退職時の私の感謝と願い
[2020年12月04日(Fri)]
退職時の「感謝と願い」です。ほんの昨日のようです。
早いものでもう14年もたってしまいました。
「退職祝賀会」
共に苦労した教職員・仲間達がみんな揃って「退職祝賀会」を開いてくださった。14年前の写真である。12学級の学校なのに32人も教職員が集まって下さった。転出された先生方もたくさん集まって下さった。みんなに愛されていたことをしみじみと感じた。
子どもを熱烈に可愛がった。こどもを育てた。よさを伸ばそうとした。先生方を愛した。先生方には教育の喜びを知ってほしかった。その後子どもたちは、東大にも筑波大にも日本女子大にも芸大にも立正大にも進んでいった。二人はアメリカに留学した。
初任の朝霞市立第三小学校、その時代の教え子も良く育っていった。千葉大・慶応大(2)・一橋大・東大・東洋大・創価大・大妻女子・東京家政大などに合格した。基地の町・朝霞、決して豊かな街ではなかった。私は全力を尽くした。燃えに燃えて子どもを育てた。
諸般の事情で確かに大学に行けない子供も多くいた。しかし、どの子も育った。立派に仕事をしていった。それだけは確かだ。子どもが育つ条件はただ一つ。若い日に、良い教師に出会うこと。それも小学校時代が一番良い。それさえできれば “ OK ” である。
東本小時代、囲碁でプロ級の子供も生まれた。日本棋院の新聞にも 「 囲碁で育つ子どもたち 」 として紹介された。女流棋士2段の先生も指導・応援に来てくださった。
私は決して甘くはなかった。道理や善悪の基準には厳しい指導もした。しかし、子ども達も先生方も私から離れなかった。しっかりついてきてくれた。喜びも苦しみも共にした。
私は本当に幸せな教師だった。幸せな校長だった
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