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勉強が苦手な子どもたちのために

勉強が苦手な子どもたちがいます。教えても自分でやるとできなかったり、そもそもちゃんと聞いているのか、わかっているのかもあやしかったりします。

保護者や先生たちが一生懸命になっても、それが叶うとは限りません。そんな現実を受け入れることができず、私たちはついカッとなり、子どもにあたってしまうこともあるでしょう。

そして、子どももきっと辛い思いに苛まれているはずです。

ここでは、勉強の苦手な子どもに何とか寄り添った教え方ができないか。「技術」・「理論」・「心理」など様々な切り口で考えていきたいと思っています。

特定非営利活動法人 CEセンター 理事長 野田弘一


子どもについ怒ってしまう不思議(下) [2015年12月30日(Wed)]
〇子どもについ怒ってしまう不思議(下)
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これまで、勉強が苦手な子どもに教えていると「怒り」の感情が子どもに向かい、いろいろな言い訳をしながら、矛先が身近な大人に移っていき、最終的に自分に戻ってくるというパターンがあることをお話しました。

そして、多くの方が体験しているこの感情パターンは、そう簡単にはコントロールできないことや、せめて自己モニタリングを通じて冷静になることで、少なくとも子どもの自尊感情を損なわないことにつながるというお話もさせていただきました。

今回は、子どもが期待通りにならないと、「怒り」の感情がなぜ子どもに向かってしまうのかについてお話したいと思います。

冷静に考えると、子どもの勉強ひとつとっても、それが苦手なところで直接大人が困ることはあまりありません。教える側の寿命が縮まることもなければ、給料が下がることもありません。もちろん苦手で苦労している子どもの姿を見て、何とかしてあげようと手を差し伸べるのは当然としても、それが「怒り」に変わってしまうのはおかしな話です。

仮に勉強ができることが学歴社会を勝ち抜くための条件だとしても、たとえば今この時間に多少できないことがあっても大きな支障になるとは限りませんし、「勉強だけが全てではない」という考え方に方針を変えるという手もありますね。

それなのに「怒り」がおさまらない・・・。

実は先ほどの感情のパターンの最後にヒントが隠されています。前回の例の中ではお母さんと先生が出てきました。「怒り」の感情が、お母さんであれば最終的に自分自身に戻ってきて「私は母親として失格なのではないか」と思いつめてしまうこと。これが園や学校であれば、「先生として向いていないのではないか」と落胆してしまうことをお話しました。

親としてまたは先生としてダメなのではないかという思いは、実は自分が他の人からどう思われているかという意識が過剰に働くことで沸き起こります。

子どもが勉強できない場面に直面すると、「母親」として「先生」としてダメだしされるのではと怖くなり、つい「怒り」を覚えてしまうわけです。

思い起こすと、私たちは子どもの頃にこの「他者からの目」を気にしながら頑張るよう育てられてきたところがあります。

私たちは、園や学校という集団の中で、みんなと一緒に同じことを頑張るように求められてきました。クラスや集団の空気を読んで頑張って生活することも求められてきました。

そして同じことができないと、本人の努力や意識・態度などの問題とされ責められました。

そして、皆の前で責められたり怒られたりすると、恥ずかしい思いや見捨てられている思いも加わってしまうので、ますます「他者からの目」を気にすることになります。

みなさんの中にも、皆の前で怒られた経験がある方がいるでしょう。自分にはその経験がなくても、クラスメートが目の前で怒られていたという経験はあるはずです。このような経験を積み重ねると、集団からはみ出るようなことをすると怒られるのではないかと、常に不安を抱えながら生活をするようになります。

そのことに気がつかないままでいると、大人になっても、自分が「母親」や「先生」として怒られたり責められたりするのではないか、あいかわらず不安を抱えながら生活することが続きます。

そして、子どもが勉強できない場面に直面すると、「母親」や「先生」として怒られたり責められたりするのではないかと急に怖くなり、子どもについ「怒り」を覚えてしまうわけです。

この「他者からの目」は、プラスに働くこともあります。たとえば外出する際に、着ていく服をどうしようかと悩むのも「他者からの目」を気にすることから来ていますが、気にするからこそ外出先で失礼な格好をしないですむわけです。また社会に目を広げると、多様な人が生活している世の中で、規範意識や秩序などがある程度守られるという効果もありますね。

したがって「他者からの目」を気にすることそのものが悪いと考えてしまうのはちょっと違う気がします。むしろ子どもの頃からの「他者からの目」を過剰に気にする習慣から抜け出せないことが原因と考えてよさそうです。

特に「母親」としての重圧は、この社会では非常に負担になっているというのが私の実感です。子どもの様々な失敗が、母親の子育ての方法に原因があると決めつけてしまう傾向が、特に私の年代も含めて上の世代ではまだ根強く残っています。「親の顔を見てみたい」という言葉があるくらいですから。

一方で「先生」という肩書きも、「世間の目」は決して優しいものではありませんね。また、世間ばかりでなく職場内での人間関係が難しい場合もありますから、「世間の目」と「管理職や同僚の目」の両方からの重圧を抱える場合もあるかもしれません。

こうして私たちは、子どもの頃に身近な大人から「他者からの目」を過剰に気にするように育てられました。

そして大人になった私たちは、目の前の子どもが期待通りにならないと、自分が責められるのではないかと不安になり、そして「怒り」がこみ上げてくる。

怒られた子どもは、自分の力では乗り越えることができないので、怒られることそのものに不安を感じながら、今度はその子どもが母親や先生の目を過剰に気にするようになるわけです。

このままいくと、おそらく目の前の子どもたちは、将来大人になったときに将来の子どもたちに向かって同じことをするかもしれませんね。

 冷静に考えてみると、そもそも世の中に評価が100点満点の大人や子どもはひとりもいません。

せいぜい50点から70点くらいで、あとは方法と技術で補いながら社会がまわっていかないと皆困ってしまうのではないでしょうか。

 方法や技術に目を向けず、子どもに努力や精神的な面ばかり期待しても、けっして良い結果は生まれません。

また、自分の評価を気にして言い訳をしたり、100点でない相手を理屈で責めて怒るから、ややこしくなってしまう。

 そもそも勉強が苦手な子どもは、私たちに「他者の目」としての役割を期待しているわけではありません。

子どもたちは「ダメな子どもでないと認めて欲しい」こと、「もっと解りやすく教えて欲しい」ことを望んでいるのですが、私たちは自分の評価が気になって、そのサインを見逃してきてしまったのかもしれませんね。

三回にわたり、私たちの「怒り」の感情について話をさせていただきました。そもそも自分の心の中を見つめるのは、あまり気分の良いことではありません。他人には打ち明けなくてもよいので、せめて「自己モニタリング」だけは心がけたいものですね。

Posted by ookubo at 11:14 | 心理編 | この記事のURL