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CEセンター日記
発達障害がある子供達や家族、学校の支援をしているCEセンター☆
このブログはCEセンターで働いている人達の何気ない日常を綴っています。
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弥次郎兵衛〜巡回・訪問の現場からD〜[2007年07月23日(Mon)]

巡回・訪問の現場からD

学校存続が危ぶまれていたある県立高校の取組みが新聞に載っていました。
中高連携など様々な仕組みづくりで生徒減少を乗り切ってきたものの、
いよいよ叶わなくなったときに取り組んだことが、手厚く指導する「進学コース」の
設置と部活動の質的な充実でした。進学希望者に対して少人数でじっくり指導し、
放課後は魅力ある部活動に取り組んだ結果、連携中学校からの進学者を増やし
たとのことです。先生方は必至になって生徒獲得に努めたに違いありません。

近頃このような実践成功例が様々なところで報告されていますが、
気になるのは共通して「危機感」が先生や親を動かしたというものです。
意地悪な言い方に聞こえるかもしれませんが、
なぜ最初からできなかったのでしょうか。
先の例で言えば、じっくり子どもたちの指導に取り組むことや
放課後の質的な充実は、特別なことではないような気がします。
先生も親も忙しくて子どもと関わる時間が少ないと言われていますが、
「危機感」がこの学校の先生方に時間を作ったことになってしまいます。
子どもをとりまく教育の現状についての批判的な意見は持っているものの、
自ら何とかしようとしない大人が多くいることを、こうした「実践成功例」は
示していると私は思っています。「誰かがやってくれる」「他者が悪い」と
依存して生きる姿勢を見せていては、子どもにあれはいけないこれはいけないと
言ったところで、聞く耳を持ってくれないのは当然のことです。
それどころか、そうした子どもたちの態度を取り上げて、
「今の子どもは・・・」と嘆いたところで何も生まれるはずがありません。

幼稚園・保育園から大学院教育まで、私たちの国の教育環境は、
これが世界第2位の経済大国かと目を疑いたくなるほど貧弱であると
よく言われています。残念ながらこの国の資源は人だけしかありません。
人材育成に投資を惜しむ行政も批判をされて当然なのですが、
仕組み以前に直接子たちに関わっている大人がもう少ししっかりしなければ
ならない気がします。心のどこかで「しょせん子ども」と高をくくっていて、
身の回りのことさえうまく回ってくれればいいと思っていると、
身の回りがうまくいかなくなった危機感からの「実践成功例」は
今後も続くに違いありません。
弥次郎兵衛〜巡回・訪問の現場からC〜[2007年07月12日(Thu)]


巡回訪問の現場からC

学校園や学校で行動観察をしていると、先生が子どもに「ちゃんと謝りなさい」と指導している場面に出会うことがあります。もちろんこうした指導は必要なことで、ソーシャルスキルのひとつを、知識としてではなく実体験を通じて身につけることができる良い機会になります。
ところが、時々うまく謝ることができない子どもがいます。モゾモゾしていたり小さい声でささやくように言ったりするのですが、先生から「ちゃんと謝りなさい」と指摘されてますますできなくなり、いつまでも謝罪の時間が終わりません。それでも先生と一対一の場面であれば良いのですが、皆の前で誤らなければならない時は、まわりからため息が漏れ始め気まずい雰囲気になってしまいます。このような展開になってしまうと、謝る指導よりもその後の子どもたちの関係を心配しなければならなくなります。
こうした子どもたちをよくみていると、モゾモゾしたりささやくような声になったりする原因が二つくらいありそうです。

ひとつは、子どもの生育歴や発達の特性によるものです。理由がわからないまま叱られた経験が多い子どもは、その場の空気や他者の視線に敏感で必要以上にプレッシャーになっていることがあります。また発達の特性から自分の気持ちにそったちょうど良い言葉がみつからず固まってしまう子どももいます。このような子どもたちは、日頃から人前で話をするのが苦手ですので先生方は配慮が必要です。視線に敏感な子どもには、向かい合って話しをせず横に並んで目を合わせないようにするのがひとつの方法です。言葉が見つからず固まってしまう子どもには、言い方を教えてあげて同じように言ってみるよう促がすことがひとつの練習になります。

原因の二つ目は、謝ることに至った失敗が尾を引いていることによるものです。何らかの理由で失敗体験が多い子どもは、ささいな失敗で自己嫌悪に陥ってしまい「こんちくしょう!」と思いがちです。そんなときに他者へ向けた言葉など出るはずもありません。中には謝ることを強いるとかえってパニックなってしまうこともあります。失敗が多い子どもには、失敗した気持ちに寄り添った言葉かけを日頃からする必要があります。これは乱暴をはたらいた場合も含まれます。「モノを投げつけたから悪い」の前に、衝動的に投げつけてしまう自分に嫌悪している子どもの気持ちに言葉をかけて欲しいと思います。
「失敗から学ぶ」という言葉があることからわかるように、「謝罪」や「反省」といった社会的な行為を身につける場に使うのであれば、子ども自身がその意味を受け取ることができる精神状態にしてからでなければなりません。

時々、事があるとやたらに「スミマセン」「ゴメンナサイ」と口癖のように言っている子どもに出会うことがあります。まわりの大人が、見た目の行為だけを問答無用に押しつけてきた証です。
弥次郎兵衛〜巡回・訪問の現場からB〜[2007年07月02日(Mon)]


〜巡回訪問の現場からB〜

学校今年度から特別支援教室という名称になりましたが、ある中学校の心障学級にうかがったとき、子どもたちと先生との関係に不自然さを感じたことがありました。
何かよそよそしい様な子どもが先生に対して妙な緊張感があったわけです。
後で知ったことですが、この学級では授業のほとんどを講師か介助員がおこなっていて、担任である教員は教室にはめったに来ないとのこと。
授業観察ということで担任があわてて授業をしたことを聞き、まだこのようなところがあるのかと虚しくなったことを覚えています。

一方で、行動観察や発達検査の結果などを通じて専門的な見地から子どもの特性の把握に努め、担任を中心にチームを組んで授業をしっかりおこなっている小学校もあります。
この小学校は、発達障害をもった子どもたちの学力もきちんと保障していて、同じ学校の通常級の子どもたちと遜色ない学力をつけています。
読み・書き・計算は、障害をもった子どもたちにとっても必要なことで、将来の自立を考えて義務教育期間に確実に身につけるべきだという意見も最近よく聞くようになりました。
しかし教育現場をみていると、通常級にいるLD、ADHDなどの子どもたちを含めて、学力の保障の問題はまだ先のような気がします。
こうした子どもたちが教育の機会を得ることなく過ごしてしまうとどうなるのでしょうか。
ユニバーサルデザインの仕事で、ある授産施設にうかがったときのこと、比較的軽度の知的障害の方たちの中にコピー機の操作パネルに表示されている文字や数字が読めない方がいました。障害の程度や個々の特性を考えると文字や数字が読めないはずはないのですが、本来もっている能力に見合った学力がついていないようでした。
少なくても療育手帳(東京都では愛の手帳)の4度であれば、その特性にもよりますが基本的な文字の読み書きの習得が難しいということはありません。ところが、これまで専門家と言われている人の中にも、読み書きを含めた学力をつけることに懐疑的なところがありました。
結果的に彼らの教育の機会を奪ってしまったことは残念でありません。

ところで、昨年12月に厚生労働省は障害者の最新の雇用率を発表しました。民間企業では1.52%(法定雇用率は1.8%)で国と地方公共団体は2.14%(法定雇用率は2.1%)でした。達成率の話は別の機会に譲るとして、その中身をみてみると90%以上が身体障害者です。このことから、知的障害者は読み・書き等を含めた能力に問題があるということで、仕事ができないものと敬遠されていることがわかります。
多くの発達障害をかかえる子どもたちは、適切な教育を受けることで就職し自立した生活をすることができます。文字や数字だけでなく文章理解が拙いのは、障害が原因ではありません。
教育の機会や自尊感情を育む機会があたえられないという環境因からきています。
非常に残念なことは、発達障害をかかえる子どもたちを支えるべき教育委員会の雇用率が民間の1.52%よりもさらに低い1.22%(法定雇用率は2.0%)であることです。
発達障害者が自立して生活できるということは、言ってみれば税金を納めてくれる国民を増やすことにつながります。財政難を理由に公教育の充実が難しいと嘆いている教育委員会こそが、教育と就労の機会をつくり税金を納めてくれる国民を増やす努力を形にしなければならないのではないでしょうか。

弥次郎兵衛〜巡回・訪問の現場からA〜[2007年06月23日(Sat)]


〜巡回訪問の現場からA〜

メモ勉強ができる子どもは読書する割合が高いという調査結果を受けて、
勉強の苦手な子どもにも読書をさせようという教育現場の試みがあります。
読書をすれば学力が高くなるという発想なのだと思いますが、
私はちょっと違うのではないかと思っています。

勉強ができる子どもは、その高い学力ゆえ文章理解力も高く
モチベーションも高いので、知識欲が高まり主体的に本を読むことがあります。
しかし勉強の苦手な子どもは、文章理解力が不十分ですしモチベーションも
低いので、本を無理やり読ませても学力につながっていくとは思えません。
本を読むことそのものを否定しているわけではありませんし、
読み聞かせや子どもの理解力に見合った内容の本を読む機会をつくることは、
学力の問題とは切り離して大賛成です。

しかし、本を読ませて学力を上げようという発想は、
私たち大人の狡猾な手段としか思えないところがあります。
同じようなことで、勉強ができる子どもがそうだからと言って
同じように予習・復習をさせようとか、テレビやゲームを見る時間を
減らそうというのもあります。
机に向かうことも一人遊びの時間を減らすことも、
そのものは悪いことではありませんが、予習・復習をしようと頑張っても
わからないから机に向かおうとしないわけですし、
ダメな自分を見つめたくないからテレビやゲームに夢中になって
忘れようとしていることに、もう少し私たち大人が心をひらいて
受止める必要があるのではないでしょうか。

命の大切さを身につけさせるために本の読み聞かせをしてみたり、
規範意識を育てようとして道徳を教科にして成績をつけようとしたり、
どれも根っこは同じことで効果があるとは思えません。
私たちは、「子どもは将来の宝」と表向きは言っておいて、
心のどこかで「しょせん子どものこと」と高をくくっているのではないでしょうか。

そう言えば、近年の教育政策のありかたを「子ども中心主義による失敗だった」
という考え方をよく耳にします。
子どもの主体性を尊重したところが、かえって学ぶ意欲のない
我慢知らずの人間をつくってしまったというものです。
文章理解力が不十分で本を読もうとしない子どもにはどうしたらよいのか、
独りで予習・復習をしようとしてもわからない子どもには何をしてあげられるのか、
自分を見つめることが怖くてテレビゲームに夢中になっている子どもに
どうしたら元気をつけてあげられるのか、
私たち大人が熟考して公教育の中に取り込んでいくのが
子ども中心主義なのであって、子どもの思いを無視してうまいことやろうというのは、
これは大人中心主義というのではないでしょうか。

保育園や小学校を訪れ子どもたちをみていると、
世の中の子ども観と目の前の子どもの現実とが
あまりにもかけ離れてしまっていることがよくあります。
このところ、日本全体が子育てや教育に関心が向きつつありますが、
結局のところ狡猾な新しい手段を探そうとしているような気がします。
弥次郎兵衛〜巡回訪問の現場から@〜[2007年06月11日(Mon)]

〜巡回訪問の現場から@〜

様々な学校にうかがい授業観察をすると、
学校間の学力差を目のあたりにすることがあります。

40人クラスの20%、つまり10人近い子どもたちが
勉強についていけない状況になると、
たいてい授業が成り立たなくなりますが、中には半数近い子どもたちが
授業についていけないクラスに出合うことがあります。
学習指導要領通りだと勉強がわからないわけですから、
特に低学年の子どもは我慢できるはずもありません。
中には自分ができないことに苛立ちや無力感を覚える子どももいます。
ボーっとしている、手遊びをしている、隣の席の子とのおしゃべり、
先生の問いかけにギャグで返す、立ち歩きや居眠り・・・いろいろです。

こうした子どもたちのほとんどは知的な遅れはありません。
しかし教科書に沿った一般的な授業ではちょっと難しそうだな
というのが教室にいるとわかります。
「我慢」や「将来の自立」を理由に授業に参加することを強いたところで、
子どものためになるとは思えません。
また、授業に参加しないからできないのだと、
親ばかりか教師までもが言い切ってしまう例もありますが、
注意深く子どもをみてみると、「わからない」から
授業に参加しなくなっていることに気がつくはずです。
小1プロブレムと言われている問題の根底には
このようなケースも実は少なくありません。

学校間格差や学年間格差は、少なくとも20年前からありました。
しかし、そのまま何の解決策もとられることなく現在に至っています。
特に顕著なのが学習指導要領の問題です。
「指導要領」というくらいですから、「先生が教えるべき内容の基準」なのであって
「子どもが身につけなければならない基準」ではありません。
これは全国の公立学校が、地方であっても都市であっても
一定レベルの授業の質を保障するというメリットがある反面、
子どもにとってその年に身につけなければ
翌年はどうにもならないというデメリットがあります。
例えば、2年生の時に算数がわからないまま終わってしまうと、
3年生ではできたものとして次のカリキュラムをこなさなければなりません。
これでは学年が上がるにつれてわからないことが増えていくばかりです。

CEセンターがある八王子市では平成16年度から学力調査を続けていますが、
平成16年度の小学校6年生は、算数の基本的な問題で
「身につけなければならない」レベルに達した子どもの割合が71.1%でした。
つまり10人に3人の子どもたちはできないこところが多かったわけです。
この6年生が中学に進学すると一年間で67.8%まで下がります。
平成17年度の小学6年生は79.9%で10人に2人の子どもたちが
授業についていけなかったのですが、
中学になると63.3%で一年間に10人に4人がわからなくなっていきます。
学力調査の実施からわかるように、先生が教えるべき基準を
まるで子どもの達成基準のように見せかけて子どもに成果を求め、
一方で学校では年齢によって教える内容を固定化してしまって
再チャレンジできないのが現状なのですが、
このことについてきちんと議論する機会はありません。
習熟度別やチームティーチングなどは今や多くの学校で取り組んでいますが、
質的にも量的にも充分な人的・財政的な後ろ楯は期待できません。
あくまでも基本はカリキュラム通りに授業を進めていくことです。

私が学校を訪れる目的は、ある特定の子どもへの配慮について
担任の創意工夫を一緒に検討することなのですが、
半数近くが授業についていけないクラスに出会うと、
この中での「特別支援教育」とは何を意味するのか考えさせられてしまいます。
弥次郎兵衛C 抽象的な能力[2006年08月24日(Thu)]


【抽象的な能力】

本文部科学省の「全国的な学力調査の実施方法等に関する専門家検討会議」で、
ある委員が次のような発言をしていました。
「国語と算数・数学はいわゆる基盤的なもの。」であって
「学習指導要領では、どの教科についても基礎基本に
関わる内容をそれぞれ示して・・・、そのどれにも関わるようなものが
言葉の力と数量・図形の力である。
いわば抽象的な能力、抽象的なものを操作する力。
そういう基盤的な力を全国的な学力調査では取り出して問題にするのである。」
というものです。

この委員の本意を上記の発言で推し量り否定するつもりはありませんし、
活発な議論の一部を取り出して文科省が実施する
学力調査の方針と決め付けるわけにもいきません。
ただ、私は学力調査の類に関する議論を見聞きするたびに頭を過ぎるのが、
発達に偏りがある子どもたちのことです。

天使たとえば広汎性発達障害の子どもたちは、
抽象的な思考がなかなか難しい子どもたちです。
しかし彼らの一部はテストの成績がむしろ高い傾向があります。
「抽象的な能力や抽象的なものを操作する力」をみる学力調査で
高得点を取る子どもたちに、「抽象的な能力や抽象的なものを操作する力が
不足している」という事実をどのように受止めたら良いのでしょうか。
また認知の偏りゆえ「抽象的な能力や抽象的なものを操作する力がある」
子どもたちが、言葉の力が不十分ゆえ点数が低いというケースもあります。
これがほんのわずかな数の子どもたちであれば、
統計上無視してよいのかもしれません。
しかし、発達の偏りは連続しているという前提に立てば、
学力調査の信頼性そのものが怪しくなってしまいます。

メモところで、日本テスト学会(理事長・池田央立教大名誉教授)が、
テストの種類ごとに、具体的な指標を示す「ガイドライン」を
完成させるとの話しがありました。
「開発と頒布」「実施と採点」など4段階に分けて、
それぞれ守るべきルールや注意すべきポイントなどを示すというものです。
テストや検査・調査の類は、子どもたちに限らず様々なところで利用されています。
それが学力をみるものであっても入学を決めるものであっても、
さらには入社を決めるものであっても、
これまでは(とりあえず)公平な選別の道具として社会的に了解されてきました。
しかし、私は筆記テストの類は、言語の操作に関する生まれながらの能力に
ずいぶんと依存しているのではないか、学力という言葉がなんとなくイメージする
「個人の努力で達成できる力」を測る道具としては
荷が重いのではないかと思っています。
それゆえ、指標を示す「ガイドライン」が、
このことを吟味しないまま優性保護的な施策にお墨付きを与えるようなものに
ならないことを祈っているのです。

弥次郎兵衛B スタートとゴール[2006年08月12日(Sat)]

【スタートとゴール】

本学生になってからまたは職業についてから何をするかが大切なのに、
受験や就職活動ばかりがクローズアップされ、
私たちはエネルギーのほとんどをそこに費やしてしまうところがあります。
人生の岐路というと進学や就職などを指す場合が多いですが、
入学や入社をしたとたん燃え尽きてしまうケースが後を立ちません。
ご存知のように5月病という名の「心の病」があるくらいですから。

子どもたちに「将来何になりたい?」と聞いてしまうことがあります。
私たちは、スタートをゴールにしてしまうところがあって、
生き方の価値観を狭めてしまうことに一役買っているようなとこがあります。
「何になりたい?」の答えは、例えば「学校の先生」となります。
だから教員免許を取り採用試験に受かったら
夢が叶い「勝ち組」ということで終わってしまいます。
もし採用試験に受からなかったら「負け組」ということで終わってしまいます。
「勝ち組」が幸せになるとは限りません。
「教師を早く辞めたい」と悩む先生がいます。
「何のために医師を目指したのかわからない」と漏らす研修医がいます。
「司法の世界に魅力を失った」弁護士がいます。
ゴールした後に新しい社会的な動機が芽生えるとは限らないからです。

「負け組」も、一度自らレッテルを貼って、
しかたがなく他の教育や福祉の仕事につくことになる人がいます。
当たり前のことですが、学校の先生以外の仕事に魅力がないわけではありません。
しかし、このような動機でスタートしてもモチベーションが上がらないのは当然です。
そういう人は、勝ち負けに関わらず、
結果的に自分の所属や立場を守ることを優先し、
子どもたちやハンデをもった人たちのことは二の次になりがちです。
もちろん、ゴールの後にまた新しい目標ができて頑張る人もいるでしょう。
一度挫折を味わっても、別の希望が見つかり
しっかりやっている人もたくさんいます。
しかし、私たちが子どもの頃そうであったように、
人生のスタートをゴールであるがごとく次の世代に刷り込み続けていくことが
良いという理由にはなりません。

キラキラぜひ子どもたちに「将来何をしたい?」と聞いてあげてください。
もし「優しく子どもの面倒をみる人になりたい」とか
「子どもに解りやすく勉強を教えるようになりたい」と答えたら、
その子どもはとても幸せだと思います。
子どもと関わることが夢ならば、学校の先生に限らず、
福祉や教育の場に就くことで、皆自己実現できるチャンスが生まれます。
皆勝ち組になる可能性をもつことになります。
弥次郎兵衛A 計算力がつかない理由[2006年08月01日(Tue)]

【計算力がつかない理由】

メモある自治体でおこなわれた教員の初任者研修についての
記事が新聞に載っていました。
指導力不足や免許の更新制を問われている最中、
先生方の努力を垣間見ることができます。
そんな中で、少しばかり気になるところがありました。
ベテランの先生が新採の先生に教える「先生の先生」による講義で
以下のようなお話があったからです。

「0.8+1.5の答えを0.23と答える子供たちが結構いる」という例をあげて、
 「この誤答は、形式的に小数点を動かしてしまっています。
足し算の結果が、元の数より小さくなっていることに『おかしいな』と思える、
そんな豊かな感覚を身につけられるような指導が必要」とのお話しでした。
十数年の指導歴を持つ先生のお話ゆえ、多くの経験と教育現場への思いを込めた
講義であることは間違いないでしょう。

学校特にここ最近の学校現場での忙しさから、
先輩先生が新米の先生へ指導する機会が充分でない現状を考えると、
初任者研修が必要なのは当然のことです。
ただ、数の量的な比較を、それも計算の作業過程の中で検証して欲しいと
子どもたちに期待するのは、私は少し荷が重いのではと思います。
もし、これが既に学習を終え習熟できたレベルの子どもたちに
期待するというのであれば話は別ですが、
いまこれから身につけようとしている子どもたちにとっては、
決められたルールにしたがって数を操作することで
精一杯ではないかと思うのです。
「・・・と答える子供たちが結構いる」わけですから、豊かな感覚を身につける前に
ちゃんと計算ができるような指導を考えて欲しいのです。
0.8+1.5の誤答は、一般的に「形式的に小数点を動かしてしまう」ことや
「10分の1の考え方がわかっていない」といった理由で説明されてきました。
これは間違いではないのですが、もう少し子どもたちの様子を見てみると、
様々なつまづきに気がつきます。

○導入時に利用する教科書の例題でひっかかってしまう
○担任の教示が理解できないまま見切り発車で計算をさせられる
○学力がその計算のできるレベルに達していない
○理解できたものの、プリントを配られ、鉛筆を持ち、
式を読んでいる間に忘れてしまう
○計算式そのものを見ているうちに視覚的に混乱してしまう
○筆算や暗算の最中に、位取りで混乱してしまう
○計算の途中で、やりかたを忘れてしまう

本子どもたちの様子から、「できない」理由は必ずしも
「形式的に小数点を動かしてしまう」からだけではないようです。
計算というと、どうも簡単であまり価値のないものと思われがちで、
つまづいてしまう子どもたちについて教え方の工夫を、
充分検討してこなかった感があります。
「計算よりも考える力が必要である」とか
「計算ばかりをして何になる」といった声をよく聞きますが、
これらは計算についてのある種見下したメッセージが込められているような
気がしてしかたがありません。
「方程式ができても将来何の役にも立ちやしない」などは
まさしくストレートな表現ですね。
方程式が何の役に立つのかについてはともかく、
そしてもっと大切なことがあったとしても、現実に、この計算を身につける段階で
挫折してしまう子どもたちが少なくないことについて、
そろそろ考えてみる時期にきているのではないでしょうか電球
弥次郎兵衛@ 親の眼差し☆教師の眼差し[2006年07月22日(Sat)]

【親の眼差し☆教師の眼差し】

パソコン発達障害についての情報が最近増えてきました。
発達障害者支援法が昨年4月施行され、
今年4月には障害者自立支援法が施行されました。
そして来年度には学校教育基本法が改正され施行されることが決まり、
時代は刻々と変化してきています。
このように福祉や教育をめぐる行政の新しい取組みが始まることは、
課題を抱える子どもをもつ親にとって幸いなことに違いありません。
また学校で指導の工夫を求められる教師にとって、
スキルアップの機会ができることも、
昔LDという言葉が「レーザーディスク」や「リビングダイニング」と
誤解されていた時代を考えると画期的なことと思います。ロケット

そんな時代の変化とともに、親や教師の中にも専門的な
知識を身につけている方が少なくありません。
ADHDには行動調整を、高機能自閉症にはソーシャルスキル・トレーニングを、
学校や家庭でそれぞれ実践しようと頑張っている方が多いのではないでしょうか。
確かに行動療法は有効な方法のひとつです。

また、お母さんたちの間では、
絵カードなどを使ったコミュニケーションの手法を実践したり、
親自身の姿勢を学びたいとペアレント・トレーニングを受けたりしている方もいて、
「よかった」と感想を伺うこともあります。
しかし一方で、私は、親や教師の一生懸命な思いが、
かえって子どもに負担をかけ苦しませているという、
残念なケースもたくさんみてきました。

星子どもは手段・方法だけで変わっているわけではありません。
むしろ、専門的な技法に頼らずとも親や教師の眼差しが変わるだけで、
ずいぶん安定する子どもが少なくありません。
お母さん自身が親としての評価を気にし過ぎたり、
教師が「指導力」という言葉に過剰反応し過ぎたりたりすることで、
知らないうちに子どもに成果を急ぎ期待をかけ過ぎてしまってはいないでしょうか。
もしくは、まずは自分が安心したいがために、
方法論に頼り過ぎて子どもの確かな発達の歩みを
見逃してしまってはいないでしょうか。

専門的な知識・技法を、大人の思いを叶えるための道具にしてしまうと、
気持ちに余裕がないだけに、子どもが過度な負担をかけられ
不適応がひどくなっていることに気がつきません。
ひとつの方法がうまくいかないと新しいものに飛びつく。
それもうまくいかないと別のものに飛びつくという悪循環にも陥ってしまいます。
発達に偏りがある子どもたちの支援に限ったことではありませんが、
子どもと関わることはまず自身を見つめることが
始まりだと思っていいのではないでしょか。

天使子どもたちは、理解者がそばにいるだけで安定します。
私たちはどうも自分たちのことを棚上げして、
とにかく子どもをうまい具合にもっていこうとしがちなところがあります。
子どもと関わることの難しさのひとつは、実はそんなところにあるのかもしれません。


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