言葉以外のコミュニケーション手段が必要なのは、聴覚などが不自由なために手話を使うろうあ者だけとは限らない。
「まだ言葉が話せない赤ちゃんとコミュニケーションしたい」
「耳の遠くなった高齢者と円滑な意思疎通を図りたい」
こうした要望に応えようと、「生活支援サイン」は手話よりも簡単なサインを活用して、赤ちゃんから高齢者まで、すべての人がコミュニケーションできる喜びを得られるように活動している。
サインで高齢者と心を通わせる
ひな祭りで街がにぎわいを見せる3月3日。名古屋市にあるコミュニティセンターで、「シニアサイン講座〜介護に役立つ楽々手話〜」が行われた。参加者は13名。耳が不自由な家族を介護している人もいれば、自分自身聞き取りが困難な人、また、高齢者施設で仕事をしている人もいた。
まずは前回の復習から。五十音すべてを指文字で表現してみる。
「テ」は手のひらを相手に見せる。
「ネ」は「木の根」をイメージしながら、指を広げて下向きに。
「メ」は「目」をイメージして、指で丸をつくる。
手話を学んだことのない初心者でも、覚えやすそうな指文字ばかり。
「指文字はゆっくり表してあげてくださいね。早すぎるとお年寄りの方は読み取れないですから」
「生活支援サイン」代表の近藤さんが、やさしくアドバイスしてくれる。
「生活支援サイン」代表の近藤さん 生まれつき耳が不自由でなくても、病気の発症や身体能力の低下により、年齢と共に聴力が落ちる人は少なくない。しかし、歳を取ってから手話を習得するのは、新しい言語を覚えるほどに難しい。だからこそ、手話より簡単な「シニアサイン」の存在は貴重なのだ。
近藤さんや講師の方の指文字を真似る参加者たち その後、講座は医療現場でよく使われる言葉へと移った。
たとえば、「病気」は頭の前で手を丸めてトントンとたたく。「痛み」は手のひらを上に向けて、少し力を込めて指先を折り曲げる動作を繰り返す。頭やのど、腰など、痛みのある場所で手を動かせば、その場所が痛いという意味になる。また、指の動きを激しくすることで、痛みの大きさを表すこともできる。
「耳の不自由な人が病院でレントゲンを撮るとき、過去の経験で息を止めることは知っています。でも、『終わりました!』の声が聞こえないから、いつまでも息を止め続けて大変なことになっちゃうんですよ」
近藤さんがエピソードを披露すると、参加者は聞こえないことの不便さに気づかされる。
「ぜひ病院の先生やスタッフもサインを覚えて、高齢者と心を通わすコミュニケーションをしてほしいですね」
最後に、繰り返しが多くて覚えやすい「春が来た」を、みんなでサインをつけながら歌って、この日の講座は終了した。
参加者みんなで「春が来た」を歌った いつまでもコミュニケーションは豊かでありたい!
講座終了後、参加者全員から実生活で「シニアサイン」を使った際の体験談を話してもらった。
知的・身体障害児とその母親の集まりに参加したという男性からは、「サインを使っていると、子どもたちがニコニコしながら周りに集まって来てくれて嬉しかった」という感想が寄せられた。
中耳炎でほとんど耳の聞こえないおじいちゃんのお世話をしている女性は、「ごはんですよ!テーブルに来てください、と何度叫んでも通じなかったのが、目の前でうどんを食べるしぐさをしたら、自分から起き上がってテーブルまで来てくれた」と満足気。
イラスト入りのテキストだからわかりやすい 一方、電話で入念に打ち合わせをしたのに、お互いに会う日を勘違いしていたというエピソードも披露された。「言葉でのコミュニケーションにも限界があるんですねー」との女性の言葉に、うなずく参加者も少なくなかった。
最後に体験談を話してくれたのは、高齢者施設で配食の仕事をしている女性。「もう少しで食事ができますからね」という言葉を手をたたくサインに変えると、利用者がわかるようになったという。「お陰で高齢者のみなさんとの間に信頼関係が生まれ、会話も多くなりました」と嬉しそうだった。
参加者が作っているのは、「ストレス」のサイン。人が上から押さえつけられているイメージ 「人間は歳をとればとるほど、誰かと話したくなるもの。ところが、話せなかったり聞き取れなかったりすると孤独感を感じ、それがうつ病の原因になることもあります」
「こちらがサインを使ってあげれば、相手に『この人の話はわかる!』と喜んでもらえます。しかも、サインをするときは互いの目を見るので、『この人は信頼できる!』とも思ってもらえるのです。みんないつまでもコミュニケーションは豊かでありたいんですね」
近藤さんのメッセージに、参加者はみな納得のようすだった。
会話に困ったときに重宝するのがサイン
近藤さんが「生活支援サイン」を始めようと思ったのは、ある出来事を経験したことがきっかけだった。
手話通訳者として駆け出しのころ、苦労して覚えた手話が通じないろう者が少なくなかったという。ある日、講演会に参加した近藤さんは、同席していた点字通訳者から驚きの事実を告げられる。
「手話はいいわよ、19%もできる人がいるから。点字が読める盲目の人なんて8%しかいないのよ」
あまりの数字の低さに、近藤さんは大きなショックを受けた。同時に、相手に通じないのなら、相手がわかる身振りに変えなくてはいけないのでは、と思うようになった。
その後、近藤さんは「ベビーサイン」に出会う。アメリカで生まれたこのサインは、アメリカで子育てを経験した日本人が広めようとしていた。
「でも日本には日本のベビーサインがあってもいいのでは?」
近藤さんは日本の手話をもとに、グーとパーだけでできる簡単なサイン77語を考案。本にまとめて自費出版すると、赤ちゃんとの上手なコミュニケーションを願う母親たちの反響を呼び、またたく間に3千部を売り上げた。すると、耳の遠いお年寄りまでがサインを使って孫と話せるようになり喜んでいる、というニュースが舞い込む。
「それなら高齢者のためのサインも作ろう」と考え、独自に「シニアサイン」を考案。高齢者の生活に特に欠かせない163語を本にまとめて出版した。
近藤さんのサインに対する考え方はシンプルだ。
「手話は言語なのでルールがあります。一方、私たちのサインはテキストこそありますが、ルールはありません。みなさんの生活の場で、みなさん自身が考えたサインをつくってほしい。大事なのはサインを覚えることではなく、コミュニケーションができるようになることなのですから」
日本人は欧米人に比べ、話すときに身振り手振りが少ないため、老人ホームや医療現場でスタッフはつい大声になりがち。サインはそんな殺伐とした雰囲気を、一変させる可能性を秘めている。
「シニアサイン」は医療や介護の現場で、高齢者との円滑なコミュニケーションを促進している 「私たちのサインは誰もが使えるものだと思っています。実際、ベビーサインを学んだお母さんが、高齢者のご家族の介護に活かすこともあります。お父さんだって、いつ病気やケガで言葉が不自由になるかわかりません。誰であれ、会話に困ったときに重宝するのがサインなのです」
「生活支援サイン」は現在、「シニアサイン」や「ベビーサイン」の講座を開催しながら、サインを教えられる講師の養成にも取り組んでいる。赤ちゃんから高齢者まで、あらゆる人に「話す喜び」をもたらすユニバーサルなサインは、講師を通じて日本全国にその輪を広めつつある。
お母さんたちに大人気の「ベビーサイン」の講座