我が人生の最大事業 「教育実践」の記録@
[2018年05月28日(Mon)]
我が人生の記録@
桑原 清四郎
わが人生の最大事業は 「教育」でした。73歳を迎えた今、記録を紐解き、記憶をよみがえらせ、私が実践した「教育」を紐解いてみたいと思います。根気や知力・体力がどこまで持つか、自信はありません。めっきり老けてしまったからです。
雪深い越後の山村から鋳物の街・川口市にやってきたのは17歳の時でした。地元の六日町高校にはゆうゆう入学できる成績でした。しかし、父親が亡くなったこともあり、長岡市にあった2年制の国立新潟総合職業訓練所機械科に入所しました。倍率は12倍でした。県内全域から40名が合格してきました。
機械科の勉強は実習と理論、機械工学、材料力学、材料学、基礎物理学などでした。難しい問題でも皆がスイスイ解いていきました。先生よりも先に解答を終えていました。“みんな速いなあ”と先生方がよく言っていました。本当にみんな優秀でした。
あれこれ勉強をやっているうちに「もっと勉強したい。本当の学問をやってみたい」と思うようになりました。訓練所は卒業しても高卒の資格は付与されません。仕方がないのでゼロから始めることにしました。定時制高校に入って大学に行く。目標は定まりました。
それで上京したのです。同じように考えた人はほかにも多くいました。A君は法政二高から法政大学に進みました。B君は地元の定時制高校から新潟大学に合格していきました。私も定時制高校から埼玉大学に行きました。
願いは小学校4年の頃から漠然と希望していた「教師」になることでした。生涯の事業として「教育」に取り組んでみたかったからです。
私と同じように考えた仲間が3人いました。選んだ会社は川口市にありました。夜学に通うためでした。高橋君は浦和高校に、池田君は中央工学校へ私は県陽高校へと進みました。私は鋳物工場の従業員寮に住み込み、旋盤工として働きながら定時制高校に通いました。
近隣の工場は映画“キューポラのある街”の舞台になりました。撮影現場もみんな知っているところでした。工場も土手も荒川鉄橋も、中学校もパチンコ屋も、街並みもみんなみんな懐かしく思い出します。