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勉強が苦手な子どもたちのために

勉強が苦手な子どもたちがいます。教えても自分でやるとできなかったり、そもそもちゃんと聞いているのか、わかっているのかもあやしかったりします。

保護者や先生たちが一生懸命になっても、それが叶うとは限りません。そんな現実を受け入れることができず、私たちはついカッとなり、子どもにあたってしまうこともあるでしょう。

そして、子どももきっと辛い思いに苛まれているはずです。

ここでは、勉強の苦手な子どもに何とか寄り添った教え方ができないか。「技術」・「理論」・「心理」など様々な切り口で考えていきたいと思っています。

特定非営利活動法人 CEセンター 理事長 野田弘一


苦手な子どもほど頑張らない [2016年05月28日(Sat)]
〇苦手な子どもほど頑張らない。

私たちは、勉強が苦手な子どもほど頑張って成績を上げて欲しいと思っています。ところが苦手な子どもほど、頑張ることが難しい傾向があります。そのことを知っておかないと、努力しないその姿だけを見て、態度の問題や精神論で追い込んでしまうことになりかねません。

多くの子どもは、保育園や幼稚園の年中レベルになると、何か失敗すると恥ずかしさや罪悪感をもつようになります。

特に失敗して親から怒られた経験が多い子どもは、罪悪感を通り越して見捨てられた感覚が芽生えます。

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それが園や学校という集団の中であれば、恥ずかしさを通り越して、皆と違うことがバレてしまったという屈辱感が生まれます。


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頑張ってもうまくいかなかった現実は、「ダメな人間である」ことの証明になるわけです。

これが勉強であれば、頭の悪い人間であることを証明したことになるわけです。

子どもでも、皆と違うことに恐怖を感じているのは大人と変わりありません。頭の悪い人間であることを認めるよりも、「勉強をしなかったからできなかった」ことにしたほうが、自分の気持ちを落ち着かせることができます。

子どもが、嘘やごまかし、他のせいにするような場面に出会ったら、子どもが自分自身の存在を守ろうとしているのではないかと、一度立ち止まって考えてみてください。

勉強が苦手な子どもほど頑張らないことを、私たちは子どもの側に立って知っておくことがとても大切です。

以前に自己モニタリングの大切さのところでお話しましたが、教える側が「他者からの目」を気にし過ぎてしまうと、「怒り」が心を支配して子どもの気持ちに気がつかないことがあります。

もともと保育園・幼稚園、そして学校は、子どもに頑張らせることを中心に考えてきたところがあり、大人側の問題に触れないようにしてきたところがあると思います。

例えば、子どもが分数の計算でつまずいている場面があったとします。冷静に考えると教え方や教科書・教材の問題である可能性もあるわけですが、たいてい教え方や教科書・教材の内容を振り返るということはありませんね。

その時たまたま子どもが投げやりな態度になれば「頑張る力」が足りないとなり、他の話題をもちだして煙に巻こうとすれば「集中力」が足りないとなりがちです。

私たちは、(無意識に)親として、先生として、恥を感じたり評価が気なって子どもを頑張らせてしまいがちですが、一生懸命頑張ってもできない子どもの気持ちに心を向ける余裕がないわけです。

苦手な子どもたちのために意識しなければならないことは、
〇子どもができる見通しをもてる教え方をすること
〇子どもができた達成感をもてる教え方をすること

です。

これまでの教え方は、子どもが頑張ることに依存してきたところがあるとお話をしました。それは「頑張ればできる」という考え方に、私たち自身が疑問をもたないままきてしまったことがひとつの原因です。

自己モニタリングができていれば、私たち自身が頑張ってもできなかった経験があるわけですから、教え方の工夫をしなければいけないことに気がついたかもしれません。

また、「誠実にものごとにあたることが大切である」という考え方を支えに、頑張る姿を見せて欲しいと願っていたところにも原因があります。

これも自己モニタリングができていれば、ただ大人の精神的な満足のためにしかならないことに気がついたかもしれません。

私たちは、皆一緒になって頑張らせて、皆同じ方法で同じ結果を出させることから、そろそろ卒業する勇気が必要がかもしれませんね。


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Posted by ookubo at 11:20 | 心理編 | この記事のURL
子どもについ怒ってしまう不思議(下) [2015年12月30日(Wed)]
〇子どもについ怒ってしまう不思議(下)
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これまで、勉強が苦手な子どもに教えていると「怒り」の感情が子どもに向かい、いろいろな言い訳をしながら、矛先が身近な大人に移っていき、最終的に自分に戻ってくるというパターンがあることをお話しました。

そして、多くの方が体験しているこの感情パターンは、そう簡単にはコントロールできないことや、せめて自己モニタリングを通じて冷静になることで、少なくとも子どもの自尊感情を損なわないことにつながるというお話もさせていただきました。

今回は、子どもが期待通りにならないと、「怒り」の感情がなぜ子どもに向かってしまうのかについてお話したいと思います。

冷静に考えると、子どもの勉強ひとつとっても、それが苦手なところで直接大人が困ることはあまりありません。教える側の寿命が縮まることもなければ、給料が下がることもありません。もちろん苦手で苦労している子どもの姿を見て、何とかしてあげようと手を差し伸べるのは当然としても、それが「怒り」に変わってしまうのはおかしな話です。

仮に勉強ができることが学歴社会を勝ち抜くための条件だとしても、たとえば今この時間に多少できないことがあっても大きな支障になるとは限りませんし、「勉強だけが全てではない」という考え方に方針を変えるという手もありますね。

それなのに「怒り」がおさまらない・・・。

実は先ほどの感情のパターンの最後にヒントが隠されています。前回の例の中ではお母さんと先生が出てきました。「怒り」の感情が、お母さんであれば最終的に自分自身に戻ってきて「私は母親として失格なのではないか」と思いつめてしまうこと。これが園や学校であれば、「先生として向いていないのではないか」と落胆してしまうことをお話しました。

親としてまたは先生としてダメなのではないかという思いは、実は自分が他の人からどう思われているかという意識が過剰に働くことで沸き起こります。

子どもが勉強できない場面に直面すると、「母親」として「先生」としてダメだしされるのではと怖くなり、つい「怒り」を覚えてしまうわけです。

思い起こすと、私たちは子どもの頃にこの「他者からの目」を気にしながら頑張るよう育てられてきたところがあります。

私たちは、園や学校という集団の中で、みんなと一緒に同じことを頑張るように求められてきました。クラスや集団の空気を読んで頑張って生活することも求められてきました。

そして同じことができないと、本人の努力や意識・態度などの問題とされ責められました。

そして、皆の前で責められたり怒られたりすると、恥ずかしい思いや見捨てられている思いも加わってしまうので、ますます「他者からの目」を気にすることになります。

みなさんの中にも、皆の前で怒られた経験がある方がいるでしょう。自分にはその経験がなくても、クラスメートが目の前で怒られていたという経験はあるはずです。このような経験を積み重ねると、集団からはみ出るようなことをすると怒られるのではないかと、常に不安を抱えながら生活をするようになります。

そのことに気がつかないままでいると、大人になっても、自分が「母親」や「先生」として怒られたり責められたりするのではないか、あいかわらず不安を抱えながら生活することが続きます。

そして、子どもが勉強できない場面に直面すると、「母親」や「先生」として怒られたり責められたりするのではないかと急に怖くなり、子どもについ「怒り」を覚えてしまうわけです。

この「他者からの目」は、プラスに働くこともあります。たとえば外出する際に、着ていく服をどうしようかと悩むのも「他者からの目」を気にすることから来ていますが、気にするからこそ外出先で失礼な格好をしないですむわけです。また社会に目を広げると、多様な人が生活している世の中で、規範意識や秩序などがある程度守られるという効果もありますね。

したがって「他者からの目」を気にすることそのものが悪いと考えてしまうのはちょっと違う気がします。むしろ子どもの頃からの「他者からの目」を過剰に気にする習慣から抜け出せないことが原因と考えてよさそうです。

特に「母親」としての重圧は、この社会では非常に負担になっているというのが私の実感です。子どもの様々な失敗が、母親の子育ての方法に原因があると決めつけてしまう傾向が、特に私の年代も含めて上の世代ではまだ根強く残っています。「親の顔を見てみたい」という言葉があるくらいですから。

一方で「先生」という肩書きも、「世間の目」は決して優しいものではありませんね。また、世間ばかりでなく職場内での人間関係が難しい場合もありますから、「世間の目」と「管理職や同僚の目」の両方からの重圧を抱える場合もあるかもしれません。

こうして私たちは、子どもの頃に身近な大人から「他者からの目」を過剰に気にするように育てられました。

そして大人になった私たちは、目の前の子どもが期待通りにならないと、自分が責められるのではないかと不安になり、そして「怒り」がこみ上げてくる。

怒られた子どもは、自分の力では乗り越えることができないので、怒られることそのものに不安を感じながら、今度はその子どもが母親や先生の目を過剰に気にするようになるわけです。

このままいくと、おそらく目の前の子どもたちは、将来大人になったときに将来の子どもたちに向かって同じことをするかもしれませんね。

 冷静に考えてみると、そもそも世の中に評価が100点満点の大人や子どもはひとりもいません。

せいぜい50点から70点くらいで、あとは方法と技術で補いながら社会がまわっていかないと皆困ってしまうのではないでしょうか。

 方法や技術に目を向けず、子どもに努力や精神的な面ばかり期待しても、けっして良い結果は生まれません。

また、自分の評価を気にして言い訳をしたり、100点でない相手を理屈で責めて怒るから、ややこしくなってしまう。

 そもそも勉強が苦手な子どもは、私たちに「他者の目」としての役割を期待しているわけではありません。

子どもたちは「ダメな子どもでないと認めて欲しい」こと、「もっと解りやすく教えて欲しい」ことを望んでいるのですが、私たちは自分の評価が気になって、そのサインを見逃してきてしまったのかもしれませんね。

三回にわたり、私たちの「怒り」の感情について話をさせていただきました。そもそも自分の心の中を見つめるのは、あまり気分の良いことではありません。他人には打ち明けなくてもよいので、せめて「自己モニタリング」だけは心がけたいものですね。

Posted by ookubo at 11:14 | 心理編 | この記事のURL
子どもについ怒ってしまう不思議(中) [2015年12月19日(Sat)]
〇子どもについ怒ってしまう不思議(中)

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私たちは、子どもを前にするとその人となりがどうしても出てしまう傾向があります。

人間の赤ちゃんに限らず動物でも、見たとたん「かわいい」と感じて抱きかかえたくなります。これは子どもに対するプラスの感情が思わず出てしまった例です。

逆に不満があるときでも、それが子どもだと遠慮なく感情を表に出してしまいます。子どもは、体格の面でも精神的な面でも未熟であるため、大人はつい許されると無意識に思ってしまうのでしょうね。

私たちは無意識に「許される」と思っているので、その人となりのまま「怒り」の感情を表に出してしまう。前回それを防ぐことは難しいというお話をしました。でも難しいからといって感情のおもむくままでよいわけではありません。

無意識に「許される」と思っていたところで、そもそも子どもは許してはいませんね。

そして、自己モニタリングができないまま、「怒り」をそのまま目の前の子どもにぶつけてしまうこともあります。

お母さんやお父さんが、自己モニタリングできないまま「怒り」を暴力や暴言でぶつけてしまうのが虐待です。「躾のつもりだった」という理由で自身のことを隠しても、子どもの心の傷や命はもとにもどりません。

先生が、自己モニタリングできないまま「怒り」を暴力や暴言でぶつけてしまうのが体罰です。「心を入れかえて欲しかった」という理由で自身のことを隠しても、子どもの心の傷や命はもとにもどりません。

また、勉強が苦手な子どもに注がれる先生の「怒り」の眼差しを、クラスメートが察してしまうことがあります。これが「いじめ」につながる原因のひとつになることも知っておいてください。

さらに最近私がもっとも心配しているのは、園や学校といった組織もまた「怒り」にまかせて子どもの態度や規範意識の問題にしてしまう意見に出会うことです。

特に、知的な遅れはないものの勉強が苦手なことから皆と同じことができない子どもに、管理職や担任が特別支援学級に行くよう薦めている最近の流れは、非常に心配しています。

自己モニタリングができていれば、学校の取組み方や先生の授業方法の問題、さらに掘り下げると教科書にも課題があることに気がつくはずなのに、皆と同じことができない子どもに向かって態度や努力不足を挙げて排除してしまう。

今日この時間にも、管理職や先生の「怒り」を直接ぶつけられ心を傷つけられている子どもと保護者が、全国にたくさんいることも知っておいてください。

このままいくと数年で、知的障害の子どもが通う特別支援学級の数は大幅に増え、そこに通う子どもの半分以上が知的な遅れがない子どもたちになってしまいます。学級数も子どもの数も増えることになりますから、教員の数も増やさなければなりません。

さらにこのような学級が、個々の特性に応じた教育をおこなうことができていれば、そして制度上の矛盾に目をつぶれば、子どもたちにとっては良い環境になることでしょう。

でも、特別支援学級などもまた取組みや技術が充分とは言えない現状ですから、いずれ他に行くように言われる子どもたちが出てきて、新しい排除が生まれることになるでしょう。こうして学級と教員の数を増やすことが繰り返されることになります。

もっとも、今の日本にそれだけの財政的余裕はありませんね。

子どもに勉強を教えているうちに「怒り」がこみ上げてくることはよくあることです。その感情や本質的な問題から目を背けてしまうと、私たちは子どものせいにして片付けてしまうことを繰り返すだけです。

これでは子どもは勉強ができるようになるどころか、精神的に健康な成長が望めなくなりますね。

 学校の先生がどう教えてよいのか困っているわけですから、家でお父さんやお母さんが上手に教えてあげることはもっと難しいはずです。

立場にかかわらず、私たちは自己モニタリングしながら、目の前の子どものために良い方法を探るしかないわけです。


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Posted by ookubo at 12:17 | 心理編 | この記事のURL
子どもについ怒っていまう不思議(上) [2015年12月10日(Thu)]
〇子どもについ怒ってしまう不思議(上)

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世の中に広まっている「子育て論」や「指導技術」のほとんどは、子どもの特性や心情についての理解とそれに基づいた方法について述べられています。これは、教える側の特性や心情については触れられていないので、保護者や先生は何の問題もない100点満点の大人であることが必要になります。

でも、私たち大人も振り返ってみればいろいろ欠点があるわけで、本来は教える側の様々な特性や心情面も理解しておくことが必要だと思います。

もっとも、自分のことを深く見つめることが好きな人はいませんから、あまり触れたくないことかもしれませんね。子どもたちのためにも知っておくべきことかと思いテーマにしてみましたが、無理のない範囲で読み進めていただければと思います。

子どもに勉強を教えるとき、私たちがもっとも気をつけなければならないのは「怒り」の感情です。思い通りに子どもがならない(教えてもわからない)場面に直面すると、カッとなってしまうこと、多くの方が経験しているのではないでしょうか。

ついカッとなって叱る場面でも、「お手伝いをしない」とか「人に意地悪をした」といった、子どもが次は「ちゃんとできそう」と見通しが立つときは問題ありません。でも子ども自身がどうしてよいのかわからない場面で叱るのは、その失敗体験を強く印象付けるだけで良いことはありません。

失敗体験が多い子どもは、毎日のようにその「怒り」を受け止めていますから、事前に察して何とかその場から逃れようとします。ところが、その方法が幼稚であればあるほど、私たちは逃れようとするその態度にますます「怒り」が増幅します。

「お母さん、これはやらなくて良いって先生が言ってた」とか「わかったからもう大丈夫(ぜんぜん大丈夫ではないのですが)」など。中には泣いたりふてくされたりといった態度を取る子どももいますね。

お母さんは「怒り」を抱えたまま何とかしようとしますから、あれこれ褒めてみたり脅かしてみたりする。一方で子どもも何とかその場を回避しようと適当な理由を持ち出す。こうなってしまうとほとんど感情的な応酬になっていますから勉強することの意味も怪しくなりますね。

そして子どもに対する「怒り」が長期化すると、その「怒り」の矛先が身近な大人に移っていきます。怒っているお母さんにとって、その矛先は担任の先生に移ったりします。「もうあの担任は教師のくせに何をやっているの!(何で私が苦労しなければならないの)」となります。あるいはもっと身近なお父さんに向けられることもあるでしょう。「少しは子どもの面倒をみてよ!(私ばっかりに押し付けないで)」となります。

そして身近な大人への「怒り」が長期化すると、最終的に自分自身に「怒り」や「虚しさ」として戻ってきます。「私は母親失格なのでは」とか「子どもなんて産まなければ良かった」などです。

「怒り」などの感情が子どもに向かい、身近な大人に移り、最終的に自分に戻ってくるというパターンを、多くの方が体験しているに違いありません。

実は園や学校の先生も同じです。できない子どもがいると、その態度を見るや否や「怒り」がこみ上げます。感情的になって追い込むような言動になることもあるでしょう。

こうした感情が長期化すると、今度は同僚の先生やその子どもの保護者に矛先が移ります。たとえば保護者に「怒り」を向けたまま(中にはお腹の中で抱えたまま)、電話などでやり取りしてしまうので、保護者を萎縮させたり怒らせたりしてしまいます。

保護者や同僚への「怒り」が長期化すると、最終的に自分自身に「怒り」や「虚しさ」として戻ってきてしまいます。「私は先生として向いていないのでは」とか「教員になんてなるんじゃなかった」となります。

ではこうした感情をどうしたら無くすことができるのでしょうか。

実は怒らないようにすることは不可能だと思ってください。詳しくは次の機会で触れるとして、でももう少し穏やかな対応ができる方法があります。

それは、深呼吸をしながら、心の中で自分自身をもうひとりの自分が観察することです。

うまく教えられずに子どもに向かって怒っている自分をモニタリングすることで、一度は「怒り」がこみ上げたとしても、まもなく冷静になることができるかもしれません。

冷静になったところで、どうしたら勉強がわかるようになるのかが浮かんでくるとは限りません。でも「怒り」の感情をいろいろな理屈で子どもにぶつけてみても、解決するわけではありませんね。

自己モニタリングができるようになると、感情を子どもにぶつけることに意味がないことに気がつきます。

そしてまもなく、感情をぶつけられた子どもは「自分はダメな子」「自分はお母さん(先生)に嫌われているのかも」と思い込んでいることにも気がつくはずです。

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Posted by ookubo at 20:42 | 心理編 | この記事のURL
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