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脳科学ブログ(教育への架橋)

脳科学の知見を生かし、実践現場との架橋・融合をめざす。仮説・実践・検証により、教育のエビデンスを生みだし、揺るぎなき教育の一端を担いたい。“教育は愛、愛こそ教育” 願いは子どもの幸せである。


教え子たちの進路 [2024年03月16日(Sat)]
        教え子たちの進路

 大学の進学は親の経済力と意識によることが多いようです。
かなりできる子でも、お金に余裕ががないため進学できない場合もあります。

 私の勤務校はいずれも裕福とは言えない地域でした。しかし、子どもたちは、のびのびと成長し、環境を乗り越え克服し、進路を切り拓いてくれました。

  進学する子も進学しない子も、努力しその天性を伸ばしてくれました。
有難いことです。

 以下は、進学を選んだ子どもたちです。学力・偏差値だけでなく、家計も考え選んでいることがわかります。就職した子もみな頑張っています。本当にありがたいことです。

 東 大   3人・・・八木 俊哲、松尾 君(児童会長)、
          柿沼 優花(東大卒後ハーバード大学へ)
 一橋大  1人・・・堀金 靖 
 千葉大  2人・・・若林 雅夫、富岡 太一
 埼玉大  3人・・・小沢 裕樹、渡辺 稔、渡辺 正俊
 電通大  1人・・・宮内 馨
 都立大  1人・・・田中 君
 早稲田大 3人・・・池田 秀人、宮壽 和宏、赤荻 隆
 慶応大   3人・・・小川 秀樹、小原 秀志、山本 寛 
 上智大  1人・・・杉山 幸平
   日本医科大 1人・・・中里 桂子
 立教大  1人・・・藤井 達矢
 国立音楽大学 1人・・・平柳 みどり
 北海道の歯科大1人・・・松本 剛
 日大・獣医学部 1人・・・品川 泰枝
   法政大  1人・・・小林 洋八
 東洋大  1人・・・須田 敏
 駒沢大  1人・・・相内 隆之
 専修大  1人・・・増田 潔 
 日本体育大  1人・・・金子 慎也、 星野 悟、
 高千穂商科大 1人・・・水野 勤
 大東文化大  1人・・・岩本 章太郎 
 東京家政大  2人・・・押田 亜紀、栗原 明子 
 文化女子大 1人・・・佐藤 由佳
 日本女子大  2人・・・望月 由香、佐々木 舞
 大妻女子大学 1人・・・円通 淑子
   高等看護学院 1人・・・赤池 直美
 朝霞市議会議員 1人・・・榎本 健司
   川口市学校教育部長・日体大・・・丸山 陽一
  わかった範囲の情報です。

 多くの教え子です。進路先のわからない人も多いはずです。わかった範囲で記してみました。
この資料は、「教育」や「人間の成長」に関心がある人にとって、また教育関係者にとっては貴重な資料になると思います。確かな事実です。在ったことです。事実は、誰であっても消すことはできません。誤魔化すこともできません。

 教育は政治ではありません。改ざんなどできません。

 振り返ってみれば、戦後の歩みは、私利私欲の役人や教育を知らない政治家や教員が「教育現場」をグチャグチャにした歴史のようです。「文部省と組合」の激突、「人間知」のない共産主義の跋扈等、それが悲しい「戦後教育の歴史」でした。「生煮えの民主主義教育」の姿でした。

 徳田哲二君と堤田正俊君は浦高からどこに行ったのでしょうか。根本真紀さん・宇田川桂子さんは浦和第一女子高からどこにったのでしょうか。

 知りたいです。知っている人は教えてください。お願いします。
我が家の事 A 再掲 [2024年03月15日(Fri)]
         我が家の事 A

 また、我が家は、巡礼のお坊様が泊まる家でした。
お坊様の名前は藤井健蜂様でした。約束の日が来ると、夕方を待ち 村はずれまで迎えにいきました。

 お坊様が家に着くと、準備していたお湯を玄関先まで持っていき、洗い桶で足を洗ってもらいました。洗い終わると家に入ってお風呂に入っていただきました。
 お坊様は、お風呂をでるとすぐ仏壇の前でお経を読んでくださいました。

 夕食が終わると旅のよもやま話をしてくれました。それはそれは楽しい話ばかりであったのです。
興味深々でした。私は黙って聞いていました。
 我が家の裏山は、後に上杉景勝が生まれた坂戸山でした。登山の表口は坂戸、裏口は坂井(我が家がある部落・15軒)です。山頂には館が、麓には城がありました。坂戸城といいました。

 この城は関東への進出拠点で上杉謙信の居城・春日山城とともに戦略上重要な城でした。

 先祖は城の番将を務め、桐沢但馬守を倒し権力を握ったそうです。1qほど離れた岩崎部落には、桐沢但馬守の墓があります。史跡として残っています。立派な墓です。

 桐沢家は村を離れ、20q程離れた浦佐の近くに移っていきました。
今でも桐沢部落として残っています。お盆には毎年墓参りにきていました。一族がそろってお参りに来たこともありました。

  私の実家にも立ち寄り、祖父と一緒に楽しそうに酒を飲んでいたこともありました。あと取りの長兄とも会っていました。

 我が家は、史書によれば「桑原 右近太夫 源助」と名乗っていたようです。
今でも屋号は「源助」です。
DNAについて  [2024年03月11日(Mon)]
         DNAについて

DNAのレベルで考えると、ヒト・チンパンジー・マウスの違いは小さいのです。遺伝子数でみるとヒトはチンパンジーよりマウスに近いのです。生物進化の歴史もDNAの歴史から探ると面白いことがわかるようです。


     ヒト

・遺伝子数:26808
 塩基数 :32億5400万pb

 1遺伝子=1213pb 
 遺伝子1個は平均でも 塩基 1312 個 から成り立っている。


    チンバンジー

・遺伝子数:21824
 塩基数 :28億4300万pb

 1遺伝子=1302pb 
 遺伝子1個は平均でも 塩基 1302 個 から成り立っている。


      マウス

・遺伝子数:23459
 塩基数 :27億3800万pb

 1遺伝子=1167pb 
 遺伝子1個は平均でも塩基 1167 個 から成り立っている。

家のDNA [2024年02月29日(Thu)]
 家にはそれぞれのDNAがあります。
栄枯盛衰を繰り返しながら、
DNAでつながっていきます。
昔はそれを血筋とか血統とか言っていました。

当然のことながら我が家にも我が家のDNAがあります。
DNAでつながった血統があります。
それが、遺伝子として流れているのです。
「家風」としても引き継がれています。

・桑原右近太夫源助(記録に残っている先祖)

・ 江戸時代以前 坂戸城の番将を務めていたようです。
・ 江戸上代   上杉景勝に従って会津に行った人と
                     残って農家になった人に分かれました。
                     我が家の菩提寺は 曹洞宗雲洞庵の
        末寺 万松寺です。  
・ 江戸末期   松太郎(祖祖父)
・ 明治時代   積太郎(祖父)
・ 大正時代   正作(父) 
・ 昭和時代   清夫(兄)
・   〃       正樹(現在)

 歴史は延々とバトンタッチされていくのです。
 繋がっていくのです。

 しかし、
 直系以外の人間関係は薄れていきます。
 関係が薄れてもDNAの片鱗としては残っていくのです。
       
我が家の事 @ [2024年02月22日(Thu)]
          我が家の事 @

 兄の死は、日頃考えることのなかった先祖のことを考えるきっかけとなった。

 我が家は、昔から続いた古い家であった。
天和2年(1682年)の書類も残っていた。殿様からもらったという書付もあった。
「これは大事なものだ」と菩提寺の住職は言っていた。

 母はいろいろ調べていた。時折ぽそりぽそり教えてくれた。
また、母は 毎日、日記を書いていた。
  農事日記でもあった。
  よもよも日記でもあった。
  農山村の記録でもあった。
 今にすると、貴重な記録である。

  維新政府は地租改正を断行した。
    租税は物納から金納に変えた。
    地券を発行した。
 その地券もたくさん家にはあった。
  維新期の硬貨も紙幣もあった。

 昔 千両箱だったという金具の鍵のついた箱もあった。
私たちはそれにぺち(めんこ)を入れて遊んでいた。

 大人になって里帰りすると、いつの間にか、貴重な文物は全部なくなっていた。
戦前には、立派な刀もあったという。それも今はない。
   なぜか槍だけ残っているようだ。

 普通選挙法ができる前から我が家には選挙権もあった。
選挙権は国税15円を納めている家にしか与えられていなかった。
そんな時代だった。

選挙権は戸主一人一票だけであった。

 祖父はよく
 「家は上納(国税)を納めていた」
 と言っていた。

自負があったのだろう。

   国税を納めている家はごくわずか、国民の1%ぐらいだったという。
 私の実感として我が家は決して「金持ち」ではなかった。

 蒲原地方のような平野はない。山間の狭い盆地である。
冬は長い。豪雪である。豊かになりようがない。
雪に埋もれてひっそりと暮らしていた。

我が家は、そんな中でも「普通」の家であった。
鳴かず飛ばずの家だった。
いつになっても変わらない家だった。

今の代になって、少しずつ変わってきたように見える。
六日町観光協会につとめ、教育出販社の教科書「5年 社会ー日本農業ー」に協力もしているという。嬉しいことだ。いつの時代でも社会貢献は大事な仕事である。

兄と三味線 [2024年02月18日(Sun)]
 兄は、三味線に生涯を懸けていた。

 どこへ行くときも三味線を手ばなさなかった。
新潟の実家に行くときも手離さなかった。

 お盆に帰郷しても、村人たちに請われると、嫌がることなく弾いてやっていた。
村の人たちは、兄の三味線を楽しみにしていたのだ。

 母が世話になった養護施設の人たちにも演奏してやっていた。
園内放送で

「三味線の演奏会があります。聴きたい人は集まってください。」

と流すと一ぱいの人たちが聴きに集まってきた。

兄の演奏は、皆さんに喜ばれた。毎年のことだったので年中行事になっていた。

 私の学校にも来て演奏してくれた。
誰が知らせたのか、保護者も民謡サークルの人たちも聞きつけてきた。

 近くにあった老人施設でも演奏してくれた。
みんなに喜ばれていた。本当に喜ばれていた。

 兄のやることは何もかも偉かった。本当に偉かった。
三味線に人生の全てをかけていた。
 兄の生涯は三味線とともにあった。

 津軽三味線の全国大会で2位にもなった。
尊敬する兄がなくなった。兄の社会貢献 [2024年02月17日(Sat)]
 2月13日 尊敬する兄がなくなった。82歳。残念であった。天命だ。ただ受け止める以外に手はない。
岡崎まで、すぐ駆けつけた。14日 通夜、15日 告別式

 平成21年10月18日 靖国神社創立140年記念に三味線の演奏を奉納したという。私は知らなかった。名誉らしいことは言わない人だった。
京極高晴 第6代宮司から戴いた感謝状があった。お棺の中に入れてあげた。
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 兄は、三味線のお師匠をしながら、岡崎市内外のお祭りやエベントで数多くの演奏をしていた。一人のこともあったし、お弟子さんたちを連れての演奏もあった。

 お弟子さんたちは回を重ね、場を重ねるごとに腕を上げた。めきめき上達をした。兄はそれをことのほか喜んだ。「 育ての心 」が豊かな人であった。

 お弟子さんたちにも尊敬され、喜ばれていた。みんなに喜ばれた。
近隣の人たちにも尊敬されていた。

 まだ若かった頃、勤めていた日本レーヨンと近くの東洋レーヨンの人に呼びかけ、協力し、まだ鬱蒼としていた山林を買い、開発し、家を建て、岡崎市八王子という村に創り上げた。その牽引者、リーダーであった。

 区画分割の時も、まず先に、みんなに良い土地をあげた。自分の家は最後に残った土地を選んだ。

「 自分が・自分が 」と言い張ったら、「 まとまることもまとまらない 」と言っていた。

市役所の人はその行動力に驚いたという。その進め方にも驚いたという。

 告別式では岡崎市長からも弔電が寄せられた。

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      祭りでは三味線を披露した。 前列中央が兄

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     お弟子さんとともに花見に行く

IMG_5462.JPG   
     お弟子さんたちに囲まれて幸せだった。   
     
  三味線の道でも生き方や物事の進め方は変わらなかった。 

 お師匠として、自らの修練を怠ることは無かった。

 「 毎日、弟子の何倍も何倍も練習をしている」

 と言っていた。

 「 自ら精進しない人はダメだ」 

 とも言っていた。

 「 努力の人 」「誠実の人」であった。

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 新潟の実家(南魚沼郡六日町大字津久野字坂井)で三味線を弾く兄。まだ若い時の写真である。聴いているのは母、懐かしい写真である。
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懐かしい師友人 [2024年02月12日(Mon)]
懐かしい師友人です。宝のような人たちです。
小田切信男先生 33歳でガンに倒れ、3回も手術・入院、以来、世話になり続けました。一切無償でした。治療費は受け取りませんでした。
「清水先生が大事になさっている桑原先生。最善を尽くします」とおっしゃっていました。昭和天皇の侍従医を務めていました。
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中瀬正臣先生
埼玉県立浦和西高等学校の校長先生でした。初任研の講師でした。
こんな先生がいるのか。直球をビッシ ビッシと投げ続けてきました。
一発で心を打たれました。以来公私ともにお世話になりました。
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東京弁護士会長の宮原守男先生にも親しくお世話になりました。
先生は創価学会の池田大作氏の弁護団長でもありました。
中々引き受ける方がいなくて、先生が引き受けることになったそうです。
世の中って本当に難しいものです。
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教育を考える会の仲間、おさなご園 園長 丸山雅子先生
川口市の華道連盟会長・保育所会会長・里親会会長など多くの
要職を担われました。
我が2人の息子も面倒を見ていただきました。いい先生でした。
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心の教育研究発表会・学校だよりー心の叫びー [2024年02月10日(Sat)]
 現役最後の学校だよりが出てきました。
   気合も入っていました。懐かしい記録です。

        学校だよりー心の叫びー
                 
                  校長 桑原 清四郎

 悲惨な事件が続発しています。学校が手をこまねいているわけ
にはいきません。親殺し、子殺し・虐待等は不安・不信・不満・
不幸の結果です。キレる・不登校・引きこもり・ニート等も本人
はもとより親・家族を幸せにしません。

 争いを生み不幸を生みます。子どもの時代、小学校の時代に、
その連鎖を断ち切りたいのです。どうしても連鎖の根を断ち切り
たいのです。子どもの未来に責任を持つ学校の使命、それは「学
力をつけ、体力をつけ、そして豊かな人間性と社会性を育くむこ
と」です。

 いろいろ議論はあっても、それに尽きるようです。将来におけ
る「しあわせの基礎づくり」それこそ私たちの仕事です。     

 4月以来8ヶ月、日々の授業を通じ、または運動会・音楽会、
更に大貫・遠足などの校外行事、あらゆる機会を通して「しあわ
せの基礎づくり」をして参りました。

 しかし、土日の休み・祝日・3連休など年間の三分の一が休み
になり、子どもの体は乱れっ放しです。子どもは2日休むと2日、
3日休むと3日も体の調子が戻りません。本気になって勉強でき
る日はほんのわずかになってしまいました。

 お父さん・お母さん、「早寝・早起き・朝ご飯」です。「テレ
ビ・ゲーム、時間を決めてほどほどに」です。

 子どもを早く寝かしてください。夜10時11時まで起こして
いてはなりません。

 朝6時半には起こしてください。朝飯はしっかり食べさせて下
さい。2時間も3時間もテレビを見させてはいけません。
ゲームなどやらないことです。親と子でやらなければならない
ことは山ほどあります。

 子どもが本心から求めているものは何ですか。テレビやゲー
ムではないのです。子どもは親の愛と触れあいを求めています。
愛されなければ子どもの心は荒れていきます。

 不幸の種は子どもの時にまかれるのです。大人が不幸の種まき
をしているのです。

 家庭から団らんがなくなり、学校から情熱や使命感が消え失せ
たら、子どもは一体どうなることでしょうか。

 無気力・無責任・無感動の子どもが量産されるだけです。です
から、私たち東本郷小の教職員は、勉強でも運動でも一生懸命取
り組ませます。

 努力させます。
 友だちと協力させます。
 他人のために働かせます。

 自分のことができない子ではいけません。自分のことしか考え
ない子でもいけません。他人のために喜んで働ける子どもを育て
て参ります。

 “ もったいない ”  の心、“ ありがとう ” の心 をもった子ども
 を育ててまいります。

 電気が “ もったいない ”
 水が “ もったいない ”
 時間が “ もったいない ”
 いのちが“もったいない”

  友だちに “ ありがとう ”
  先生に “ ありがとう ”
  まわりに人に “ ありがとう ”

  の子どもに育てたいのです。      

 11月4日に『東本郷小音楽会』がありました。1年から6年
まで見事なできばえでした。
合唱も演奏も「よくぞここまでやってくれた」と言わせるもので
した。

 大人延べ588名、児童305名が参加した大音楽会となりま
した。

  感想文も201通寄せられました。感謝・感激のオンパレード
でした。
みんな みんな 一生懸命やってくれました。

 特に、昼間音楽主任の踏ん張りと、それを支えた学級担任、必
死になってついていった子ども達、陰に陽に子ども達を励まして
ださった保護者の皆様のお力の賜です。本当にありがとうござい
ました。

 12月2日は校内持久走大会です。

目標を定めることが一番大事です。
 順番も大事です。
 タイムも大事です。
 完走はもっと大事です。

もっともっと大事なものがあります。
 それは大会までに合計何万歩、何十万歩走ったかと言うことで
す。根じょうぶな子を育てること、それが本当の目標なのです。


 2学期のまとめです。師走です。みんな超忙しの時期です。
それだからこそなお一層気を引き締めて下さい。

 お母さん、忘れ物などさせないで下さい。
 宿題をきちんとさせて下さい。
 自学自習を応援して下さい。


 かけ算九九の手助けをして下さい。
 漢字の練習をさせて下さい。
 土日は無駄にしないで下さい。                           


 年が明けて1月27日には、日本大学 森 昭雄 教授 はじめ多く
の先生方を迎え、「心の教育」研究発表会を開催いたします。

 全校の公開授業後、森教授による記念講演「脳科学と教育」が
あります。極めて重要な講演となりますので全教職員・全保護者
・全地域を挙げて参加したいと思います。

 なお、12月15日にも、昨年同様森教授が全校児童に「脳科
学と教育」の授業をします。
 今から予定表に書き込んでおいて下さい。
 知人友人をもお誘い下さい。お願いいたします。

 保護者の皆さん・地域の皆さん、
良いお年をお迎え下さい。
 心より祈ります。
「入り口」よりも「出口」が大事 [2024年02月09日(Fri)]
「入り口」よりも「出口」が大事です。

どこの高校に入ったかよりも、
どこの大学に入ったかが大事です。

高校の入学試験で失敗しても
大学の入学試験で成功すれば、それでいいのです。

人生は経験の蓄積です。
人生を微分・積分で考えるとわかります。

微分は切り口の傾きです。「上向き・並行・下向き」
積分はその量です。量の増減です。




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