3月7日は息子の高等部の卒業式。
本当にあっと言う間の3年間でした。
入学当初は
「一般就労しか考えていません」と言い放って、目の前の本人の状態像とのあまりの解離性に、先生方も開いた口が塞がらなかったことでしょう。
就労支援を仕事の一つにしている私でも、実際に支援学校というステージにわが子がお世話になるまでは、本当の意味で知的障害のある自閉症の人たちが「働く現実」の厳しさを実感できませんでした。
「普通に働く」ことが「当たり前」に叶うと思っていました。
それが、とんでもない勘違いであったことを思い知るのに、時間はかかりませんでした。
支援学校卒業後の進路の多くが「生活介護」であったり「継続B型」であったり…
呆然としたものです。
中学生の頃まで叶っていた同世代のこどもたちとの交流は、まったく断たれました。
ヘルパーのお兄さんとの外出や「しゃ〜れ」のボランティアさん、職員との繋がりだけだが、中学生まで叶っていた社会との接点になって行きました。
「専門学校に行きたい」という願いをずっと持っていました。
それは、何か特別の勉強をしたいという訳ではなく、普通にゲームの事や映画の事や昨日見たTVのことを「共通の話題を持てる人との交流」が欲しかったのです。
職場実習でお世話になった企業さんからもとても大切にしていただきましたが、直ぐに就労する気持ちは全然湧き起って来ませんでした。
「学園生活」への未練がずっとあったのです。
つい昨年の夏まで、私は息子とずっと一緒に暮らし、いつか住む家を法人に渡し、いつかはケアホームにして、息子の生活環境は一生変わらないことを望んでいました。
それが、彼の生活の安定に繋がると信じていたからです。
だから、ずっと仙台の街で、わが子がわが子らしく納得できる卒後の進路先を探し続けていました。
就労移行の事業所を作ったのも、もちろん息子のためでもありました。
それが…
昨年の秋前、息子の職場実習が終わった頃に
“お母さんと一緒って、本当に良いの?”
とフトそんな気持ちが湧き起って来たのです。
孫が不憫でお世話を止められないおばあちゃんの存在も「自立」ためには大きな阻害要因でもあったり。
さらに
“いつ何時私が倒れたり、動けなくなったり、命が無くなってしまったりすることがないという保証はないんだよね。
兄弟も親戚もない我が家がそうなった時に、突然今まで住んだこともないところで、知らない人たちに囲まれて、今まで叶ったいたことも叶い難い生活が来るんだよね…”
って…
「親亡き後」の心配なんかしないために、仲間のみんなと一つ一つ事業を展開してきたけれど、私たちのようなお金も後ろ盾も何にもない組織では、息子には「間に合わない」かもしれない。
そんな「現実」にガーンとやられました。
幸いにも福祉や市民活動やソーシャルビズネスやドリプラでご縁をいただいた方が全国に居てくださいました。
“沖縄でも北海道でもどこでも良いや…
本人が納得できる環境と人にご縁が出来て、出来ればグループホームやケアホームではなく、一般の方たちと共に暮らす「シェアハウス」のようなところで、障害があってもなくても「人」として尊重し合える人との暮らしが叶ったら…
きっと息子たちの新しい暮らし方が実現できるかも”
名古屋の「むそう」さんにも見学に行きました。
東京に新しく出来る「カレッジ早稲田」さんも訪れました。
東京の大きな法人の役員の方にも親身に相談に乗っていただきました。
小さい頃からお世話になってきた支援センターの方にも想いを聴いていただきました。
誰一人、こんな無鉄砲な思いつきを否定せず耳を傾けて下さり、それぞれの方が出来ることを考えてくださいました。
そして今日
大阪の高槻市にある「ジョブジョイントたかつき」さんから受容れをしていただけるとのご連絡をいただきました。
直接繋いでくださったのは、研修でずっとお世話になってきた中山先生。
そして、就労支援のスペシャリストとしてご縁をいただいていた「ジョブジョイントおおさか」の高橋さんも後押しをしてくださいました。
息子が求めていた「イケテルお兄さん」たちは、震災復興でご縁の出来た大阪の若い福祉事業の担い手の皆さんが、憧れの人になりました。
人生には思いもよらないことが起きます。
息子と「離れて暮らす」なんて半年前までは考えてもみないことでした。
背中を押されたのはあるおかあさんの一言。
「18歳は普通の子でも進学や就職で家を離れていく年齢でしょう?」
って。
支援センターの方も
「今ならまだお互いに若いんだから、いつでも行ったり来たり出来るしね」って。
障害のある子だからこそ、“ずっと自分の側に置いておかなければ“と思っていたけど、「18歳の巣立ち」って「当たり前」なんだよねって。
すっ〜と、気持ちが楽になりました。
決まってみると
なんかね、「いきおい」と「たいみんぐ」かな?って感じです。
ハッとさせれらる言葉や諭して下さる方との出会いがあって、そこにちゃんとお膳立てをしてくださる方がいて、憧れるようなイケテルお兄さんたちに出会っちゃって…
そうしたら本人が「その気」になって。
少しだけ安心させてもらっています。
私はこれからも仙台で、変わらずこどもたちが「自立」していく仕組みと向き合い続けます。
いつか逞しくなって息子が戻ってきて、仙台に出来た「シェアハウス」から仕事に行って、こーちゃんらしく映画に行ったり本屋さんに行ったりする楽しみも持って、尊厳の保たれた生活が叶ったら最幸。
もちろん、ずっと「高槻の人」になっても良いという覚悟は出来ていますよ。
「幸太朗心と秋の空」…春まで気持ちが変わりませんように。