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ポパヤンへ移動 [2009年01月07日(Wed)]

7日深夜0時にボゴタからバスで10時間、カリ(Cali)という街でタクシーに乗り換え更に2時間。
ポパヤン(Popayan) という街に来ました。


10時間のバスの旅は、高低差が大きい道を通りました。アンデス山脈はコロンビアで3つに分かれるのですが、その2つの峠を越えました。
東の山にあるボゴタ(標高2600m)から、一気に標高400mまで下がり、その後、中央の3000m級の山を越え、1000mまで下がるとカリに到着します。
途中、耳の圧迫感がありましたが、バスの席も広く、アメリカのグレイハウンドバスや東京ー大阪の3列シートよりも快適でした。120キロぐらい、でてるんじゃないの?というほどぶっ飛ばしてましたが・・・。
面白かったのは、途中、決まった場所での休憩はなく、運転手がお腹がすいたり、休憩したくなった時に止まるという事でした。
今回の運転手は3回、食事休憩を取ってました。
カルロスの情報によると、運転手が休みすぎると、客が「早く出発しろ!」と文句を言う場面がよくあるそうですが、今回の客は、みんな急いでないのか、ただ運転手の食事が終わるのを待ってました。
ちなみにボゴターカリのバス代は1人55,000ペソ(約2200円)でした。



ポパヤンへの道中、警察が私たちの乗ってるタクシーを止めました。
「コカインとか、武器とか、ゲリラとかのチェックなのかな?」と、少々興奮しましたが
そんなに深刻なものではなく、数キロ毎に設けられた警察のチェックポイントに
たまたま止められただけでした。
警察は全ての荷物をチェックし、私に「あなたは中国人か?」と聞きました。
最近、中国人がコロンビアから密入国し、ベネズエラなど東の国を通って
アメリカに行くケースが増えているそうです。
日本人だというと、びっくりされましたが、持っていた「指さし会話帳」を使って
スペイン語で「写真を撮ってもいいですか?」と聞くと、「もちろん!」という事で
この警官と写真を撮りました。


ポパヤンは、「白い街」とも言われ、街の中心部は、白い壁の建物で統一されています。
1983年に大地震がありましたが、今は、ほぼ修復されています。
明日から3日間、クリク(CRIC)という団体のオフィスでビデオワークショップが
あります。
CRICは、コロンビアで最も古く最も大きい先住民族の為の社会運動をしている団体で、
先日会った映像作家のマルタさんも深く関わって来た所です。

新展開の可能性 [2009年01月06日(Tue)]

朝9時、快適に目覚め気分爽快で首都のボゴタに移動しました。
今日、ひょっとしたらシネミンガとしての初仕事になるかも!?という新展開がありました。
















空港の税関の人をつないでくれたカルロスの従姉妹の旦那様・エンジェル(男性)は、考古学が専門です。コロンビアでは、遺跡を発掘して国外に持ち出し、高く売りつける国内外の人がいて問題になっています。
エンジェルは、歴史にとって貴重な発見がそんな形で失われる事に大きな危惧を抱いています。
(その関連でエンジェルは税関の人を知っていたんですね)
今日、そのエンジェルが日本でいう文化庁の考古学担当者を私たちに紹介してくれました。

コロンビアの南東に位置する「ティアラデントロ」という国立遺跡公園は、考古学的に重要な場所として知られています。(ここは私たちがこれから訪れるカウカ州にあります)
文化庁の担当者は、私たちの活動に非常に興味を示してくれました。
というのも、ちょうど今、ビデオを使って考古学の教育に役立てていこうとするプロジェクトがあり
それを、外部のプロダクションに頼むのではなく、「地元の手で作りたい」と考えていたからなんです。
「地域の人が、自らの手で地域の為の活動をする」というシネミンガのコンセプトはぴったり!
というわけです。
そして、1ヶ月後、ボゴタに戻って来たら上司も囲んで、詳しいミーティングをしようという事になりました。
他にも、先住民族に焦点を絞った助成金の可能性を紹介して下さり、申請したらどうかと
薦めて下さいました。ボゴタに戻って来てからの展開が楽しみです。


文化庁のミーティングの後、カルロスと私はマルタ・ロドリゲスさんという映像作家を訪ねました。
彼女はコロンビアの社会派ドキュメンタリーのパイオニアとして有名な方です。
マルタさんは1960年代後半から、先住民族を始めとする社会問題をテーマに映画を撮り続けており、コロンビアで初めて先住民族の大量殺人事件をドキュメンタリーとして世に発表しました。
更に1975年には、先住民族を単なる被写体としてではなく、恊働で作品制作を行いました。
これは、南米で初めての試みだったそうです。
















2007年にカルロスは、長年先住民族の映画を作ってきたマルタさんに連絡し、
これから始めようとしているシネミンガの活動を伝えました。
マルタさんはシネミンガの活動を自分の跡継ぎのように感じて下さり、
快く、公認アドバイザーになってくださったそうです。

マルタさんは、先住民族をテーマに3作の16mm,白黒映画、4作のビデオ作品を発表しましたが
その総決算とも言える長編映画を、現在編集中です。
このプロジェクトにシネミンガは共同制作として関わる事になり、カルロスが去年の10月からメインの編集マンとして働いています。

マルタさんの部屋には、数多くの写真やポスター、16ミリカメラ、使い込まれたスタインベック(フィルム編集機)、そしてたくさんのフィルム缶があり、彼女の功績を物語っていました。

カメラマンでもあった夫は、20年前に亡くなりましたが、その後も精力的に制作を続けるマルタさんに
女性として、そして映像制作の大先輩としてパワーをもらいました。
この日は、早く失礼しようと言ってたのに話がはずみ、結局深夜0時までお邪魔してしまいました。
無事到着 [2009年01月05日(Mon)]

1月4日午前8時に伊丹を出発。成田で8時間、ヒューストンで9時間待ちも含め、合計35時間かけてコロンビアの首都ボゴタに到着しました。これまでで一番の長旅です。スーツケース2つに、カメラとパソコンをつめこんだバックパック、そして自分の手荷物。合計すると50キロは軽く超えてるな・・・という大荷物でした。更に、二の腕がたくましくなったような気がします。

心配していたアメリカとコロンビアでの入国審査は、すんなり通過。コロンビアの税関の人は、カルロスが事前に言ってくれたおかげか、少々びくつきながら正直に書いていた申告リストを、「今、ちらっと見た?ひょっとして見てなかった?」と思う位のチェックで、通してくれました。
こうして、自分の機材も含めてカメラ6台、パソコン3台、3脚1台、全ての機材を手に、現地の1月5日早朝5時に入国しました。

まずは、コロンビアの基本情報を少しだけ・・・
ボゴタは、北緯5度 ですが標高2600メートル に位置します。
高山病にならないかしらと心配でしたが、坂道を歩くと息が普段よりしんどいかな?そういえば・・・というぐらいで、体調は快調です。
日本との時間差は−14時間。1年を通すと雨が多いのですが、12月ー3月は乾期です。気温は、昼間は15―20度ぐらいで暖かく感じますが、朝晩は5度前後まで下がる事もあるので、重ね着作戦での体温調節が必要です。

カルロスは、コロンビアに家族や親戚が居ます。初日は、市内から車で40分の郊外にある「スバチョケ(Suba Choque)」村にある、カルロスのお母さんの家で疲れを取り除く事も兼ねて、ゆったりと打ち合わせや機材のチェックをしました。念入りにパッキングしたので、機材は全て問題なし。カルロスはサポーターさんにすごく感謝しています。









どこでも眠る事ができる得意技を持ってる私は、時差ボケを経験した事が殆どなく、今回も普通に夜は眠たくなったのですが、積もる話をしてる内にあっという間に午前3時。
ここで私の勘違いが判明。3日後のワークショップはボゴタだと思ってたのですが、ボゴタは旅の終盤でした。
3日後は、ボゴタから南西へバスで10時間かかるカウカ州のポパヤン(Popayan)に行くとの事。
その後、 避難所 のあるタフヌ(Tafxnu) へ行くのですが、火山噴火と大雨の為に、決壊した数カ所の橋は、まだ修復されておらず、馬で行かないと辿り着かないかもしれないとの事。
「馬なんて乗った事ないよー!!しかも機材もあるのに・・・」といきなり不安材料が発生しました。
まぁ、いづれにせよ「向かうべし」という事で、この日のミーティングは終了しました。