Mon)]
今日は3.11から丸2年、
宮城県東松島市矢本に取材に来ています。

3年目を迎えます。
阪神・淡路大震災時は、3年目に災害公営住宅に入居できました。
東北は被害が甚大だったこともあり、大幅に計画が遅れていて、
災害公営住宅の着工もまだの自治体があるなか、
新聞の被災者アンケート調査をみても、
「復興している実感がない」人が多いことがわかります。

年明けから宮城県内の自殺者数が増えていることも、黄色信号です。
阪神・淡路大震災でも、3年目から自殺者が増えたと聞きました。
孤立・孤独死を予防するための見守りやサロン活動だけでなく、
家や生きがい、なによりも「就労」が大きな課題だと感じます。
福島第一原発事故による広域避難者の問題もあります。

昨年9月に創刊した「東日本大震災・被災者の暮らしを豊かにするための
月刊地域支え合い情報」で、
http://www.clc-japan.com/sasaeai_j/index.html
そんな思いや取り組みを
被災地から発信していきたいと思います。

今後とも、ご支援のほど、よろしくお願いいたします。
3.11に、東北に、関心を持ち続けてくださる皆様に感謝。
(友)
南相馬市のサポセンへ[2013年01月20日(Sun)]
雪の中、南相馬市にあるサポートセンターを訪問しました。
今年度、CLCでは国の補助金を受けて、
被災地のすべてのサポートセンターを訪問調査しており、その一環です。

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1市2町が合併してできた南相馬市は、
北から小高区、原町区、小高区の3つに行政区が分かれており、
南の小高区は第一原発から30キロ圏域のため、
現在も居住できないなど規制が敷かれています。

当初は、市役所のある原町区も放射線量の影響を受けたため、
初期のプレハブ仮設住宅は小高区に建てられました。
そのため、被災者支援にあたるサポートセンターも小高区に建てられ、
社協が運営を受託して、
見守り・相談・訪問活動、配食、いきいきサロンのほか、
介護保険のデイサービスも運営しており、
小高区、原町区の住民が利用されています。

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南相馬市では、避難先から戻ってくる被災者のために
現在も仮設住宅を建設しているそうです。
(みなし仮設もあり、市内の賃貸住宅は空きがないそうです)
そのため、復興計画は遅れ気味で、復興公営住宅の着工も遅れており、
将来への不安から被災者も不安定な心持ちだと伺いました。

小高区を抱える南相馬市は複雑な課題が多く、
補償問題の相談も多く寄せられるとのこと。
若い世代は市外へ避難して高齢世代が多いため、
有資格者を事業者間で取り合うような人材不足となっており、
ボランティアの確保も難しくて
なかなか地域で支え合う土壌づくりが厳しいという悩みもお聞きしました。

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帰る際に、南相馬市のボランティアグループ枝の会が作成した
メッセージカードをいただきました。
南相馬市の国指定重要無形文化財「相馬野馬追」の写真とともに
匂い袋や折り紙が添えてあり、いろんな種類がありました。
この馬の折り方がとても素敵!
今後も南相馬市の復興を見守っていきたいと思います。

(友)
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