支援学校と言うステージ
[2012年04月21日(Sat)]
今日は息子の学校の、この春の異動による「歓送迎会」がありました。
このブログのファンだと言ってくださったPTA会長さんから、今日のこのことを書いて欲しいとのオーダーがあったこともあって、大宴会とそこに集う親御さんと先生方から感じたことをまとめることにしました。
小学部から高等部までの大規模校。
転出された先生方は事務の方や通学バスの添乗の方を含めると26名。
転入の先生方は同じように27名。
そして卒業されたご父兄を対象に、「歓送迎」が催されました。
もちろん全員の先生方が参加されたわけではありませんが、卒業された方のお母様たちも8名参加してくださった、まさに「大歓送迎会」でした。
↓縁もたけなわとなった頃の会場。
「歴史」を感じる「大歓送迎会」の吊看板。
何年も同じものが掲げられているそうです。
席次も、同じ学部の保護者同士。学部でお世話になる先生方が同じテーブルになるように配慮してくださっています。
息子の担任の先生方が皆さんご欠席だったのはちょっと残念。
逆にお隣のクラスはご父兄はどなたも参加されていないのに、先生がご出席。
話題を見つけにくく戸惑ってしまって、少しは存じ上げている先生を探してはご挨拶に。
時間の経過と共に席次は崩れ、楽しげな会話がアチコチで。
在籍の長い方だと小学部から高等部まで12年間お世話になる学校です。
親御さん同士の繋がりも、普通学校に比べれば“ずっと濃密なんだな”と感じました。
比較的支援学校の先生方の在勤期間も長いこともあって、親御さんと先生方も“深く”関わっておられるのだな〜と…
先生方と親御さんとの「一体感」は、中学まで普通学校で過ごした来た(支援学級在籍でしたが)私には想像を超えたものであることを、今日改めて感じました。
会の最後の、第2校歌(先生方の集まりや保護者の集まりで良く歌われるそうです)を全員で輪になって歌い上げる光景も、これまでは経験したことのない暖かな雰囲気に包まれていました。
一方、昨年12月、息子はポロッと呟きました。
「お母さん、転校したいんです。」
心は大きくザワメキました。
中学からの進学先は、支援学校しか選択肢がなかった息子です。
しかも教育大の付属か、県立と市立のどちらからか、2校しか受験の機会もありませんでした。
迷いに迷って選択し、なぜか定員割れでスンナリと進路先は決まってしまいました。
だけど、入学してみたら、共通の話題で話の出来るお子さんがいなかったことが、息子の不全感に繋がっていたと思います。
学科の学習はほとんどなく、あっても中学までにも繰り返し繰り返し足踏みをしていた段階からさらに後戻りのような現実。
作業も、学校の方針が「言葉の指示に従える」ことを目標としていますので、視覚支援などはほとんど組み立てられず「見通し」が持ち難い中「経験」を積むことでやり過ごしていました。
“転校したい”
という気持ちが湧き起こって来たのも無理からぬことかと…
でも、サラッと受け流しやり過ごしました。
“転校した所で「支援学校の文化」はどこも同じなのだろう”と予測したからです。
息子は二度と言わなくなりましたが、今本当はどう思っているのだろう…と
私自身も、支援学校の先輩お母さんたちの卒後に対するお考えをスッと受取り難いことも続きました。
PTA活動に参加してみようとお役を受けたものの、「歴史と伝統」を守ることを先輩たちから望まれると、“余計なことは出来ないな…”と後ずさりも。
まぁ親子共に馴染めない1年を過ごしました。
だけど…
「現実」も解って来たのです。
「一般就労」や「継続A」を卒後の進路として選択するのには、本人の状態像もありますが、ものすごくハードルが高いのだということを感じています。
“進路指導も企業側の理解も本当に未成熟なんだな〜”と。
国がどんなに障害のある方の一般就労を目指すことを掲げても、到底叶い難い「文化」が根付いている現実。
その「文化」ゆえに、先生方と保護者の皆さんとの「一体感」が築かれていることも確かな事実。
ウ〜ン…
私自身が支援学校の「良さ」にもっと気付けるようになったら、このモヤモヤも晴れるでしょう。
ブログでの情報発信を高く評価してくださったPTA会長さん。
「気づいたことは何でも言ってくださいね」と声をかけて下さった校長先生。
「お母さん、忙しくて大変ですね」と、気遣ってくださる担任の先生方。
身近な方々からもっと教えていただいて、「支援学校」というステージを楽しめるようになれたら幸せです。
このブログのファンだと言ってくださったPTA会長さんから、今日のこのことを書いて欲しいとのオーダーがあったこともあって、大宴会とそこに集う親御さんと先生方から感じたことをまとめることにしました。
小学部から高等部までの大規模校。
転出された先生方は事務の方や通学バスの添乗の方を含めると26名。
転入の先生方は同じように27名。
そして卒業されたご父兄を対象に、「歓送迎」が催されました。
もちろん全員の先生方が参加されたわけではありませんが、卒業された方のお母様たちも8名参加してくださった、まさに「大歓送迎会」でした。
↓縁もたけなわとなった頃の会場。
「歴史」を感じる「大歓送迎会」の吊看板。
何年も同じものが掲げられているそうです。
席次も、同じ学部の保護者同士。学部でお世話になる先生方が同じテーブルになるように配慮してくださっています。
息子の担任の先生方が皆さんご欠席だったのはちょっと残念。
逆にお隣のクラスはご父兄はどなたも参加されていないのに、先生がご出席。
話題を見つけにくく戸惑ってしまって、少しは存じ上げている先生を探してはご挨拶に。
時間の経過と共に席次は崩れ、楽しげな会話がアチコチで。
在籍の長い方だと小学部から高等部まで12年間お世話になる学校です。
親御さん同士の繋がりも、普通学校に比べれば“ずっと濃密なんだな”と感じました。
比較的支援学校の先生方の在勤期間も長いこともあって、親御さんと先生方も“深く”関わっておられるのだな〜と…
先生方と親御さんとの「一体感」は、中学まで普通学校で過ごした来た(支援学級在籍でしたが)私には想像を超えたものであることを、今日改めて感じました。
会の最後の、第2校歌(先生方の集まりや保護者の集まりで良く歌われるそうです)を全員で輪になって歌い上げる光景も、これまでは経験したことのない暖かな雰囲気に包まれていました。
一方、昨年12月、息子はポロッと呟きました。
「お母さん、転校したいんです。」
心は大きくザワメキました。
中学からの進学先は、支援学校しか選択肢がなかった息子です。
しかも教育大の付属か、県立と市立のどちらからか、2校しか受験の機会もありませんでした。
迷いに迷って選択し、なぜか定員割れでスンナリと進路先は決まってしまいました。
だけど、入学してみたら、共通の話題で話の出来るお子さんがいなかったことが、息子の不全感に繋がっていたと思います。
学科の学習はほとんどなく、あっても中学までにも繰り返し繰り返し足踏みをしていた段階からさらに後戻りのような現実。
作業も、学校の方針が「言葉の指示に従える」ことを目標としていますので、視覚支援などはほとんど組み立てられず「見通し」が持ち難い中「経験」を積むことでやり過ごしていました。
“転校したい”
という気持ちが湧き起こって来たのも無理からぬことかと…
でも、サラッと受け流しやり過ごしました。
“転校した所で「支援学校の文化」はどこも同じなのだろう”と予測したからです。
息子は二度と言わなくなりましたが、今本当はどう思っているのだろう…と
私自身も、支援学校の先輩お母さんたちの卒後に対するお考えをスッと受取り難いことも続きました。
PTA活動に参加してみようとお役を受けたものの、「歴史と伝統」を守ることを先輩たちから望まれると、“余計なことは出来ないな…”と後ずさりも。
まぁ親子共に馴染めない1年を過ごしました。
だけど…
「現実」も解って来たのです。
「一般就労」や「継続A」を卒後の進路として選択するのには、本人の状態像もありますが、ものすごくハードルが高いのだということを感じています。
“進路指導も企業側の理解も本当に未成熟なんだな〜”と。
国がどんなに障害のある方の一般就労を目指すことを掲げても、到底叶い難い「文化」が根付いている現実。
その「文化」ゆえに、先生方と保護者の皆さんとの「一体感」が築かれていることも確かな事実。
ウ〜ン…
私自身が支援学校の「良さ」にもっと気付けるようになったら、このモヤモヤも晴れるでしょう。
ブログでの情報発信を高く評価してくださったPTA会長さん。
「気づいたことは何でも言ってくださいね」と声をかけて下さった校長先生。
「お母さん、忙しくて大変ですね」と、気遣ってくださる担任の先生方。
身近な方々からもっと教えていただいて、「支援学校」というステージを楽しめるようになれたら幸せです。