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放っておけない食料・医療・教育問題 [2009年02月01日(Sun)]

WFP, World Food Program から食料援助のトラックが2台、タフヌにやってきました。申請が通り、1年前から支援が始まったそうです。
ちなみに日本もWFPに支援しています。


早朝、アナウンス(村内放送のようなもの)があり、子どもから大人まで、みんなで清掃して、WFPの訪問に備えていました。普段、ここで暮らしている人々は殆ど肉を食べませんが、この日は、飼っている鶏でチキンスープを作り、ごちそうを作っていました。

WFPからの食料は、米・レンズ豆・食料油・塩・砂糖、合わせて16トンです。
トラックがやってくるのは3ヶ月に1度。3ヶ月後には殆どの食料が無くなるそうです。人々は大きな釜で一度にたくさんのご飯を炊き、村の人に賄う形で食料を節約していると言っていました。

今、コミュニティが必要としているのは、食料もさることながら、自活していく為の「野菜の種」だそうです。今は、 野菜を耕すだけの土地が十分ではないので小さな畑にネギを植えているだけなのですが、もっと自分たちで野菜を作り、自給自足をしていきたいと考えています。これまで土石流で、 元々所有していた畑を失った人は数知れません。幸運に残っていたとしても、火山に近い為、危険が伴うだけでなく、既に火山灰によって食料が育たなくなってしまっているそうです。更に、「新たな噴火」というリスクも抱えています。安全に自活していく為の土地を手に入れる事は喫緊の課題なのです。

日々の食事は、ご飯に少量のネギを入れて炊いただけのもの・揚げパン・おじやに近いスープなど、炭水化物が多く、栄養的にも偏っています。特に子ども達はビタミン不足から、皮膚病や下痢にかかりやすくなっているそうです。確かに私も滞在中、色とりどりの野菜やフレッシュな果物が欲しくなりました。

食料に加えて、深刻なのは医療と教育の問題です。
今、タフヌには、医者も看護婦も居ません。火山灰が原因で流産した妊婦、肺に問題を抱える人も少なくありません。先日、たまたま儀式の為にお酒が必要だったので、避難所近くでお酒を作っている人の家にお邪魔した所、右側の耳からあごが、ひどく腫れている男性に会いました。もう二ヶ月になるといいます。
病院があるのは、橋が壊れた川向こう。歩いて5時間近くかかります。その上、健康保険もなく、治療代を払えない事がわかっているので、彼は病院に行こうとしませんでした。患者さんは、見た目から放っておくと良くない事は明らかだったので、なんとかならないか手段を探った所、避難所の近くに常駐している軍に看護士が居る事がわかりました。
軍が常駐しているのは、ゲリラ対策の為です。避難所にも毎日のように、訪れているので、何人かとは顔見知りになっていました。軍の看護士は、快く患者の男性を診てくれました。彼の診断によると、病院に行く必要があるとの事でしたが、応急処置として、抗生物質の注射と、薬を彼に与えていました。

教育問題も深刻です。1年前にカルロスが来た時には、テントで出来た臨時学校がありました。でも今は、学校として使われていたテントは無くなっていて、椅子や机の山が一ヶ所に積み上げられているだけ。私たちは、制作中の映画のストーリーに学校のシーンを入れていたので、撮影するつもりでいたのですが、学校が始まるはずの1月後半が過ぎても、一向に始まる気配がありません。
事情を聞くと、政府は1年前には、教師をコミュニティに派遣していたのですが、火山噴火の危険性が高まった為に、派遣をストップしていました。危険度が高くなったので、規定により教師を送る事ができないという事です。ここで、2年も新しい土地を待ちながら、危険と隣り合わせで暮らしている国民が大勢いるというのに、教師だけ引き上げるというのは、理不尽な話です。
子ども達は、殆どナサ語で暮らしているので、スペイン語の習得にも支障をきたしています。また、家事を手伝っている子どもも多いので、教育の遅れは深刻な問題です。不十分な教育は将来の仕事に支障を来たし、貧困や諸問題の悪循環をもたらします。加えて、先住民族である事の偏見・差別問題も加わります。大人達は、これまで運動に取り組んでいますが、ゲリラと政府軍との間で続く内戦をはじめ、コロンビアの複雑な政治状況を見ていると、問題解決が遠い道のりである事をいやでも感じさせられました。
フレンドリーなナサ民族の人々 [2009年01月26日(Mon)]

ナサ(NASA)は、ナサ語で「人」を意味します。ちなみに日本の先住民族・アイヌ(AINU)もアイヌ語で「人」ですね。
人々は普段、ナサ語とスペイン語を使い分けて話しています。家族や友達と話すときはナサ語、他地域の人とはスペイン語という具合です。
私はスペイン語もナサ語も、挨拶程度しか理解出来ないので、ひたすら身振り手振りと表情で伝えたい事を表現しています。カルロスもナサ語は挨拶程度しかわからないので、会話は、ナサ語→スペイン語→英語という3段階の通訳が必要になったりします。

私が、最初に覚えたナサ語は「パイ=ありがとう」です。誰かと会うとまず握手をします。ちょっとした立ち話になると、「どうぞお入りなさい」と家に迎えてくれ、コーヒーやアグア・デ・パネラなどの飲み物、時にはスープや揚げパンなどを出してくれます。どこに行っても、そんな具合なので、私はタフヌに来て以来、「お腹がすいた」と感じた事がありません。人々は限られた食料を大事に使っていますが、訪問者への温かい「もてなしの心」を持っているのです。そんなシーンで必ず使うのが「パイ」です。その他に、「エウチャ=こんにちは」「エグワ=とても良い」などの言葉を覚えました。

子どもから大人まで、ナサ民族の人々は、会うと笑顔を傾けてくれ、親しみやすく会話が通じない私にとてもよくして下さいます。


昨夜は、コミュニティーの前代表が、なんとビールをもてなしてくれました。日本人と会った事がありますか?と聞くと、以前に、「日本の技術者が山の調査に来た事がある。日本人は勤勉で技術も優れている素晴らしい民族だね」と言っていました。
ナサ民族の人は、お酒も好きなようで、定番はチチャ酒という甘酸っぱい自家製のとうもろこしのお酒、あとは儀式などで使うチャンクコというウォッカを甘くしたような味の強いお酒です。ナサ民族の人々は、時には3日間呑み続ける事もあるそうです。ナサ民族の人は、働き者で真面目、節制した生活を普段は送っていますが、「呑むぞ!」という時は、ひたすら呑み、歌い、踊り、楽しむそうです。もちろん中には呑めない人もいるので、そういう人には無理強いはしません。
私は呑める口なので、全てのお酒を味見しました。

タフヌで編集のワークショップ [2009年01月24日(Sat)]

タフヌのメディアセンターで、ヘオディエルとヘロニモに、ファイナルカットのワークショップを本格的に行いました。
ちなみにこのメディアセンターは、建物の間にあった通路に屋根を付け、電気を引いただけのものです。2007年に、手作りしました。
これまで彼ら自身が撮った素材を使って、ハードドライブに取り込む方法・そしてカット編集の作業をしました。
iBook G4にインストールしているファイナルカットは、スペイン語表示ができません。英語のメニューを、当面は体で覚えてもらい、後でカルロスが、それぞれのメニューのスペイン語をノートに書いて、私たちが居ないときでも最低限、困らないように対処することにしました。

編集は、料理と似ています。私が初心者の方によく説明する方法ですが、「ここは冷蔵庫、外で買って来た材料(撮影素材)を入れる所。ここはまな板、材料をまな板にのせて、好きな形に切り、お皿に盛りつけします」ってな具合。
2人とも、コンピュータはあまり得意ではないのですが、どうにかこうにか理解してくれたようです。後は、ひたすら数をこなすだけ。「ビデオを作りたい!作業を覚えたい!」という意欲があるので、すぐに使いこなせるようになると思います。

停電が多いので、私たちが今、欲しいなと考えているのは「ソーラーパネル」です。カルロスと私の新たな宿題。ソーラーパネルの会社に寄付をお願いする事。
ブログを読んで下さっている方の中で、どこかでいい情報をご存知でしたら、ご一報いただけると幸いです。(naomi@cineminga.org)
メディスンマンの儀式を体験 [2009年01月22日(Thu)]

アンデス山地の高山草原地帯は、パラモ(PARAMO)と呼ばれます。パラモには、特有の高山植物が生育し、先住民族が儀式の時にメディスン(薬草)として使う特別な植物もあります。

儀式を司る人はメディスンマンと呼ばれ、 「自然」を繊細に感じ、対話する特別な能力を持ちます。儀式では、自然と人間をつなぐ役割を果たします。
この日、地元のメディスンマン、そしてクルーと一緒にパラモへ行き、薬草を採取する様子を撮影。夜は儀式を初体験しました。

儀式に使う薬草は、 幸福を呼ぶもの・悪を浄化するものなど多種多様です。薬草を採取する前後には、地元の酒を大地に捧げるのですが、この日、1つ神秘的な事が起こりました。最後まで見つからなかった、ある薬草があったのですが、日が暮れて来たので探すのは終わりにして、ある場所で最後にお酒を大地に捧げ、帰ろうとした時、私たちの足下に、まさにその薬草があったのです。

夜は、自炊の夕食(ご飯にネギを入れて炊いたもの、ゆで卵、アグア・デ・パネラ=さとうきびからできた黒砂糖をお湯で溶かしたもの)を食べ、儀式に臨みました。この夜の目的は「心身を浄化し、自然とハーモナイズ(調和)」する事です。

儀式に必要なものは、乾燥させた*コカの葉と地元のお酒です。
*コカ:麻薬であるコカインの原料ですが、コカインはコカを特殊な方法で精製した物であり、コカの葉そのものに麻薬性はありません。むしろ高山病に効くもので地元の人には大切な薬草です。

儀式のステップを簡単にご紹介します。メディスンマンによって、多少ステップや手法に違いはありますが、基本は以下です。
1. メディスンマンが手渡すコカの葉を、左手で受け、落とさないように右足のつま先から右肩、左肩から左のつま先まで一周させた後、口に含み、噛み始めます。
2. 少量のお酒を同様に右から左へ一周させ、口に含んでコカを湿らせます。
3. メディスンマンが、個々の頭の上に、薬草をのせます。
4. メディスンマンが別な薬草を手渡すので、同様に体を一周させて、口のコカに加え、よく噛み、混ぜ合わせます。この薬草は深緑で、良い香りがしました。
5. ひょうたんのような入れ物に入った、白い粉(特別な石を焼いて、擦ったもの)を少しだけ取り、更に口の中で混ぜます。この白い粉は、刺激性があるのでたくさん口に入れると、やけどしたようにヒリヒリするので気をつけるように言われました。
6. ひたすら口の中のコカと薬草をミックスする為に、噛み続けます。自然とより調和する為には、よく噛み合わせた方がいいそうです。途中、唾がたまってきたら、液体だけ左方向にピュッと出します。うまく出せるようになるまで、しばらくかかりました。
7. メディスンマンが、夜空や山々を注意深く見ながら、適切な時に、木の棒を持ってきて一人一人の体を一周させた後、メディスンマンの口にあるものを少しだけピュッピュッと空と山に向かって吐きます。
8. ひたすらコカを噛み、全員で、静かに時を過ごします。聞こえるのは風の音、虫の声、そして時々聞こえる鳥の声です。(人々は「犬の声」と呼び、自然のスピリット=魂がやってきたサインと言っていました。)ちなみに、この日は、4−5時間の儀式の間に、私たちを囲むように数個のスピリットが左方向から右方向へと移動していきました。
9. 適切な時に、メディスンマンが合図をし、全員で口の中のものを空と山に向かってピュッと吐き出します。できるだけ遠くに向かって・・・。
10. 1-9のステップをメディスンマンが「これで良し(自然とハーモナイズした)」と思うまで、繰り返します。
11. ステップ3で個々の頭に置いた薬草を、メディスンマンが口に含んだお酒とともに吸い出し、山に向かって吐き出します。
12. 最後のラウンドでは、メディスンマンの横に立ち、左足を大地に強く踏みつけながら吐き出します。

儀式の途中、雨が降り出したり、星が見えたり、雲がかかったり・・・空は多様な変化を見せました。それぞれに意味があるといいます。全ての儀式が終わり、メディスンマンは、「儀式の最後に星が現れたので、今日はいい形で終わった。明日は、すっきり目覚めて、欲しい薬草が採れるだろう。」と言いました。

儀式の後は、たき火を囲んでチチャ酒(とうもろこしのお酒)をみんなで飲みました。途中で、火に関する日本の歌を歌ってよ!と言われ、とっさに思い浮かんだのがキャンプでよく歌った「燃えろよ燃えろよ、炎よ燃えろ・・・」だったので、少しだけ披露しました。
お酒も飲んで、あったかくなった所で、木の小屋で雑魚寝しました。が・・・夜は私の予想を超える寒さでした。摂氏5度ぐらいだったと思います。 小屋に床はないので、土間に寝袋をしき、1枚だけ毛布をかけて寝たのですが、 標高3500mの夜は、地面からしんしんと冷え、結局、一睡もできませんでした。カイロを持っていたのですが、川に魚を取りに行ってびしょぬれになった男性と、屋外のテントで寝るという男性にあげてしまっていました。

快晴の翌朝、寝不足ですが、頭はすっきり。前の夜に取った川魚・野菜・卵のスープ、揚げパンの朝食を取ってる時、すごい風景が目の前に現れました。小屋のすぐ横に、虹がかかったんです。3分ぐらいで消えてしまいましたが、まるで私たちの為にあるような、ちょうどいいサイズの小さな虹。メディスンマンは「自然が私たちを受け入れてくれている」と言いました。すごく神秘的で、きれいでした。
土石流被害の街へ川を綱渡り [2009年01月19日(Mon)]



タフヌからベラルカザール(Belalcazar) という街に徒歩で行きました。
街は川向こうにあるのですが、 昨年の土石流 で道が断片的に寸断されているので、現在、車は通る事ができません。更に橋も流されたので、川向こうへ渡る為には、臨時的に設けられた綱を渡るか、泳ぐしか方法がないという状態です。


私たちは、険しい山道(現在は安全ですが、1年前はゲリラが居たという!)を歩き、川を綱渡りし、6時間かかってベラルカザールに到着しました。
道中は、激しい土石流で壊された家、流されて来た大きな岩など、痕が残っていました。


ベラルカザールへの目的は、タフヌのメディアセンターの中心的存在として活動してくれている ヘオディエルの用事でした。彼は1年前から「リスクマネジメント」をテーマに通信大学のコースをとり、勉強を続けています。ベラルカザールで、 リスクマネジメントに関する会議が3日間開かれるというので、参加しに行ったのです。会議の参加者は、 国連からの2人を含む約50人でした。ヘオディエルは、サポーターさんから寄付してもらったカメラと三脚を持参、私たちと一緒に取材を行いました。

ちょうどこの日、政府がベラルカザールの住民を全員、別な場所へ移住させると正式発表しました。ここは、土石流の被害にあった場所の1つで、川沿いの小学校は半壊していました。
住民全員の移動に関しては複雑な問題があります。 ちなみにテレビニュースがあったこの日、その情報を知っている住民は殆どいませんでした。政府と役所だけが、その事を議論しており、住民はそっちのけというわけです。火山噴火という非常事態ですから、移住場所を提供するのは良い事のように見えますが、問題はそう簡単ではありません。 移住先がまだ決まっていないのです。「なんで?政府が所有している安全な公共の場所を短期的に使えばいいんじゃないの?」と私は思ったのですが、現実は、住民が移動するかわりに、政府は、その土地を国のものにしようとしているそうなんです。つまり、住民にとっては移住したら最後、故郷の土地を奪われるという事です。政府は、ずっと前から、なんとか理由を作って、先住民族の土地を国有にし、海外の事業者に売ってビジネスにしようとしているそうです。
先住民族が暮らしている山々は、様々な鉱物があります。火山噴火によって、移住させる理由ができたので政府にとっては好都合というわけです。日本で育った私には理解出来ない事が毎日のように起こるので、少々、頭が混乱しています。
機材を寄付 [2009年01月18日(Sun)]

タフヌのメディアセンターに名前がつきました。
Cineminga, Qwen Zi' (シネミンガ・クウェンジー:(*Qwen Zi =NASAを意味するナサ語)です。
シネミンガは、Cineminga Qwen Zi' (以下、シネミンガ・ナサと表記)に、4番目のサポーターさんから頂いた新品のビデオカメラとバッテリーで稼働するビデオカメラ、1番目のサポーターさんからのマッキントッシュコンピュータ、3番目のサポーターさんからのビデオカメラ・三脚・カメラバッグ、5番目のサポーターさんからのデジタル写真カメラを寄付する事にしました。

2007年にワークショップをして以来、メディアセンターの中心になって活動してくれているのは、ヘオディエルとヘロニモの2人です。
現地へ来て分かった事ですが、2人は1台だけビデオカメラを入手したようで、前回のワークショップが終わってから、火山の様子や、運動など、事ある毎に記録を続けていました。
ただ、停電が多いのと、miniDVのテープを入手するのが困難(お店が近所にないのと高額な
ため)なのがネックですが・・・。
当初は新品を1つだけ寄付するつもりだったのですが、彼らのビデオ(かなり使い込んだ代物)が、ちょうど私たちの滞在中に壊れてしまったので、もう1台寄付する事にしました。

ヘオディエルは、シネミンガ・ナサのリーダー的存在です。27才という若さながら、コミュニティでは、代表の片腕として、様々な役割を果たしています。ビデオ制作に強い興味を持っているだけでなくセンスもあり、なかなかの腕前です。プロデューサーとしての才能もあります。

ヘロニモは沈着冷静なタイプ。カメラマンとしてこれからぐんぐん上達しそうです。
ビデオカメラのボタンは日本語表示、マニュアルも日本語。メニューは英語表示出来ますが、彼らは英語が理解出来ません。それでも彼らは、数日でメニューや機能を覚え、見事に使いこなしています。思わず大拍手!!!

タフヌはインターネットが通じておらず、停電もしょっちゅうです。発電機はありますが、ガソリンが高額なので、気軽に使うわけにはいきません。 そんな生活が2年も続いているのです。大きな街へは車を使っても数時間、仕事にでかけるわけにもいきません。

シネミンガのビデオワークショップのゴールは「仕事を作る事」。ビデオ制作を、仕事として受注するのです。言語や文化の記録、特産品や歴史のPRなど、この地域でビデオを作りたいというニーズは確実にあります。そして、シネミンガ・ナサは、少しずつですが、確実に前に向かっていると感じます。

事実、今、居留区では現地の植物などを使ったジュースを作って販売しよう!という新しいビジネスを開拓しようとしています。ヘオディエルたちは、このジュースの販売戦略として宣伝用のビデオを作ろうと考えています。シネミンガ・ナサのパイロットプロジェクトとしてはぴったり。具体的なビデオ構成を、これから一緒に考えていく予定です。
活火山の避難所・タフヌでナサ民族と会う [2009年01月17日(Sat)]

1月16日、ポパヤンからバスで6時間。Tafynu (タフヌ)という地域へ移動しました。ここは、シネミンガの原点であり、カルロスが最初のメディアセンターを作った所です。
壊れていた橋は、修復されていたので、バスで行く事ができました(馬に乗らずにすみました)。
ただ、途中、道に大きな穴があいていて、しばらく立ち往生しました。

2007年2月、活火山であるウイラ山が少なくとも400年ぶりに活動を始めました。
ウイラ山はナサ民族が暮らすウイラ居留区の中にあります。活火山がいつ噴火するかわからないので、人々は避難生活を始めました。適切な場所だったのが周りを山々に囲まれた台地・タフヌでした。タフヌは大昔、伝統的な儀式を行う所で、生活の為の場所ではなかったそうです。
そしてブルーテントの仮設住宅での暮らしが始まりました。


下の写真は、「MINGA」の語源のもとでもありますが
コミュニティの人々が協力して、次に引っ越してくる人の為に家を作っている様子です。


水は、タンクが6個と、山から雨水をフィルターで濾過したパイプを使っています。この水は時々断水します。
電気は通っていますが、しょっちゅう停電します。ウイラ居留区には1600人の住人が居ますが、2009年1月現在、タフヌで避難生活を送っている人は約300人です。



2008年12月20日に初めての噴火が起こり、土石流によって6人が犠牲となりました。 噴火直後は、橋が流され、1週間は食料困難な状態が続いたそうです。赤十字のサポート体制は一応あるのですが、事務所は車で約半日かかるような所にあります。 ヘリコプターは、ひどい灰の為に、2日間、来る事ができませんでした。無線で臭いなどの異常を伝えても、すぐには信じてくれないという声も聞きました。

400年ぶりに活動し始めた活火山。いつまで火山活動が続くかは予想がつきません。タフヌはあくまでも仮の住まいであり、水や食料、インフラ、教育、医療・・・全てにおいて、長く暮らすには適切ではありません。ウイラ居留区の人々は火山の予兆とも言える地震が起こり始めた2年前から、政府に対し、安全に住む事が出来る新しい土地を求めてきました。ところが政府はこの要求を無視し続けているそうです。

カルロスが何度か私に強調しました。「これはコロンビアだけでなく、ラテンアメリカ全般に言える事だけど、政府や世間は先住民族を人間とは思っていない。むしろ動物だと思ってる」と・・・。
一例として、先住民族が陳情のために市役所などの官庁に行った時の事を話してくれました。彼らは最初に、消毒室に入れられ、その後、6時間待たされたあげく「あなたの言いたい事はわかりました。半年後にもう一度来て下さい」と言われ、半年後に行くと、担当者が変わっていて、また最初からやり直しというようなケースがあったそうです。
先住民族の人権蹂躙に対して運動を行っているCRICが、力を増してくると、警察が冤罪で刑務所に入れたり、暴行を加えたり、最悪のケースは殺人まで起こっています。はっきり言えば、「あのインディアンどもは目障りだから消してしまえ」という構造なのです。先住民族への偏見と差別の根深さ・深刻さが、私の中で日に日に実感となってきています。 事実、わずか10日間の滞在ですが、私は既に警察官の暴行によって片目を失った人、怪我をした人、冤罪で刑務所に入れられた人、夫を殺された人に会いました。

先住民族の人口は、コロンビアの約1%だそうです。私の中で「なぜ人々は、貧乏なうえに、人口も少ない先住民族を、わざわざ殺す必要があるんだろう?」という疑問が湧いていました。その答えの1つが「先住民族は人間以下だから、人権を訴えたりするなど目障り。邪魔な動物は消滅しまえ」なのです。
ポパヤンでも新展開 [2009年01月16日(Fri)]

ポパヤンで、また新たな展開が始まりそうです。

先住民族の団体であるCRICは、今、大学の創設とメディアプログラムを計画しています。
助成金を得て、独自にワークショップをしたのも(シネミンガは飛び入り1日ワークショップをやりましたが)1つの活動です。

先日、ボゴタから来たマルタ・ロドリゲスさんとカルロス・私の3人がCRICの各部門の代表10人とミーティングをしました。
シネミンガが技術&制作協力する形で、メディアプログラムに参加する事になりそうなのです。

今、CRICで行われているワークショップに参加しているのは、もちろんビデオ制作に興味を持ってる人たちですが、普段は教育に携わっているので、技術はありません。
カウカ州は広く、9つの地域に分かれるのですが、カメラを持ってる人も中にはいるようです。彼らは撮影は、できるのですが、「どうまとめていいのかわからない」というのが共通した課題だという事が、話をしているうちにわかりました。
将来は、先住民族専門チャンネルを作ったらどうかという提案もしながら、プレゼンテーションをしました。



10月、CRICが中心となって先住民族の権利や生活向上を訴える20、000人規模のデモ行進を
1ヶ月行いました。デモの名前は偶然ですが、「MINGA(ミンガ)」です。
その様子を、何人かがビデオに収めているので、それを纏めたいという事、更に、伝統的な文化の記録、先住民族独自の言語教育の為に、ビデオを使いたいというのがCRICの当面の大きな目的です。

MINGAでは、警察からの暴行をはじめ様々な問題が起こりました。
警察が催涙ガスや暴行を加えているのに、先住民族が悪者になって報道されたりもしましたが、
その時、たまたま誰かが記録していたビデオが役立って、ぬれぎぬを晴らした事もあったそうです。

そして11月、CRICの代表であるAIDAさんの夫が殺されるという事件が起こってしまいました。
AIDAさんは30代後半なのですが、夫の死後も、涙も見せる事なく、CRICのリーダーとして運動を続けています。この事件の時も、パラミリタリーが待ち伏せしてAIDAさんの車を取り囲み、夫を殺したのですが、いったんは、事故として処理されかけたそうです。
ここでもビデオが活躍。偶然ですが、現場を通りかかったCRICのスタッフがいて、事故ではないという証拠をビデオで撮っていたそうです。
ビデオが果たす重要な役割を彼らは実感しています。
より強い運動の為に、「どう表現するか、どう発信するか」を、シネミンガが協力するという形は
私たちのミッションにばっちり即します。

私たちは、明日の午後から2週間、「Taxfnu(タフヌ)」という火山噴火の被災地にもなっている所でメインのワークショップをしに行きます。
サポーターさんからの機材という、いいお土産を持って・・・。
なので、ポパヤンに戻ってくる2月初旬に、次のミーティングを行い、具体的な契約内容なども話し合う事になりました。
プログラムの内容もさることながら、課題は資金の調達なので、CRICとシネミンガ、双方で助成金など、資金集めにまずは奮闘する事になりそうです。

明日は、AIDAさんの夫の死を弔う式典があります。私とカルロスも参加する予定です。
初ワークショップ [2009年01月12日(Mon)]

8日から3日間、CRIC (Cauca Regional Indigenous Council) という団体のオフィスでビデオワークショップが行われました。
CRICは、1970年代に創設された先住民族による先住民族の為の公的団体です。
先住民族の教育・生活・人権の向上の為に、政府に陳情したり、様々な活動や運動を独自に取り組んできました。

私が日本に居る時に聞いていた、「ビデオワークショップの為に助成金を得た」という団体は、CRICです。実は、前日になってもCRICの担当者と電話連絡が取れず、「シネミンガは具体的に何をするの?カリキュラムは?何人ぐらい参加者がいるの?」等の詳細がカルロスもわからなくて、大きな不安を抱いていました。
バスで移動中にやっと連絡が取れ、ワークショップは私たちがリードするのではなく、地元の大学で映像を教えている人たちが、リードする事になっている事が判明。正直、ほっとしました。

というわけで、私たちはインストラクターとしての勉強の為にも見学をする事にしました。
参加者は、CRICで教育関係に携わる約30人。初心者コースと、ちょっとだけビデオ制作がわかってる人たちを対象にした中級者コース、2つにわかれて授業が行われました。
更に、現地でわかった事ですが、この週末の3日間のワークショップは4週間にわたって行われるうちのスタートだという事でした。


座学が多かったので、2日目は、私もカルロスも少々飽きて来ていたのですが、3日目、思わぬオファーがありました。初心者コースの先生が来れなくなったので、授業をやって欲しいというのです。
そこで、急遽、座学ではなく撮影から編集まで、実際に機材を使って、体を動かして、
ビデオ制作をやってみよう。きっとその方が参加者も面白いと思います!という提案をしました。
朝9時から4時という短時間でしたが、ビデオの構成・撮影・編集のざっくりした行程と技術を伝え、
みんなでカメラや録音、出演者を交代しながら、駆け足でしたが、3分30秒ほどの作品ができました。制作途中は、ワイワイ盛り上がってすごく楽しかったです。



みんな、それぞれどこから来たか・・という自己紹介をしたのですが、なぜか「ナオミが、まだ言ってないよ・・」という展開になり、先住民族でない私も、「日本から来ました」という台詞で作品に収まってしまいました。



そのうち、英語と日本語のサブタイトルをつける予定です。
にわか仕立てのワークショップでしたが、カルロスも私も「成功だったよね!」と、初めての祝杯をあげました。

ポパヤンへ移動 [2009年01月07日(Wed)]

7日深夜0時にボゴタからバスで10時間、カリ(Cali)という街でタクシーに乗り換え更に2時間。
ポパヤン(Popayan) という街に来ました。


10時間のバスの旅は、高低差が大きい道を通りました。アンデス山脈はコロンビアで3つに分かれるのですが、その2つの峠を越えました。
東の山にあるボゴタ(標高2600m)から、一気に標高400mまで下がり、その後、中央の3000m級の山を越え、1000mまで下がるとカリに到着します。
途中、耳の圧迫感がありましたが、バスの席も広く、アメリカのグレイハウンドバスや東京ー大阪の3列シートよりも快適でした。120キロぐらい、でてるんじゃないの?というほどぶっ飛ばしてましたが・・・。
面白かったのは、途中、決まった場所での休憩はなく、運転手がお腹がすいたり、休憩したくなった時に止まるという事でした。
今回の運転手は3回、食事休憩を取ってました。
カルロスの情報によると、運転手が休みすぎると、客が「早く出発しろ!」と文句を言う場面がよくあるそうですが、今回の客は、みんな急いでないのか、ただ運転手の食事が終わるのを待ってました。
ちなみにボゴターカリのバス代は1人55,000ペソ(約2200円)でした。



ポパヤンへの道中、警察が私たちの乗ってるタクシーを止めました。
「コカインとか、武器とか、ゲリラとかのチェックなのかな?」と、少々興奮しましたが
そんなに深刻なものではなく、数キロ毎に設けられた警察のチェックポイントに
たまたま止められただけでした。
警察は全ての荷物をチェックし、私に「あなたは中国人か?」と聞きました。
最近、中国人がコロンビアから密入国し、ベネズエラなど東の国を通って
アメリカに行くケースが増えているそうです。
日本人だというと、びっくりされましたが、持っていた「指さし会話帳」を使って
スペイン語で「写真を撮ってもいいですか?」と聞くと、「もちろん!」という事で
この警官と写真を撮りました。


ポパヤンは、「白い街」とも言われ、街の中心部は、白い壁の建物で統一されています。
1983年に大地震がありましたが、今は、ほぼ修復されています。
明日から3日間、クリク(CRIC)という団体のオフィスでビデオワークショップが
あります。
CRICは、コロンビアで最も古く最も大きい先住民族の為の社会運動をしている団体で、
先日会った映像作家のマルタさんも深く関わって来た所です。

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