Q29.見栄っ張りでプライドが高すぎる
A.「粋」と「野暮」をわきまえ「粋な人」を目指せ
起業家にとって「誇り」や「プライド」は大切です。世のため人のために、リスクをとって、時には「割りの合わない事業」にとり組まねばならないのですから、「誇り」や「プライド」なくしては、心が折れそうになるからです。
●成金経営者の「野暮」、老舗のオーナー経営者の「粋」
事業が成功を収めて、ある程度のお金や名誉が手に入るようになった途端、「見栄っ張りでプライドが高すぎる成金経営者」に豹変しやすいのも事実です。
墨田区向島料亭街と共に歩んだ喫茶店「カド」の二代目ご主人曰く、成功して向島で芸者遊びをする人には「進化法則」があるそうです。まずは酒(高級料亭)と女(向島芸者)、続いて競馬の馬主、最後はバカラなどの賭博。要は、より多くのお金を使って、より高いスリルと、ステイタスシンボルを得たいということなのでしょうか。
ところが、私が尊敬する先輩経営者、とくに老舗のオーナー経営者の方々は、見栄はそこそこに、誇りとのれんを、自分自身の美学と幸福感を大切にされているのです。
例えば、愛用しているものを見れば、その経営者の考え方や生き方がわかります。もともと、江戸文化には「粋」と「野暮」という考えがあります。見るからに高級で派手なものを身にまとうと「野暮」、地味だが仕立てが良くて裏地に凝っていたりすると「粋」だと思われるわけです。つまり「見栄っ張り」は、侘び寂びもわからぬ「成金趣味の野暮な人」だと笑う文化が、日本には既に昔からあったわけです。
●思い入れをもってストーリーを語れるか?
誰が見てもわかる高級時計や、高級外車に乗りたい気持ちもわからないでもありません。しかし「なぜその時計ですか?」と聞いても、何の思い入れがないと、本当にがっかりします。まるでブランドネームと高価格だけに惹かれたように見えるのです。
その一方で、ちょっと気になる美しい小物を持っていて、聴くとうれしそうに物語を教えてくれる先輩経営者もいます。例えば、勉強会「ニューマネジメントフォーラム」で毎月顔を合わせる仲間、C+F研究所 ティム・マクリーンさん、アドバネクス・加藤雄一さん、イワキ・岩城修さんとの熱い「モノ談義」は楽しみでなりません。
ティムさんは、米国でスティーヴ・ジョブスと同じ師匠からの禅を学んでいたこともあって、アップルの理念と製品を社員以上に愛しています。同様に、加藤さんも、岩城さんも私もジョブスを敬愛するアップル派なので、いつもモノ自慢が始まるのです。とはいえ、iPhoneやMacBookは、今や学生でさえ持っています。
そこで、自慢は、iPhoneのケースやMacBook用の鞄、さらには関連する文房具やアプリになるのです。どれだけ、誰も持っていない×美しい×面白いものを探し出し、そのストーリーを熱く楽しく語れるかという勝負=遊びです。誰もが知っているブランド品、しかも高額品だったら「野暮」だと思われてしまいます。
知る人ぞ知る逸品、国内の量販店で売っていないような美しくも珍しい名品を、リーズナブルな価格で見つけなくては、仲間に「粋」だと思ってもらえません。これが楽しいのです。
●「粋」な遊びに熱中する仲間をつくる
よく考えると、この「隠れ名品探し×ものがたり」という「粋」で「無邪気」な遊びに熱中する心は、起業家精神そのものかもしれません。自らの情報網と感性と行動力で、人がまだ発見していない美しくも役に立つ商品を探すからです。そして、有名になって価格が上がる前に入手して、誰よりも愛情をこめて熱く語り、広めるのです。
ただし、このゲームを楽しむためには、仲間が大切なのです。
経営者のまわりには、とり入ろうとチヤホヤする輩がいますが、彼らは仲間ではありません。とり巻きです。また、成金仲間の間では、このお金を使わない代わりに、知性と感性と品性を問われる地味なゲームの面白さも「探し出して伝える喜びや誇り」も理解できないでしょう。
真の仲間とは、お互いに師匠になったり、弟子になったりできる特別な関係です。「見栄を張る」必要はありません。自分の強みや弱みも、仕事×家族×個人の悩みも、さらけ出すことができます。
将来に実現したい夢も、心から理解し合えて応援できます。だからこそ、有頂天になっていれば厳しく叱咤し、絶望していれば温かく励ますこともできるのです。
お金や地位目当てのとり巻きの評判を気にするよりも、心からの友=真の仲間にほめてもらえる生き方をすることこそ「誇り高き人生」なのです。
A.「粋」と「野暮」をわきまえ「粋な人」を目指せ
2013年06月27日
2013年06月25日
【新著連載】Q28.シナリオを描くには?
Q.シナリオを描くには?
→A.最高と最低を意識してシナリオを描き、前進と撤退を見極めながら進め!
リスクをとって大胆な一歩を踏み出すためには、心がけておくべきこと、事前に準備しておくことがあります。
まずは事業の見通し=シナリオが大切です。多くの場合、上司などから批判されないように、鉛筆なめなめ「可もなく不可もない」計画を立てがちです。強気に書けば目標に届かない時に起こられそうですし、弱気のシナリオは考えたくないからです。しかし、新しいことに挑戦するに必要なのは、最も楽観的なシナリオと、最も悲観的なシナリオを同時に考えておく「リスク予見」の感性です。最悪の結果になっても致命傷にならないように考えておくのです。どんなに読みが下振れしても慌てることがないように備えておくのです。
●バブル期の存亡を賭けて
例えば、この20年で企業が見舞われた中で「最もインパクトが大きい想定外のリスク」は「メガバンクをふくむ銀行の倒産と合併>貸し渋りと貸しはがし」でしょう。
証券会社で、想定外のバブル崩壊に見舞われたことで、私の金融機関に対する危機感や不信感は、普通のビジネスパーソンの何倍も磨かれました。吹けば飛ぶような中小企業が銀行の心配をするのは本末転倒に見えますが、実は死活問題だったのです。
家業の久米繊維工業も、バブル期に過大な不動産投資に走って、11行もの銀行取引がありました。その中には、バランスシートや取引先を見ると経営が危なくなると予想される銀行があり、いち早く取引をやめる必要がありました。預金が失われ、融資が止まってしまうからです。
そこで、都市銀行を有力三銀行に絞ったのですが、今度は、その三行が合併するという話まで噂されました。一行とだけと取引をすれば、その銀行の言いなりになるしかありません。だから、政府系の金融機関や、地元の信用金庫とバランスをとりながら、常に何が起きても良い体制に変えて行きました。銀行につぶされた企業もたくさん見てきましたが、何とか先回りをして生き延びられました。
●「前進する勇気」と「撤退する勇気」を兼ね備える
喜ばしい楽観的な展開にも、実は大きなリスクが潜んでいます。
例えば予想を上回る受注などがあった場合には、お客様にご迷惑をおかけして機会損失をするばかりか、ライバルの参入を招くリスクまであるからです。また、発注・生産・在庫に先にお金がかかって、回収が遅れるため「黒字倒産」になるかもしれません。ですから、最も楽観的なシナリオと悲観的なシナリオと対応策を、常に考えておくことが大切です。
その上で、「前進する勇気」と同じぐらい重要なのが「撤退する勇気」です。山登りでもヨットでも、実力のある達人ほど、天候などを見て「撤退する勇気」を兼ね備えています。同じように、起業の達人たちの頭には「いつまでに○○ができなかったら撤退」「損失が□□円になったら撤退」「環境が△△になったら撤退」と自分で決めたルールがあるのです。だからこそ、そこまでは勇気を持って前進できるわけです。
また、たとえ自分がリーダーであっても、関係者や師匠に報告・連絡・相談すること=ホウレンソウが大切です。起業家にとって、ホウレンソウは、気が重いものです。多くの場合、マイナスからのスタートなので、胸をはって報告できるのは何年か先だからです。しかし、成果が出ていない、悩み多き時こそ、ホウレンソウが大切です。相談時の貴重な助言や叱咤を、素直に受け止められるかどうかが成功の鍵なのです。
●ゴールに至る道筋や技法は柔軟かつ大胆に修正
予想通りに行かない場合や、貴重なアドバイスをもらった時など、今までの方針や進め方を、ガラッと変えなければいけないことがあります。私も勤め人だった頃は、「何だよ、また方針が変わったよ」「リーダーはすぐ気が変わるからな」と愚痴をこぼしましたが、いざ自分が起業家になると、そんな悠長なことを言ってはいられません。時々刻々環境が変化する中、誰もやっていないことを、教科書もなく進めていくわけですから、予定通りにいくはずがないからです。経営理念がぶれるのは厳禁ですが、ゴールに至る道筋や技法については、常に微調整や大胆な革新が必要なのです。
こうして起業家は、リスクをとった分だけストレスに満ちた毎日を送ります。だからこそ休日の過ごし方にも気を配りましょう。頭を空っぽにして、趣味やスポーツに没頭しましょう。ストレス解消の時間こそ、新たなアイディアを生む源泉なのです。
A.最高と最低を意識してシナリオを描き、前進と撤退を見極めながら進め!
→A.最高と最低を意識してシナリオを描き、前進と撤退を見極めながら進め!
リスクをとって大胆な一歩を踏み出すためには、心がけておくべきこと、事前に準備しておくことがあります。
まずは事業の見通し=シナリオが大切です。多くの場合、上司などから批判されないように、鉛筆なめなめ「可もなく不可もない」計画を立てがちです。強気に書けば目標に届かない時に起こられそうですし、弱気のシナリオは考えたくないからです。しかし、新しいことに挑戦するに必要なのは、最も楽観的なシナリオと、最も悲観的なシナリオを同時に考えておく「リスク予見」の感性です。最悪の結果になっても致命傷にならないように考えておくのです。どんなに読みが下振れしても慌てることがないように備えておくのです。
●バブル期の存亡を賭けて
例えば、この20年で企業が見舞われた中で「最もインパクトが大きい想定外のリスク」は「メガバンクをふくむ銀行の倒産と合併>貸し渋りと貸しはがし」でしょう。
証券会社で、想定外のバブル崩壊に見舞われたことで、私の金融機関に対する危機感や不信感は、普通のビジネスパーソンの何倍も磨かれました。吹けば飛ぶような中小企業が銀行の心配をするのは本末転倒に見えますが、実は死活問題だったのです。
家業の久米繊維工業も、バブル期に過大な不動産投資に走って、11行もの銀行取引がありました。その中には、バランスシートや取引先を見ると経営が危なくなると予想される銀行があり、いち早く取引をやめる必要がありました。預金が失われ、融資が止まってしまうからです。
そこで、都市銀行を有力三銀行に絞ったのですが、今度は、その三行が合併するという話まで噂されました。一行とだけと取引をすれば、その銀行の言いなりになるしかありません。だから、政府系の金融機関や、地元の信用金庫とバランスをとりながら、常に何が起きても良い体制に変えて行きました。銀行につぶされた企業もたくさん見てきましたが、何とか先回りをして生き延びられました。
●「前進する勇気」と「撤退する勇気」を兼ね備える
喜ばしい楽観的な展開にも、実は大きなリスクが潜んでいます。
例えば予想を上回る受注などがあった場合には、お客様にご迷惑をおかけして機会損失をするばかりか、ライバルの参入を招くリスクまであるからです。また、発注・生産・在庫に先にお金がかかって、回収が遅れるため「黒字倒産」になるかもしれません。ですから、最も楽観的なシナリオと悲観的なシナリオと対応策を、常に考えておくことが大切です。
その上で、「前進する勇気」と同じぐらい重要なのが「撤退する勇気」です。山登りでもヨットでも、実力のある達人ほど、天候などを見て「撤退する勇気」を兼ね備えています。同じように、起業の達人たちの頭には「いつまでに○○ができなかったら撤退」「損失が□□円になったら撤退」「環境が△△になったら撤退」と自分で決めたルールがあるのです。だからこそ、そこまでは勇気を持って前進できるわけです。
また、たとえ自分がリーダーであっても、関係者や師匠に報告・連絡・相談すること=ホウレンソウが大切です。起業家にとって、ホウレンソウは、気が重いものです。多くの場合、マイナスからのスタートなので、胸をはって報告できるのは何年か先だからです。しかし、成果が出ていない、悩み多き時こそ、ホウレンソウが大切です。相談時の貴重な助言や叱咤を、素直に受け止められるかどうかが成功の鍵なのです。
●ゴールに至る道筋や技法は柔軟かつ大胆に修正
予想通りに行かない場合や、貴重なアドバイスをもらった時など、今までの方針や進め方を、ガラッと変えなければいけないことがあります。私も勤め人だった頃は、「何だよ、また方針が変わったよ」「リーダーはすぐ気が変わるからな」と愚痴をこぼしましたが、いざ自分が起業家になると、そんな悠長なことを言ってはいられません。時々刻々環境が変化する中、誰もやっていないことを、教科書もなく進めていくわけですから、予定通りにいくはずがないからです。経営理念がぶれるのは厳禁ですが、ゴールに至る道筋や技法については、常に微調整や大胆な革新が必要なのです。
こうして起業家は、リスクをとった分だけストレスに満ちた毎日を送ります。だからこそ休日の過ごし方にも気を配りましょう。頭を空っぽにして、趣味やスポーツに没頭しましょう。ストレス解消の時間こそ、新たなアイディアを生む源泉なのです。
A.最高と最低を意識してシナリオを描き、前進と撤退を見極めながら進め!
2013年06月20日
【新著連載】Q27.現状に満足しないで生きたい
Q27.現状に満足しないで生きたい
→A.「量的な拡大」よりも「質的な変化」を追いかける
起業家の特長は、現状に満足しないことです。一つ目標を達成したとしても、それに飽き足らずに、もっと高みを目指して、次なる高度な目標が見つかるのです。
もっと高度な目標といっても、それは、企業を大きくする、会員を増やすといった「量的な拡大」ばかりとは限りません。「量的な拡大」は、時には、行き過ぎた競争や、社会との不調和を招いて、かえって心を貧して、周囲を不幸せにすることも少なくありません。現状に満足しない真に充実した生き方は、「質的な進化」を伴うのです。
●「現状に満足しない生き方の五段階」
かつて米国の心理学者のアブラハム・マズローが、欲求段階説を唱えました。人間の欲求が、五段階(1生理的欲求 2安全の欲求 3所属と愛の欲求 4承認(尊重)の欲求 5自己実現の欲求)で進化すると唱え、「自己実現の欲求」が最も高次な欲求と定義されました。しかし、私自身のささやかな体験では、「自己実現」よりも、さらに高次な目標が芽生えて、そこに向かってに挑戦したくなります。
そこで私が体感した「現状に満足しない生き方の五段階」をご案内いたしましょう。
まず、第一段階は、「贅沢欲求」です。実は、私の場合は、父が事業を成功させながら「贅沢欲求」を満たすプロセスを見ることで、生きる目標が進化しました。昭和10年生まれの父は、戦後の焼け野原、路地裏の自宅兼町工場を祖父から引き継ぎました。大学にも行かず、自分でトラックを運転して工場と取引先を往復しました。だからこそ、日本初のTシャツ専業メーカーして成功すると、次々に欲しかったものを手に入れて行きました。何と言っても、表通りに面した10階建ての自社ビル兼自宅がその象徴でしょう。しかし、あらゆる贅沢をした後、バブル崩壊を経て、父が晩年に語ったのは「物を持つと苦労する。贅沢せずとも幸せになれる」という境地でした。家族とレンタカーで三陸海岸をドライブして、名も無き漁港の防波堤に腰掛け「おにぎりを食べた」のが、一番美味しかったと、死の直前にしみじみ語ったのです。
「贅沢欲求」=物欲が満たされると、次は「認証欲求」=地位・名誉欲が大切になります。日本ではお金や物を持っているだけでは尊敬されないからです。1995年当時、私は無名の中小企業経営者でした。しかし、日経インターネットアワード、経済産業省「IT経営百選」、東京商工会議所「勇気ある経営大賞」などを受賞し、マスメディアにもとり上げられると、明らかに対応が変わりました。悪い気はしませんが、嬉しいのは最初のうちだけでした。これまでの成果=既に終わった自分を褒められるよりも、これからの挑戦=未来に向けて走る自分を見て欲しいと思うようになるのです。
●真の自己実現は自己満足では得られない
続いて「自己実現欲求」が首をもたげます。懸命に生きていれば、簡単にほめてくれないどころか、むしろ叱咤激励される「師匠」が見つかります。その師匠の生き方を見ていると、自分の足りない点や目指すべき姿が見えてきます。私は故・林雄二郎先生のように生きたいと憧れています。
林先生は、1969年に『情報化社会』という名著で未来を予見し、日本財団やトヨタ財団など日本の社会貢献活動の先達をつとめ、90歳を過ぎても精力的に活躍していました。自分の専門領域を拡げながら、自分の潜在的な可能性を、死ぬまでずっと追求していく生き方に、私は強く惹かれるのです。
しかし、真の「自己実現」は「自己満足」では得られないことにも気づきます。自分が気づいたこと学んだことを、より多くの人に広く活用して欲しいと願うようになるのです。東京商工会議所のIT推進担当役員や、日本財団CANPANセンターの理事として、インターネット活用の方法を、これまで1万人以上の方々にお伝えしてきました。さらに、明治大学講師、雑誌連載やビジネス書著書として、自分以外の人たちの「自己実現」支援=「他人実現」を達成することが生きがいになってきたのです。
さらに「未来実現欲求」も、日に日に大きくなります。自分たちの子孫のために、美しい自然環境、地域固有の文化に根ざしたコミュニティ、愛情にあふれた手仕事の伝統などを、どうすれば未来に遺せるか、大きな責任を感じています。誇大妄想だと笑われるでしょうが、これまで培って来たスキルや、達人たちとのネットワークを、「私の死後はるか先に生きる人たち」の幸せに役立てたいと真剣に考えているのです。
A.「量的な拡大」よりも「質的な変化」を追いかける
→A.「量的な拡大」よりも「質的な変化」を追いかける
起業家の特長は、現状に満足しないことです。一つ目標を達成したとしても、それに飽き足らずに、もっと高みを目指して、次なる高度な目標が見つかるのです。
もっと高度な目標といっても、それは、企業を大きくする、会員を増やすといった「量的な拡大」ばかりとは限りません。「量的な拡大」は、時には、行き過ぎた競争や、社会との不調和を招いて、かえって心を貧して、周囲を不幸せにすることも少なくありません。現状に満足しない真に充実した生き方は、「質的な進化」を伴うのです。
●「現状に満足しない生き方の五段階」
かつて米国の心理学者のアブラハム・マズローが、欲求段階説を唱えました。人間の欲求が、五段階(1生理的欲求 2安全の欲求 3所属と愛の欲求 4承認(尊重)の欲求 5自己実現の欲求)で進化すると唱え、「自己実現の欲求」が最も高次な欲求と定義されました。しかし、私自身のささやかな体験では、「自己実現」よりも、さらに高次な目標が芽生えて、そこに向かってに挑戦したくなります。
そこで私が体感した「現状に満足しない生き方の五段階」をご案内いたしましょう。
まず、第一段階は、「贅沢欲求」です。実は、私の場合は、父が事業を成功させながら「贅沢欲求」を満たすプロセスを見ることで、生きる目標が進化しました。昭和10年生まれの父は、戦後の焼け野原、路地裏の自宅兼町工場を祖父から引き継ぎました。大学にも行かず、自分でトラックを運転して工場と取引先を往復しました。だからこそ、日本初のTシャツ専業メーカーして成功すると、次々に欲しかったものを手に入れて行きました。何と言っても、表通りに面した10階建ての自社ビル兼自宅がその象徴でしょう。しかし、あらゆる贅沢をした後、バブル崩壊を経て、父が晩年に語ったのは「物を持つと苦労する。贅沢せずとも幸せになれる」という境地でした。家族とレンタカーで三陸海岸をドライブして、名も無き漁港の防波堤に腰掛け「おにぎりを食べた」のが、一番美味しかったと、死の直前にしみじみ語ったのです。
「贅沢欲求」=物欲が満たされると、次は「認証欲求」=地位・名誉欲が大切になります。日本ではお金や物を持っているだけでは尊敬されないからです。1995年当時、私は無名の中小企業経営者でした。しかし、日経インターネットアワード、経済産業省「IT経営百選」、東京商工会議所「勇気ある経営大賞」などを受賞し、マスメディアにもとり上げられると、明らかに対応が変わりました。悪い気はしませんが、嬉しいのは最初のうちだけでした。これまでの成果=既に終わった自分を褒められるよりも、これからの挑戦=未来に向けて走る自分を見て欲しいと思うようになるのです。
●真の自己実現は自己満足では得られない
続いて「自己実現欲求」が首をもたげます。懸命に生きていれば、簡単にほめてくれないどころか、むしろ叱咤激励される「師匠」が見つかります。その師匠の生き方を見ていると、自分の足りない点や目指すべき姿が見えてきます。私は故・林雄二郎先生のように生きたいと憧れています。
林先生は、1969年に『情報化社会』という名著で未来を予見し、日本財団やトヨタ財団など日本の社会貢献活動の先達をつとめ、90歳を過ぎても精力的に活躍していました。自分の専門領域を拡げながら、自分の潜在的な可能性を、死ぬまでずっと追求していく生き方に、私は強く惹かれるのです。
しかし、真の「自己実現」は「自己満足」では得られないことにも気づきます。自分が気づいたこと学んだことを、より多くの人に広く活用して欲しいと願うようになるのです。東京商工会議所のIT推進担当役員や、日本財団CANPANセンターの理事として、インターネット活用の方法を、これまで1万人以上の方々にお伝えしてきました。さらに、明治大学講師、雑誌連載やビジネス書著書として、自分以外の人たちの「自己実現」支援=「他人実現」を達成することが生きがいになってきたのです。
さらに「未来実現欲求」も、日に日に大きくなります。自分たちの子孫のために、美しい自然環境、地域固有の文化に根ざしたコミュニティ、愛情にあふれた手仕事の伝統などを、どうすれば未来に遺せるか、大きな責任を感じています。誇大妄想だと笑われるでしょうが、これまで培って来たスキルや、達人たちとのネットワークを、「私の死後はるか先に生きる人たち」の幸せに役立てたいと真剣に考えているのです。
A.「量的な拡大」よりも「質的な変化」を追いかける
2013年06月19日
【新著連載】Q26.自信のあるアイデアなのにうまく伝わらない
Q.自信のあるアイデアなのにうまく伝わらない
→A.「天の時、地の利、人の和」を熟成させよ
起業家は、単にアイデアを思いつく人ではありません。ひらめきだけでは、成功できないことを良く知っているのです。アイデアを「天の時、地の利、人の和」を満たすまで熟成させ、戦略にまで昇華させる「粘り強い知情意の力」を兼ね備えています。
達人たちは、どうやって、天の時、地の利、人の和を満たしていくのでしょうか?
●ロックな教授の出会い
これまで私が出会って来た中で、最も先を見通した賢人は、慶應義塾大学経済学部時代のゼミの恩師、平野 絢子先生でした。平野先生のご専攻は「中国の経済改革」。日本の中国通の多くが、「毛沢東の文化大革命」を礼賛している時に、その問題点と進むべき経済の対内外解放政策を訴え続けていました。だからこそ、1978年に中国の大きな路線転換、現在の経済改革が始まった時に、人民日報の第一回の日本人留学生として招聘されたのです。そして、多くの人が中国の行方に懐疑的な中で、現在見られるような経済発展を予見されました。
しかし、多くの中国と縁がある日本人のように中国べったりにはなりません。先生は、土地利用権や株式の売買と一人っ子政策の大きな弊害も指摘され、予言通り、その副作用が中国を揺るがそうとしているのです。そして、平野先生は、慶應大学を退官された後は、作新学院大学院のビジネススクールの新設に参画されて、「企業の集権と分権の最適化」を新テーマに取り組まれました。
●「天の時」=波が目の前に来るまで乗ってはいけない
天の時を知る大切さについて、平野先生は、いつも「サーフィン」を例に話されました。「波をいちはやく見つけても、波が目の前に来るまで乗ってはいけない」と、私たちに釘を刺したのです。それは、先生のご経験に基づく考えだと、今は判ります。
文化大革命で熱狂していた中国国内はもちろん、日本でも、平野先生の「中国の経済改革と発展戦略」のアイディアに耳を傾ける人は少なかったそうです。それどころか「無記名の郵便が届いて、カミソリが入っていた」ことさえあったそうです。きっと、平野先生が、マルクス主義経済学の教授で、父君が日本共産党創設の三大ブレインの一人でありながら、「反共産党、反文化大革命」を唱えた異端だったからでしょう。
しかし、平野先生は嘲笑にも脅迫にも負けず、自分の意見を変えることはありませんでした。ひたすら孤独な研究を続けて、自分のアイディアを熟成させていきました。そして、50歳を過ぎた時に、中国で経済改革が始まり、まさに当事者から平野先生に白羽の矢が立ったのです。先生が、還暦のパーティの時に「自分が考えてきたことが正しかった。これからが私の青春だ」と高らかに話されたことが忘れられません。
●「地の利」=自分の分野の最先端を理解する
それから、地の利を活かす大切さも、平野先生から学びました。ご存知のように、中国の国務院は、日本の経済発展戦略に学び、そのメリットとデメリットを、日本の官僚以上に研究しています。ですから、マルクス主義経済学だけでなく、日本経済の最先端も同時に理解する人財が必要だったのでしょう。だから平野先生だったのです。
平野先生は、ありがちな学者=理論至上主義で「ヨコをタテにする=外国の原典をありがたく日本語にするだけ」ではありませんでした。例えば、コンピュータとネットワークの進化に着目し「完全な計画は完全な市場に一致する」と看破したのです。コンビニチェーンが使い始めたPOSシステムが経済全体に行き渡り、原材料の必要量まで推計できるようになった時に、初めて計画経済が可能になると予見しました。瞬時に巨額の資金を動かせる金融機関の「新人類ディーラー」にも着目していました。さらに、お金に頓着しない人が金融を動かす公益経済の始まりも予言されたのです。
つまり、経済学者に珍しい徹底的な現場主義で、一見すると無関係な新事象を見つめ、独自の理論を構築して未来を予見しました。その上で、あるべき姿を提言するのです。
●「人の和」=未来を見通す達人とご縁を結ぶ
さらに、人の和でも、平野先生をとりまくご縁の力は飛び抜けていました。多くの保守的な人たちからは冷遇されていたかもしれませんが、未来を見通す達人たちとの特別なご縁に恵まれていました。それは先生の不断の努力の賜物だったと思います。
平野先生は、幼少期、恵まれた令嬢が通う聖心女子大学の付属校に通われましたが、学問の道を志して、東京女子大学に移られ、やがて、慶応義塾大学の経済学部で初の女性教授になりました。福沢諭吉先生が「男女同権」思想だったので教授になれたとおっしゃっていましたが、普通なら、そのまま安楽な道を歩むこともできたはずです。苦学をして、男性以上に恩師に認められなければ、教授にはなれなかったでしょう。
先生はもともと東欧の研究家でしたが、第二次世界大戦後、中国で革命が起きた後、旧中国銀行の副頭取から「これからの中国を見守って欲しい」と請われて、研究対象を変えたのです。「エルベ川を初めて見た時に涙が出た」というほど思い入れがあったはずなのに、ご縁に導かれた大義で、新しい厳しい道を歩まれたのです。そして、耐え忍びながら中国の経済改革についての研究を深めて、晩年に中国から招聘されます。留学中も理不尽な体験をされたようですが、中国の国務院で何人かの「大人(たいじん)」に出会い、さらに研究を深められます。人の和でライフワークを築かれたのです。
そして、大学退官後に、中国経済の研究者ながら、ビジネススクール新設への参画を求められたのも、先生の生き様を見ていた大学関係者とのご縁だったそうです。
平野先生の教え子は、国会議員、学者、ジャーナリスト、経営者など各界で活躍しています。今も私の耳には「あなたが言いたいことを一言で言うと?」「なぜ?」という平野先生の問いかけが聞こえてきます。先生は、きっとご自身にも同じ問いかけを繰り返して、逆境の中でもアイディアを熟成させたのでしょう。「天の時、地の利、人の和」を大切にした独創的な生き方を、一人でも多くの若者に伝えていきたいのです。
A.「天の時、地の利、人の和」を熟成させよ
→A.「天の時、地の利、人の和」を熟成させよ
起業家は、単にアイデアを思いつく人ではありません。ひらめきだけでは、成功できないことを良く知っているのです。アイデアを「天の時、地の利、人の和」を満たすまで熟成させ、戦略にまで昇華させる「粘り強い知情意の力」を兼ね備えています。
達人たちは、どうやって、天の時、地の利、人の和を満たしていくのでしょうか?
●ロックな教授の出会い
これまで私が出会って来た中で、最も先を見通した賢人は、慶應義塾大学経済学部時代のゼミの恩師、平野 絢子先生でした。平野先生のご専攻は「中国の経済改革」。日本の中国通の多くが、「毛沢東の文化大革命」を礼賛している時に、その問題点と進むべき経済の対内外解放政策を訴え続けていました。だからこそ、1978年に中国の大きな路線転換、現在の経済改革が始まった時に、人民日報の第一回の日本人留学生として招聘されたのです。そして、多くの人が中国の行方に懐疑的な中で、現在見られるような経済発展を予見されました。
しかし、多くの中国と縁がある日本人のように中国べったりにはなりません。先生は、土地利用権や株式の売買と一人っ子政策の大きな弊害も指摘され、予言通り、その副作用が中国を揺るがそうとしているのです。そして、平野先生は、慶應大学を退官された後は、作新学院大学院のビジネススクールの新設に参画されて、「企業の集権と分権の最適化」を新テーマに取り組まれました。
●「天の時」=波が目の前に来るまで乗ってはいけない
天の時を知る大切さについて、平野先生は、いつも「サーフィン」を例に話されました。「波をいちはやく見つけても、波が目の前に来るまで乗ってはいけない」と、私たちに釘を刺したのです。それは、先生のご経験に基づく考えだと、今は判ります。
文化大革命で熱狂していた中国国内はもちろん、日本でも、平野先生の「中国の経済改革と発展戦略」のアイディアに耳を傾ける人は少なかったそうです。それどころか「無記名の郵便が届いて、カミソリが入っていた」ことさえあったそうです。きっと、平野先生が、マルクス主義経済学の教授で、父君が日本共産党創設の三大ブレインの一人でありながら、「反共産党、反文化大革命」を唱えた異端だったからでしょう。
しかし、平野先生は嘲笑にも脅迫にも負けず、自分の意見を変えることはありませんでした。ひたすら孤独な研究を続けて、自分のアイディアを熟成させていきました。そして、50歳を過ぎた時に、中国で経済改革が始まり、まさに当事者から平野先生に白羽の矢が立ったのです。先生が、還暦のパーティの時に「自分が考えてきたことが正しかった。これからが私の青春だ」と高らかに話されたことが忘れられません。
●「地の利」=自分の分野の最先端を理解する
それから、地の利を活かす大切さも、平野先生から学びました。ご存知のように、中国の国務院は、日本の経済発展戦略に学び、そのメリットとデメリットを、日本の官僚以上に研究しています。ですから、マルクス主義経済学だけでなく、日本経済の最先端も同時に理解する人財が必要だったのでしょう。だから平野先生だったのです。
平野先生は、ありがちな学者=理論至上主義で「ヨコをタテにする=外国の原典をありがたく日本語にするだけ」ではありませんでした。例えば、コンピュータとネットワークの進化に着目し「完全な計画は完全な市場に一致する」と看破したのです。コンビニチェーンが使い始めたPOSシステムが経済全体に行き渡り、原材料の必要量まで推計できるようになった時に、初めて計画経済が可能になると予見しました。瞬時に巨額の資金を動かせる金融機関の「新人類ディーラー」にも着目していました。さらに、お金に頓着しない人が金融を動かす公益経済の始まりも予言されたのです。
つまり、経済学者に珍しい徹底的な現場主義で、一見すると無関係な新事象を見つめ、独自の理論を構築して未来を予見しました。その上で、あるべき姿を提言するのです。
●「人の和」=未来を見通す達人とご縁を結ぶ
さらに、人の和でも、平野先生をとりまくご縁の力は飛び抜けていました。多くの保守的な人たちからは冷遇されていたかもしれませんが、未来を見通す達人たちとの特別なご縁に恵まれていました。それは先生の不断の努力の賜物だったと思います。
平野先生は、幼少期、恵まれた令嬢が通う聖心女子大学の付属校に通われましたが、学問の道を志して、東京女子大学に移られ、やがて、慶応義塾大学の経済学部で初の女性教授になりました。福沢諭吉先生が「男女同権」思想だったので教授になれたとおっしゃっていましたが、普通なら、そのまま安楽な道を歩むこともできたはずです。苦学をして、男性以上に恩師に認められなければ、教授にはなれなかったでしょう。
先生はもともと東欧の研究家でしたが、第二次世界大戦後、中国で革命が起きた後、旧中国銀行の副頭取から「これからの中国を見守って欲しい」と請われて、研究対象を変えたのです。「エルベ川を初めて見た時に涙が出た」というほど思い入れがあったはずなのに、ご縁に導かれた大義で、新しい厳しい道を歩まれたのです。そして、耐え忍びながら中国の経済改革についての研究を深めて、晩年に中国から招聘されます。留学中も理不尽な体験をされたようですが、中国の国務院で何人かの「大人(たいじん)」に出会い、さらに研究を深められます。人の和でライフワークを築かれたのです。
そして、大学退官後に、中国経済の研究者ながら、ビジネススクール新設への参画を求められたのも、先生の生き様を見ていた大学関係者とのご縁だったそうです。
平野先生の教え子は、国会議員、学者、ジャーナリスト、経営者など各界で活躍しています。今も私の耳には「あなたが言いたいことを一言で言うと?」「なぜ?」という平野先生の問いかけが聞こえてきます。先生は、きっとご自身にも同じ問いかけを繰り返して、逆境の中でもアイディアを熟成させたのでしょう。「天の時、地の利、人の和」を大切にした独創的な生き方を、一人でも多くの若者に伝えていきたいのです。
A.「天の時、地の利、人の和」を熟成させよ
2013年06月18日
【新著連載】Q25.公私混同のほうがうまくいく?
Q.公私混同のほうがうまくいく?
→A.「ランチ道」を極めることからはじめよう
起業家の多くは公私混同の達人です。といっても、仕事の利権を個人のために使うといった「悪い意味の公私混同」ではありません。「遊ぶように働き、働くように遊ぶ」達人なのです。
達人は「真剣に遊びつつ、無意識に仕事のヒントを探す」「辛い仕事をしている時も、肩の力を抜いて遊び心を忘れない」人生を送っています。仕事をしながらも、会社を支えてくださる「お客様と同じ気持ち」になれる、素直な「私」の心を、いつも持ち合わせているのです。そして、不思議なことに、真剣に遊んでいる時ほど、経営者としての「公」の本能も活性化され、企業の未来を切り拓く「新商品・新サービス」がひらめくものです。さらに、ひらめきを形にする苦労や、新事業を広める苦労も、起業家にとっては「ゲーム」や「レジャー」と同じ楽しみなのです。
●地の利を活かした「ランチ道」を極めれば起業家力がアップ
公私混同の入門として仕事場界隈の自腹「ランチ道」から始めてはいかがでしょう? 自己投資で、地の利を活かした「ランチ」を極めることで、起業家力がアップします。私の経営道の師、会社力研究所代表の長谷川和廣先生も、ご自身のお子さんへの帝王学として「舌を磨いた」とおっしゃっています。
ベストセラー『社長のノート』シリーズで知られる国際派経営者の眼から見れば、洋の東西を問わず、一流の人物は味覚にも優れており、それは経営者としての感性にも比例しているということでしょう。
私にとっての「ランチ道」入門は、社会人デビューした時の、つらいファミコンソフトの飛び込み営業の最中でした。見知らぬ街で、見知らぬ玩具店を探し出しては、厳しくあしらわれる中、唯一の楽しみはランチ。当時は、ラーメン好きでしたので、ひたすら、その街の美味しい店を見つけ出しては、ラーメンばかりを食べ歩きました。インターネットも情報誌も少ない時代ですから、まち歩きをしながら探します。不思議なもので「この店構えだと美味しそう」「この主人はこだわりがありそう」「この路地に美味しい店がありそう」というカンが少しずつ磨かれてくるのです。毎日、ラーメンを食べていると味覚が研ぎすまされ、ちょっとした味の違いにも敏感になります。
●繁盛店や店主の特別なオーラや見えない努力を感じ取る
日興證券に転職してからも、銀座に近い地の利を活かして、「ランチ道」を極めることにしました。有名なお店から、路地裏の隠れ家まで、格安メニューを探しては、おひとりさまランチを楽しみます。日本一の高級グルメタウンですが、ランチタイムなら20代のサラリーマンでも手が届きますし、スーツ姿なら門前払いにはなりません。そこで「最高の味、最高のおもてなし」から、「親しみのある味、ほっとする店構え」まで、日本の食文化の奥深さの一端を見ることができました。そして、繁盛店とご主人や女将だけが持つ、特別なオーラや、見えない努力を感じ取れるようになりました。
いよいよ、久米繊維に戻ってからは、会社界隈の墨田区周辺を食べ歩きました。
実は、墨田区は、昔ながらの名店があるだけでなく、人口規模や立地の割には地価が安いこともあって、志と腕がある区外のオーナー料理人が、続々と店開きをしていました。エスニック料理から、蕎麦屋、カフェにいたるまで面白い店だらけなのです。意外にも、地元の経営者の先輩は、ご近所よりも、浅草、日本橋、銀座などに行ってしまうことが多いようでした。そして、情報誌も、東京スカイツリーが出来る前は、墨田区のことなど取り上げていなかったので、まさに未開の真空地帯だったのです。
驚くことに、久米繊維にご来社された、ファッション業界やカタカナ職業のおしゃれな人ほど、路地裏の隠れ家的名店にご案内すると喜んでくれました。師匠の長谷川先生が看破されたように、センスの良い人ほど、人知れぬ美味しい店を紹介すると、私のセンスを認めてくださいます。その味が一流であればあるほど、久米繊維の商品も一流に見えるのです。さらに、私が、ネット・講演・コラムなどでご紹介した店が、口コミ、ネットコミで全国的な有名店になるという素晴らしい体験も味わえました。ご紹介した名店主が、久米繊維と商品を愛してくださることも大きな喜びでした。
ありがたいことに、現在、私が全国の銘品名店の経営者と親しく交流し、ご一緒に商品開発やイベントができるのも、まち歩き観光の専門家として活躍できるのも、20代の時から、30年近く続けてきた、公私混同「ランチ道」のおかげなのです。
A.「ランチ道」を極めることからはじめよう
→A.「ランチ道」を極めることからはじめよう
起業家の多くは公私混同の達人です。といっても、仕事の利権を個人のために使うといった「悪い意味の公私混同」ではありません。「遊ぶように働き、働くように遊ぶ」達人なのです。
達人は「真剣に遊びつつ、無意識に仕事のヒントを探す」「辛い仕事をしている時も、肩の力を抜いて遊び心を忘れない」人生を送っています。仕事をしながらも、会社を支えてくださる「お客様と同じ気持ち」になれる、素直な「私」の心を、いつも持ち合わせているのです。そして、不思議なことに、真剣に遊んでいる時ほど、経営者としての「公」の本能も活性化され、企業の未来を切り拓く「新商品・新サービス」がひらめくものです。さらに、ひらめきを形にする苦労や、新事業を広める苦労も、起業家にとっては「ゲーム」や「レジャー」と同じ楽しみなのです。
●地の利を活かした「ランチ道」を極めれば起業家力がアップ
公私混同の入門として仕事場界隈の自腹「ランチ道」から始めてはいかがでしょう? 自己投資で、地の利を活かした「ランチ」を極めることで、起業家力がアップします。私の経営道の師、会社力研究所代表の長谷川和廣先生も、ご自身のお子さんへの帝王学として「舌を磨いた」とおっしゃっています。
ベストセラー『社長のノート』シリーズで知られる国際派経営者の眼から見れば、洋の東西を問わず、一流の人物は味覚にも優れており、それは経営者としての感性にも比例しているということでしょう。
私にとっての「ランチ道」入門は、社会人デビューした時の、つらいファミコンソフトの飛び込み営業の最中でした。見知らぬ街で、見知らぬ玩具店を探し出しては、厳しくあしらわれる中、唯一の楽しみはランチ。当時は、ラーメン好きでしたので、ひたすら、その街の美味しい店を見つけ出しては、ラーメンばかりを食べ歩きました。インターネットも情報誌も少ない時代ですから、まち歩きをしながら探します。不思議なもので「この店構えだと美味しそう」「この主人はこだわりがありそう」「この路地に美味しい店がありそう」というカンが少しずつ磨かれてくるのです。毎日、ラーメンを食べていると味覚が研ぎすまされ、ちょっとした味の違いにも敏感になります。
●繁盛店や店主の特別なオーラや見えない努力を感じ取る
日興證券に転職してからも、銀座に近い地の利を活かして、「ランチ道」を極めることにしました。有名なお店から、路地裏の隠れ家まで、格安メニューを探しては、おひとりさまランチを楽しみます。日本一の高級グルメタウンですが、ランチタイムなら20代のサラリーマンでも手が届きますし、スーツ姿なら門前払いにはなりません。そこで「最高の味、最高のおもてなし」から、「親しみのある味、ほっとする店構え」まで、日本の食文化の奥深さの一端を見ることができました。そして、繁盛店とご主人や女将だけが持つ、特別なオーラや、見えない努力を感じ取れるようになりました。
いよいよ、久米繊維に戻ってからは、会社界隈の墨田区周辺を食べ歩きました。
実は、墨田区は、昔ながらの名店があるだけでなく、人口規模や立地の割には地価が安いこともあって、志と腕がある区外のオーナー料理人が、続々と店開きをしていました。エスニック料理から、蕎麦屋、カフェにいたるまで面白い店だらけなのです。意外にも、地元の経営者の先輩は、ご近所よりも、浅草、日本橋、銀座などに行ってしまうことが多いようでした。そして、情報誌も、東京スカイツリーが出来る前は、墨田区のことなど取り上げていなかったので、まさに未開の真空地帯だったのです。
驚くことに、久米繊維にご来社された、ファッション業界やカタカナ職業のおしゃれな人ほど、路地裏の隠れ家的名店にご案内すると喜んでくれました。師匠の長谷川先生が看破されたように、センスの良い人ほど、人知れぬ美味しい店を紹介すると、私のセンスを認めてくださいます。その味が一流であればあるほど、久米繊維の商品も一流に見えるのです。さらに、私が、ネット・講演・コラムなどでご紹介した店が、口コミ、ネットコミで全国的な有名店になるという素晴らしい体験も味わえました。ご紹介した名店主が、久米繊維と商品を愛してくださることも大きな喜びでした。
ありがたいことに、現在、私が全国の銘品名店の経営者と親しく交流し、ご一緒に商品開発やイベントができるのも、まち歩き観光の専門家として活躍できるのも、20代の時から、30年近く続けてきた、公私混同「ランチ道」のおかげなのです。
A.「ランチ道」を極めることからはじめよう
2013年06月11日
【新著連載】Q24.社内の理解が得られない
Q24. 社内の理解が得られない
→A.社内営業の戦略と戦術を練れば、道は開ける
社内起業家は、社内営業が起業の第一歩であり、エネルギーの大半を使うことになると心得ています。もし、社内の理解が得られないとすれば、それは社内営業の戦略や戦術がまずかったということなのです。もし社内営業もできないのであれば、さらに難しいはずの新規事業における営業もうまくいかないでしょう。
●社内起業の成否は「社内営業」で9割決まる
私も、日興證券時代に、社内営業の大切さを思い知りました。伝統的な大企業で新規事業に取り組む時には、エネルギーの7割、場合によっては9割を社内営業に使うこともあるのです。そこでへこたれたり、エネルギーを使い果たしてはなりません。
まずは、直属の上司、同僚、部下の理解が不可欠です。しかし、2対6対2の原則によれば、理解ある上司に恵まれる確率はせいぜい2割です。私は、新規事業担当ということで、直属の上司には恵まれましたが、部門長は保守的な人が多かったのです。
例えば、ある支店で成績を挙げられて「The 証券会社の支店長」という考えと営業スタイルをお持ちだった亀村明さん(後に執行役員)が、営業開発部長として着任された時、いきなり私は「目の上のたんこぶ」のような状態になりました。
AIを使った投資相談という怪しい新規事業を進めようとしていただけでなく、私が定時に自転車でやって来て定時に帰るような異質な若造だったからです。聞けば、あの若造は、ベンチャーあがりで営業経験すらない!とわかれば頭に来ます。私は、経営者の息子として、早く来ても新聞を読んでいるだけ、ダラダラ仕事をして残業代を稼ぐだけの仕事ぶりが嫌いだったから、そうしていたのですが...今になってみれば、きっと扱いづらい社員だったでしょう。当然ながら、亀村さんと私の間に見えない火花が飛び散って、部長の顔を思い出すと、顔がヒクヒクするほどのストレスを抱えていました。
●「転機」を活かして「好機」に変える
しかし、ある日、転機はやってきました。同部が主催する金融機関トップ向けセミナーでの社長のスピーチ原稿を書く仕事が、突然舞い込んだのです。亀村さんは、誰に頼むか迷ったあげく、私に白羽の矢を立てて下さいました。締めきりは、なんと明日です。この仕事に私は燃えました。その日は、ひとりオフィスに残って、ほぼ徹夜状態で原稿を仕上げました。そして、この原稿を社長が気に入ってくださったのです。
変な社員でも「やる時はやる」という心意気をお見せできた瞬間でした。それ以来、亀村さんは、私をかわいがってくださり、退社後にも年賀状などをくださるのです。もちろん、部内の私を見る目も変わったので、仕事がやりやすくなりました。
さて、直属の上司や部下の理解が得られたら、今度は、会社のオピニオンリーダーやキーパーソンを探して、味方になってもらわなければなりません。大企業の中でも、会社の長期的な戦略を決められるオピニオンリーダーや、それを意思決定するキーパーソンは、ごくわずかです。社内の重要人物を、見つけ出すには、上司の情報力とネットワークが大切です。重要人物に会うために、誰からお願いして、どうやって会うかで結果が変わってくるからです。証券会社であれば、ある支店や本社部門時代に一緒に活躍したことや、仲人をした・された等という公使共々の人間関係を知ることが重要でした。同じ社内とは言え、一歩間違えば敵同士。仲のよい信頼できる人から話してもらい、一緒に会ってもらうことが、社内営業では成否に関わってくるのです。さらに、重要人物が会いたくなる社外の著名人=新規事業の協力者=に同席してもらうと良いでしょう。新規事業の重要性を、直接語ってもらえば一石二鳥です。
●根回しは「After Youの精神」「事前準備」が重要
社内の重要人物の理解が得られたら、いよいよ根回しです。面倒で嫌だと思う人も多いかもしれませんが、根回しこそ、社内営業で一番大切なプロセスなのです。
根回しで大切なのは、一般の営業と同様に「After Youの精神」「事前準備」です。
新規事業の関係部門の部長の願いは何か、想像力を働かせて、その願いを叶える提案をしなければなりません。多くの場合、大企業の部長は、役員を目前にして「失敗をしたくない=リスクは嫌だ」と考えています。しかし、リスクや面倒がなければ「手柄は欲しい=新規事業に関わりたい」とも考えているはずです。
●「完璧」な企画書はダメ?
その本音を理解しつつ、最後は、「私自身が、そして自分の部署とキーパーソンが責任を取る」と真剣に語ることが、信頼を勝ちうるプレゼンの見せ所になるでしょう。
しかし、完璧な企画書を作って持参してはなりません。部長=企画にケチをつける人=できない理由を考える人=であると場合も少なくないからです。完璧な企画書より、ケチをつける穴が見つかりやすい企画書の方が、コミュニケーションが弾みます。
「絶対に譲れない核心部」を外して、「誰でも見つかる改善案」が思い浮かぶ企画書を作ることが、社内営業における理想なのです。時には、「フォントが嫌い」「字が小さい」「四角のカドが丸い方がいい」などと枝葉末節を突っ込まれることもあるでしょう。そこで怒ってはいけません。「字を大きくすれば賛成」というメッセージなのです。
さて、ここまでくれば会議は簡単です。企画書をプレゼンする時は、「この案は◎◎部長のアイディアをいただいて□□といたしました」と、根回しの時にいただいた各部門長の意見を盛り込むことが大切です。あたかも、共同出願の企画として発表することで賛成したくなります。そして、最後は、「みなさまの素晴らしいアイディアを活かして、私が責任をもってやりとげます」と熱く語りましょう。その上で、社内のオピニオンリーダーから、この新規事業の重要性を補足してもらうのです。会議の最後には、キーパーソンに「全面的にバックアップする」と締めてもらえば完璧です。
まるで歌舞伎のような様式美=これぞ社内起業家のデビューに欠かせない儀式です。
A.社内営業の戦略と戦術を練れば、道は開ける
→A.社内営業の戦略と戦術を練れば、道は開ける
社内起業家は、社内営業が起業の第一歩であり、エネルギーの大半を使うことになると心得ています。もし、社内の理解が得られないとすれば、それは社内営業の戦略や戦術がまずかったということなのです。もし社内営業もできないのであれば、さらに難しいはずの新規事業における営業もうまくいかないでしょう。
●社内起業の成否は「社内営業」で9割決まる
私も、日興證券時代に、社内営業の大切さを思い知りました。伝統的な大企業で新規事業に取り組む時には、エネルギーの7割、場合によっては9割を社内営業に使うこともあるのです。そこでへこたれたり、エネルギーを使い果たしてはなりません。
まずは、直属の上司、同僚、部下の理解が不可欠です。しかし、2対6対2の原則によれば、理解ある上司に恵まれる確率はせいぜい2割です。私は、新規事業担当ということで、直属の上司には恵まれましたが、部門長は保守的な人が多かったのです。
例えば、ある支店で成績を挙げられて「The 証券会社の支店長」という考えと営業スタイルをお持ちだった亀村明さん(後に執行役員)が、営業開発部長として着任された時、いきなり私は「目の上のたんこぶ」のような状態になりました。
AIを使った投資相談という怪しい新規事業を進めようとしていただけでなく、私が定時に自転車でやって来て定時に帰るような異質な若造だったからです。聞けば、あの若造は、ベンチャーあがりで営業経験すらない!とわかれば頭に来ます。私は、経営者の息子として、早く来ても新聞を読んでいるだけ、ダラダラ仕事をして残業代を稼ぐだけの仕事ぶりが嫌いだったから、そうしていたのですが...今になってみれば、きっと扱いづらい社員だったでしょう。当然ながら、亀村さんと私の間に見えない火花が飛び散って、部長の顔を思い出すと、顔がヒクヒクするほどのストレスを抱えていました。
●「転機」を活かして「好機」に変える
しかし、ある日、転機はやってきました。同部が主催する金融機関トップ向けセミナーでの社長のスピーチ原稿を書く仕事が、突然舞い込んだのです。亀村さんは、誰に頼むか迷ったあげく、私に白羽の矢を立てて下さいました。締めきりは、なんと明日です。この仕事に私は燃えました。その日は、ひとりオフィスに残って、ほぼ徹夜状態で原稿を仕上げました。そして、この原稿を社長が気に入ってくださったのです。
変な社員でも「やる時はやる」という心意気をお見せできた瞬間でした。それ以来、亀村さんは、私をかわいがってくださり、退社後にも年賀状などをくださるのです。もちろん、部内の私を見る目も変わったので、仕事がやりやすくなりました。
さて、直属の上司や部下の理解が得られたら、今度は、会社のオピニオンリーダーやキーパーソンを探して、味方になってもらわなければなりません。大企業の中でも、会社の長期的な戦略を決められるオピニオンリーダーや、それを意思決定するキーパーソンは、ごくわずかです。社内の重要人物を、見つけ出すには、上司の情報力とネットワークが大切です。重要人物に会うために、誰からお願いして、どうやって会うかで結果が変わってくるからです。証券会社であれば、ある支店や本社部門時代に一緒に活躍したことや、仲人をした・された等という公使共々の人間関係を知ることが重要でした。同じ社内とは言え、一歩間違えば敵同士。仲のよい信頼できる人から話してもらい、一緒に会ってもらうことが、社内営業では成否に関わってくるのです。さらに、重要人物が会いたくなる社外の著名人=新規事業の協力者=に同席してもらうと良いでしょう。新規事業の重要性を、直接語ってもらえば一石二鳥です。
●根回しは「After Youの精神」「事前準備」が重要
社内の重要人物の理解が得られたら、いよいよ根回しです。面倒で嫌だと思う人も多いかもしれませんが、根回しこそ、社内営業で一番大切なプロセスなのです。
根回しで大切なのは、一般の営業と同様に「After Youの精神」「事前準備」です。
新規事業の関係部門の部長の願いは何か、想像力を働かせて、その願いを叶える提案をしなければなりません。多くの場合、大企業の部長は、役員を目前にして「失敗をしたくない=リスクは嫌だ」と考えています。しかし、リスクや面倒がなければ「手柄は欲しい=新規事業に関わりたい」とも考えているはずです。
●「完璧」な企画書はダメ?
その本音を理解しつつ、最後は、「私自身が、そして自分の部署とキーパーソンが責任を取る」と真剣に語ることが、信頼を勝ちうるプレゼンの見せ所になるでしょう。
しかし、完璧な企画書を作って持参してはなりません。部長=企画にケチをつける人=できない理由を考える人=であると場合も少なくないからです。完璧な企画書より、ケチをつける穴が見つかりやすい企画書の方が、コミュニケーションが弾みます。
「絶対に譲れない核心部」を外して、「誰でも見つかる改善案」が思い浮かぶ企画書を作ることが、社内営業における理想なのです。時には、「フォントが嫌い」「字が小さい」「四角のカドが丸い方がいい」などと枝葉末節を突っ込まれることもあるでしょう。そこで怒ってはいけません。「字を大きくすれば賛成」というメッセージなのです。
さて、ここまでくれば会議は簡単です。企画書をプレゼンする時は、「この案は◎◎部長のアイディアをいただいて□□といたしました」と、根回しの時にいただいた各部門長の意見を盛り込むことが大切です。あたかも、共同出願の企画として発表することで賛成したくなります。そして、最後は、「みなさまの素晴らしいアイディアを活かして、私が責任をもってやりとげます」と熱く語りましょう。その上で、社内のオピニオンリーダーから、この新規事業の重要性を補足してもらうのです。会議の最後には、キーパーソンに「全面的にバックアップする」と締めてもらえば完璧です。
まるで歌舞伎のような様式美=これぞ社内起業家のデビューに欠かせない儀式です。
A.社内営業の戦略と戦術を練れば、道は開ける
2013年06月10日
【新著連載】Q23. 自分ひとりでがんばってもムダですか?
Q23. 自分ひとりでがんばってもムダですか?
A.よそ者・わか者・ばか者の活躍が変化を起こす
起業家は、自分ひとりでは何もできないことを知っています。同時に、自分ひとりのがんばりが、大きなキッカケと貴重なご縁を呼び込むことも良く知っています。
ひとりでがんばる時のキーワードは「よそ者・わか者・ばか者」感覚です。この言葉を編み出したのは、西友での新規事業の体験をもとに、社会起業家として活躍する先輩、柳田公市さんです。柳田さんは、保守的な組織を内側から改革するのは難しいので「よそ者・わか者・ばか者」の活躍が大切だと看破されたのです。
私も、若くして、地元墨田区の街おこしに関わることができました。柳田さんの至言を常に意識して、孤軍奮闘を続けてきたからこそ、今の私と生き甲斐があるのです。
●インターネットから「街おこし」
私の「よそ者」感覚は、その経歴によるところが大きいでしょう。墨田区で生まれ育った三代目経営者ですが、20代の私は、ファミコンゲームソフトメーカーや、証券会社で、ITやソフトの仕事をしていて、地元の活動など何もしていませんでした。
ところが、街おこしに関わるご縁は、予想もしないところから訪れました。私のネット仲間で、建築関係の教育や出版をしていた鈴木明先生が、菊川工業の経営者・宇津野和俊さんを引き連れて、弊社に見学にいらっしゃったのです。宇津野さんは、鈴木先生の協力で世界の名建築ガイドを出版した文化人経営者で、現在は世界中のアップルストアの金属建材を提供しています。私は、意気に感じて、中小企業にとってインターネットがいかに役立つツールであるか熱弁をふるったのです。
すると後日、思いがけないことに、宇津野さんから、東京商工会議所墨田支部の役員になってほしいと請われたのです。当初は、情報サービス分科会の副会長を務め、ほどなくして新設されたIT分科会長を拝命しました。IT業界とは無縁のTシャツメーカーの経営者が、まさに「よそ者」として招かれたのです。なにせ分科会には、NTTや地元ケーブルテレビの幹部が、メンバーとして名前を連ねています。文系出身でITの専門教育を受けたことがない私ですから、もちろんビビリました。
しかし、私は、どうすれば中小企業がお金をかけずにインターネットを活用できるかを日々考え実践していましたし、同じように使いこなせる企業が増えることが、墨田区全体を盛り上げることを理解していました。そこで地元経営者向けに実践的なセミナーを重ねて十年。墨田区では、区内の要となる経営者、後継者から、自治体、団体幹部まで、みなさんがソーシャルメディアを使いこなすところまで進化したのです。
●40歳そこそこでもまだまだ「わか者」
そして、私は「わか者」として、墨田区を代表する経営者が十数名集まる役員会に毎月出席することになりました。何しろ、出席する先輩の多くは70代〜60代、若くても50代でした。通常ならば、40歳そこそこの私は、借りてきたネコのように静かにしているべきでしょう。しかし、東商墨田支部会長の高橋久雄さんは、「よそ者・わか者・ばか者」の重要性を心から理解していました。さらに、私が思い切った発言をするほど、他の先輩役員も喜んで賛同してくださることもわかりました。
例えば、東京スカイツリーの構想が持ち上がった時に、墨田区長の山崎昇さんが、役員会に参加されました。その時に、「すみだ北斎美術館」と「メディアアート」についてお話をされたのです。その時、私は、世界中の美術館を見て回った「バカモノ」の一人として生意気な発言をしました。「中途半端なメディアアートは一度見ただけで飽きてしまう。それより北斎賞を作って、受賞作で地域ブランド商品を作り、イベントを開いた方が、地元が繁盛する」この私見に、区長も先輩方も賛成してくれました。
それがきっかけとなって、私は、すみだ北斎美術館の名称やロゴを決める委員や、さらに、新設された墨田区観光協会の発起人理事に選ばれました。年齢は「わか者」経歴はアートや観光について「よそ者」で、私はふさわしくないかもしれません。しかし、私は、墨田区に異常な愛情を持つ「ばか者」です。これまでも「勝手に観光協会」として、久米繊維のお客様に、墨田区の文化の深さや、路地裏の面白さを案内し続けてきました。それが実を結んで、大きな仕事ができるようになったのです。
A.よそ者・わか者・ばか者の活躍が変化を起こす
A.よそ者・わか者・ばか者の活躍が変化を起こす
起業家は、自分ひとりでは何もできないことを知っています。同時に、自分ひとりのがんばりが、大きなキッカケと貴重なご縁を呼び込むことも良く知っています。
ひとりでがんばる時のキーワードは「よそ者・わか者・ばか者」感覚です。この言葉を編み出したのは、西友での新規事業の体験をもとに、社会起業家として活躍する先輩、柳田公市さんです。柳田さんは、保守的な組織を内側から改革するのは難しいので「よそ者・わか者・ばか者」の活躍が大切だと看破されたのです。
私も、若くして、地元墨田区の街おこしに関わることができました。柳田さんの至言を常に意識して、孤軍奮闘を続けてきたからこそ、今の私と生き甲斐があるのです。
●インターネットから「街おこし」
私の「よそ者」感覚は、その経歴によるところが大きいでしょう。墨田区で生まれ育った三代目経営者ですが、20代の私は、ファミコンゲームソフトメーカーや、証券会社で、ITやソフトの仕事をしていて、地元の活動など何もしていませんでした。
ところが、街おこしに関わるご縁は、予想もしないところから訪れました。私のネット仲間で、建築関係の教育や出版をしていた鈴木明先生が、菊川工業の経営者・宇津野和俊さんを引き連れて、弊社に見学にいらっしゃったのです。宇津野さんは、鈴木先生の協力で世界の名建築ガイドを出版した文化人経営者で、現在は世界中のアップルストアの金属建材を提供しています。私は、意気に感じて、中小企業にとってインターネットがいかに役立つツールであるか熱弁をふるったのです。
すると後日、思いがけないことに、宇津野さんから、東京商工会議所墨田支部の役員になってほしいと請われたのです。当初は、情報サービス分科会の副会長を務め、ほどなくして新設されたIT分科会長を拝命しました。IT業界とは無縁のTシャツメーカーの経営者が、まさに「よそ者」として招かれたのです。なにせ分科会には、NTTや地元ケーブルテレビの幹部が、メンバーとして名前を連ねています。文系出身でITの専門教育を受けたことがない私ですから、もちろんビビリました。
しかし、私は、どうすれば中小企業がお金をかけずにインターネットを活用できるかを日々考え実践していましたし、同じように使いこなせる企業が増えることが、墨田区全体を盛り上げることを理解していました。そこで地元経営者向けに実践的なセミナーを重ねて十年。墨田区では、区内の要となる経営者、後継者から、自治体、団体幹部まで、みなさんがソーシャルメディアを使いこなすところまで進化したのです。
●40歳そこそこでもまだまだ「わか者」
そして、私は「わか者」として、墨田区を代表する経営者が十数名集まる役員会に毎月出席することになりました。何しろ、出席する先輩の多くは70代〜60代、若くても50代でした。通常ならば、40歳そこそこの私は、借りてきたネコのように静かにしているべきでしょう。しかし、東商墨田支部会長の高橋久雄さんは、「よそ者・わか者・ばか者」の重要性を心から理解していました。さらに、私が思い切った発言をするほど、他の先輩役員も喜んで賛同してくださることもわかりました。
例えば、東京スカイツリーの構想が持ち上がった時に、墨田区長の山崎昇さんが、役員会に参加されました。その時に、「すみだ北斎美術館」と「メディアアート」についてお話をされたのです。その時、私は、世界中の美術館を見て回った「バカモノ」の一人として生意気な発言をしました。「中途半端なメディアアートは一度見ただけで飽きてしまう。それより北斎賞を作って、受賞作で地域ブランド商品を作り、イベントを開いた方が、地元が繁盛する」この私見に、区長も先輩方も賛成してくれました。
それがきっかけとなって、私は、すみだ北斎美術館の名称やロゴを決める委員や、さらに、新設された墨田区観光協会の発起人理事に選ばれました。年齢は「わか者」経歴はアートや観光について「よそ者」で、私はふさわしくないかもしれません。しかし、私は、墨田区に異常な愛情を持つ「ばか者」です。これまでも「勝手に観光協会」として、久米繊維のお客様に、墨田区の文化の深さや、路地裏の面白さを案内し続けてきました。それが実を結んで、大きな仕事ができるようになったのです。
A.よそ者・わか者・ばか者の活躍が変化を起こす
2013年06月07日
【新著連載】Q22. 人の力を借りるのが苦手です
Q. 困ったときに人の力を借りるのが苦手です
→A.「Know HOW」よりも「Know WHO」が成功のカギ
起業家は、自分の力だけで解決できることなどないことを知っています。そして、取り組む事業が新しければ新しいほど、困難であればあるほど、自分よりも知恵も実力もある人の力を結集できるかが「成功のカギ」であると心得ています。
しかし、多くの人は、困ったときに人の力を借りることをためらいます。
「こんなこともできないのかと笑われそう」というちっぽけなプライド、「自分の仕事は自分でやれと怒られそう」という恐怖心、「優秀な人は忙しくて手伝ってくれっこない」という決めつけやあきらめなどが、邪魔をするのでしょう。
結局のところ、頼みやすい同僚や部下にお願いするか、下請け業者に丸投げしてしまうなど、安易でストレスのない方法に走るかもしれません。
●「自分のスキル」より「優秀な人材」を見つける
私が日興證券時代に仕えた上司、笠榮一さん(故人)は、営業の天才としてお客様を魅了するだけではなく、社内のスペシャリストをまきこむ天才でもありました。
笠さんは、高校を卒業後に日興證券に入社され、まずは、個人向け営業として頭角を現します。そして、トヨタの法人担当となって信頼を勝ち得て、空前の営業成績をあげられました。驚くことに、晩年は、当時トヨタの財務担当だった方に請われて、新設されたトヨタの関連会社の顧問にまでなるのです。
高校卒業のキャリアしかなかった笠さんが、トヨタ銀行と称される金融強者を相手に信頼を勝ち得ることができた秘密は、お客様個人の心をつかめただけではありませんでした。社内外の達人を巻き込んで、積極的に協力してもらえたからなのです。
まず、笠さんは、お客様の真のニーズを感じ取る力に長けていました。同時に、自分自身に解決するスキル(Know How)がない場合が多いこともわかっていました。そのかわり、お客様の問題を解決するのに、もっともふさわしい優秀な人材が誰か(Know Who)を調べて、知り尽くしていたのです。そして、笠さんに請われると、スペシャリストは、みんな喜んで全力で仕事を手伝ったのです。
それはいったいなぜでしょうか? もちろん、それが仕事ですし、トヨタが会社にとって大切なお客様だったこともあるでしょう。しかし、それだけではなかったのです。
笠さんは、社外のお客様には、会社の経費で接待をしましたが、社内の優秀な若者たちには、自腹でおごって接待!をしていました。笠さんは、社内での地位と、実際のプロのスキルとが連動していないと理解していました。株の売り買いだけだった時代から、高度な数学=金融工学を必要とする時代に変わっていたので、むしろ若いスタッフの中に知恵とスキルがある人がいると知っていたのです。異部門なのに、いつもかわいがってくださる先輩から、ある日こう言われたらどうでしょう。「トヨタから○○に一番詳しい人を連れてきてくれと言われたので、○○君、一緒に行ってくれるか?」、そして先方の偉い方の前で、「日興證券で一番○○に詳しい○○君をお連れしました」と言われたら、みなさんならどう感じますか?
●社内で一番○○に詳しい人を探して教えを
私も、証券業界の知識はないかわりに、ファイナンシャルプランニングやITの知識があったこともあり、何度もおごっていただきました。そして、私にとってのお客様=全国の支店長や課長の前で、やはり過分な紹介をいただいたのです。「笠さんのためなら、がんばって一番良い仕事をしなくては」と思わないはずがありません。
これは、もちろん年下のみなさんでも応用できる方法です。社内で一番○○に詳しい人を探し出して、ランチをご一緒させてもらってください。懸命に教えをいただき、自分のやりたい事業について熱く語れば、きっとかわいがってくださるはずです。一緒に飲みに誘ってくださるかもしれません。そして、ここぞという時に言うのです。「私が今挑戦していることで壁にぶつかってしまいました。社内で一番○○に詳しい○○先輩のお知恵とお力をぜひお借りしたいのです。」
きっと「かわいいやっちゃ」と大きな力を貸してくださることでしょう。
ご恩返しは、自分が成長して、いつか大きな実績をあげることです。その時、心からのお礼を伝えましょう。いつか自分が教わったことを後輩たちに引き継ぎましょう。
A.「Know HOW」よりも「Know WHO」が成功のカギ
→A.「Know HOW」よりも「Know WHO」が成功のカギ
起業家は、自分の力だけで解決できることなどないことを知っています。そして、取り組む事業が新しければ新しいほど、困難であればあるほど、自分よりも知恵も実力もある人の力を結集できるかが「成功のカギ」であると心得ています。
しかし、多くの人は、困ったときに人の力を借りることをためらいます。
「こんなこともできないのかと笑われそう」というちっぽけなプライド、「自分の仕事は自分でやれと怒られそう」という恐怖心、「優秀な人は忙しくて手伝ってくれっこない」という決めつけやあきらめなどが、邪魔をするのでしょう。
結局のところ、頼みやすい同僚や部下にお願いするか、下請け業者に丸投げしてしまうなど、安易でストレスのない方法に走るかもしれません。
●「自分のスキル」より「優秀な人材」を見つける
私が日興證券時代に仕えた上司、笠榮一さん(故人)は、営業の天才としてお客様を魅了するだけではなく、社内のスペシャリストをまきこむ天才でもありました。
笠さんは、高校を卒業後に日興證券に入社され、まずは、個人向け営業として頭角を現します。そして、トヨタの法人担当となって信頼を勝ち得て、空前の営業成績をあげられました。驚くことに、晩年は、当時トヨタの財務担当だった方に請われて、新設されたトヨタの関連会社の顧問にまでなるのです。
高校卒業のキャリアしかなかった笠さんが、トヨタ銀行と称される金融強者を相手に信頼を勝ち得ることができた秘密は、お客様個人の心をつかめただけではありませんでした。社内外の達人を巻き込んで、積極的に協力してもらえたからなのです。
まず、笠さんは、お客様の真のニーズを感じ取る力に長けていました。同時に、自分自身に解決するスキル(Know How)がない場合が多いこともわかっていました。そのかわり、お客様の問題を解決するのに、もっともふさわしい優秀な人材が誰か(Know Who)を調べて、知り尽くしていたのです。そして、笠さんに請われると、スペシャリストは、みんな喜んで全力で仕事を手伝ったのです。
それはいったいなぜでしょうか? もちろん、それが仕事ですし、トヨタが会社にとって大切なお客様だったこともあるでしょう。しかし、それだけではなかったのです。
笠さんは、社外のお客様には、会社の経費で接待をしましたが、社内の優秀な若者たちには、自腹でおごって接待!をしていました。笠さんは、社内での地位と、実際のプロのスキルとが連動していないと理解していました。株の売り買いだけだった時代から、高度な数学=金融工学を必要とする時代に変わっていたので、むしろ若いスタッフの中に知恵とスキルがある人がいると知っていたのです。異部門なのに、いつもかわいがってくださる先輩から、ある日こう言われたらどうでしょう。「トヨタから○○に一番詳しい人を連れてきてくれと言われたので、○○君、一緒に行ってくれるか?」、そして先方の偉い方の前で、「日興證券で一番○○に詳しい○○君をお連れしました」と言われたら、みなさんならどう感じますか?
●社内で一番○○に詳しい人を探して教えを
私も、証券業界の知識はないかわりに、ファイナンシャルプランニングやITの知識があったこともあり、何度もおごっていただきました。そして、私にとってのお客様=全国の支店長や課長の前で、やはり過分な紹介をいただいたのです。「笠さんのためなら、がんばって一番良い仕事をしなくては」と思わないはずがありません。
これは、もちろん年下のみなさんでも応用できる方法です。社内で一番○○に詳しい人を探し出して、ランチをご一緒させてもらってください。懸命に教えをいただき、自分のやりたい事業について熱く語れば、きっとかわいがってくださるはずです。一緒に飲みに誘ってくださるかもしれません。そして、ここぞという時に言うのです。「私が今挑戦していることで壁にぶつかってしまいました。社内で一番○○に詳しい○○先輩のお知恵とお力をぜひお借りしたいのです。」
きっと「かわいいやっちゃ」と大きな力を貸してくださることでしょう。
ご恩返しは、自分が成長して、いつか大きな実績をあげることです。その時、心からのお礼を伝えましょう。いつか自分が教わったことを後輩たちに引き継ぎましょう。
A.「Know HOW」よりも「Know WHO」が成功のカギ
2013年06月04日
【新著連載】Q21. 新しいことをやりたいんです
Q. 新しいことをやりたいんです
→A.危機感のある先進的リーダーに提案しよう
起業家の大好物は、新しいこと=簡単にはクリアできない困難なこと=スキル向上や師匠とのご縁が期待できること=達成時に大きな喜びが待っていることです。
実は、大きくて伝統的な組織ほど、イノベーションが必要とされているのですが、逆に保守的になって新しいことを排除する風潮が見られます。だからといって諦めてはいけません。保守的な組織の方がトップに危機意識が強い場合が多く、新規事業のために新しい組織を作り、若い人も思い切って登用して打開しようとするからです。もしも、所属している組織では理解が得られなくとも、急増しているNPOなど外部の組織で、新しいことを実現するチャンスに恵まれることもあるのです。
●帝国データバンクのようなNPO版データベースを
例えば、私がライフワークとしている日本最大の公益ネットワーク、日本財団の「CANPAN」が設立された時のことをご紹介しましょう。
日本財団は、競艇の収益金の一部を、国内外の公的な事業の助成に活かす団体です。歴史でも規模でも日本を代表する組織ですが、会長の笹川陽平さんは、時代の潮流に合わせて「民が民を助ける新しい仕組み」が必要だと考えていました。政治家や役人に頼らず、心ある人が社会起業家となって公的な事業を興す。心ある企業や個人が、それを物心両面で支えていく。そんな新しい社会を構想していたのです。そんな矢先、インターネットが出現して、その流れを加速するのではないかと直観されたのです。
この戦略的な新規事業を、当時財団の企画部長だった寺内昇さんが任されました。寺内さんとは、ソフト化経済センターのイベントで出会い、私の講演やネットでの発言や、メール道などの著作に注目してくださいました。そして、構想中のNPO向けデータベースやブログサービスについて助言を求められたのです。
寺内さんの熱いご説明で、私は、すぐにこの事業の将来性や社会性を理解することができました。幸か不幸か、私は日本財団の職員でもNPO関係者でもなかったので、利害関係や先入観にとらわれない客観的な視点で、あるべき姿を提案いたしました。
例えば、NPOの中には、立派な活動をしている団体もあれば、形骸化した団体もあります。さらには反社会勢力と繋がっている団体さえあります。ですから、個人も法人も、どこを信頼して応援していいかわからないのです。そこで、企業の信用情報を簡単にネットで調べられる「帝国データバンク」のような仕組みが必要だと提案しました。
●先進的なリーダーは新しい提案に耳を傾けてくれる
また、NPO向けのブログでは、これまでの無料ブログサービスの常識を覆して、
1)実名を公開すること
2)知的所有権は発信元の団体と個人に帰属すること
3)収入を得るためのアフィリエイトリンクも自由にすること
4)日本財団など公共広告以外は入れないこと
5)寄付金や会費集めにも使えること
などを提言しました。
驚くことに、私の提案の多くは採用されました。笹川会長も寺内部長も、部外者の若造=私の意見に耳を傾けてくれたのです。さらに、この新ネットワークを運営するNPO法人CANPANセンターの理事にまで、私を抜擢してくださいました。こうして、私は、日本で初めての公的ネットワークの設立に参画することができたのです。
それだけではありません。笹川会長は、拙著『ブログ道』も読んでくださり、自らブログを開設しました。NPOのリーダーが、現場でどんな活動をどんな想いで続けているか、自ら率先垂範で発信したのです。たとえ炎上しようとも、決して軸をぶらさず、時には赤裸々に、時にはユーモアを交えて、毎日ブログを書き続けたのです。
それをお手本に、全国のNPOの先進的なリーダーたちも、現場の生き生きとした情報を発信し始めました。そして、大きな支援を集める成功事例も。次々に生まれました。例えば、第一回のCANPANブログ大賞を受賞したチャイルドケモハウスは、「夢の病院を作ろう」とCANPANを通じて呼びかけ、ついに夢を実現させました。
「新しい酒は新しい革袋に入れよ」という諺の通り、改革を新しい組織や人財で行なおうとしているリーダーは必ずいます。この激動期には、自分が属する組織でも、ご縁のある身近な組織にも、新しいリーダーの出現が求められています。そんな潮流に乗って、新しいリーダーに新しい提案をして、若い知恵と力を存分に発揮しましょう。
A.危機感のある先進的リーダーに提案しよう
→A.危機感のある先進的リーダーに提案しよう
起業家の大好物は、新しいこと=簡単にはクリアできない困難なこと=スキル向上や師匠とのご縁が期待できること=達成時に大きな喜びが待っていることです。
実は、大きくて伝統的な組織ほど、イノベーションが必要とされているのですが、逆に保守的になって新しいことを排除する風潮が見られます。だからといって諦めてはいけません。保守的な組織の方がトップに危機意識が強い場合が多く、新規事業のために新しい組織を作り、若い人も思い切って登用して打開しようとするからです。もしも、所属している組織では理解が得られなくとも、急増しているNPOなど外部の組織で、新しいことを実現するチャンスに恵まれることもあるのです。
●帝国データバンクのようなNPO版データベースを
例えば、私がライフワークとしている日本最大の公益ネットワーク、日本財団の「CANPAN」が設立された時のことをご紹介しましょう。
日本財団は、競艇の収益金の一部を、国内外の公的な事業の助成に活かす団体です。歴史でも規模でも日本を代表する組織ですが、会長の笹川陽平さんは、時代の潮流に合わせて「民が民を助ける新しい仕組み」が必要だと考えていました。政治家や役人に頼らず、心ある人が社会起業家となって公的な事業を興す。心ある企業や個人が、それを物心両面で支えていく。そんな新しい社会を構想していたのです。そんな矢先、インターネットが出現して、その流れを加速するのではないかと直観されたのです。
この戦略的な新規事業を、当時財団の企画部長だった寺内昇さんが任されました。寺内さんとは、ソフト化経済センターのイベントで出会い、私の講演やネットでの発言や、メール道などの著作に注目してくださいました。そして、構想中のNPO向けデータベースやブログサービスについて助言を求められたのです。
寺内さんの熱いご説明で、私は、すぐにこの事業の将来性や社会性を理解することができました。幸か不幸か、私は日本財団の職員でもNPO関係者でもなかったので、利害関係や先入観にとらわれない客観的な視点で、あるべき姿を提案いたしました。
例えば、NPOの中には、立派な活動をしている団体もあれば、形骸化した団体もあります。さらには反社会勢力と繋がっている団体さえあります。ですから、個人も法人も、どこを信頼して応援していいかわからないのです。そこで、企業の信用情報を簡単にネットで調べられる「帝国データバンク」のような仕組みが必要だと提案しました。
●先進的なリーダーは新しい提案に耳を傾けてくれる
また、NPO向けのブログでは、これまでの無料ブログサービスの常識を覆して、
1)実名を公開すること
2)知的所有権は発信元の団体と個人に帰属すること
3)収入を得るためのアフィリエイトリンクも自由にすること
4)日本財団など公共広告以外は入れないこと
5)寄付金や会費集めにも使えること
などを提言しました。
驚くことに、私の提案の多くは採用されました。笹川会長も寺内部長も、部外者の若造=私の意見に耳を傾けてくれたのです。さらに、この新ネットワークを運営するNPO法人CANPANセンターの理事にまで、私を抜擢してくださいました。こうして、私は、日本で初めての公的ネットワークの設立に参画することができたのです。
それだけではありません。笹川会長は、拙著『ブログ道』も読んでくださり、自らブログを開設しました。NPOのリーダーが、現場でどんな活動をどんな想いで続けているか、自ら率先垂範で発信したのです。たとえ炎上しようとも、決して軸をぶらさず、時には赤裸々に、時にはユーモアを交えて、毎日ブログを書き続けたのです。
それをお手本に、全国のNPOの先進的なリーダーたちも、現場の生き生きとした情報を発信し始めました。そして、大きな支援を集める成功事例も。次々に生まれました。例えば、第一回のCANPANブログ大賞を受賞したチャイルドケモハウスは、「夢の病院を作ろう」とCANPANを通じて呼びかけ、ついに夢を実現させました。
「新しい酒は新しい革袋に入れよ」という諺の通り、改革を新しい組織や人財で行なおうとしているリーダーは必ずいます。この激動期には、自分が属する組織でも、ご縁のある身近な組織にも、新しいリーダーの出現が求められています。そんな潮流に乗って、新しいリーダーに新しい提案をして、若い知恵と力を存分に発揮しましょう。
A.危機感のある先進的リーダーに提案しよう
2013年06月03日
本のタイトル決定のお知らせ!
こんにちは! 編集担当の前川です。
久米先生の新刊のタイトルは、
『言いわけばかりで動けない君に贈る33のエール』
に決定しました。
実は先週の明治大学の講義で、貴重なお時間をいただき、
学生さんに意見を聞かせてもらいました!
またメール、ネット上でアイディアをくださったみなさん、
ありがとうございます!!
どれもすばらしい視点で私がとても勉強になりました!
そのなかでも、近藤有起さんの、
『「言い訳ばっか、逃げてばっかの自分とはおさらばしたい!』
というタイトル案に着想を得て、こちらのタイトルに決定しました。
この7月に発売の予定ですので、
みなさまご支援のほどよろしくお願いいたします。
ここからどんな風に本が出来上がっていくか楽しみにしていてくださいね!!
久米先生の新刊のタイトルは、
『言いわけばかりで動けない君に贈る33のエール』
に決定しました。
実は先週の明治大学の講義で、貴重なお時間をいただき、
学生さんに意見を聞かせてもらいました!
またメール、ネット上でアイディアをくださったみなさん、
ありがとうございます!!
どれもすばらしい視点で私がとても勉強になりました!
そのなかでも、近藤有起さんの、
『「言い訳ばっか、逃げてばっかの自分とはおさらばしたい!』
というタイトル案に着想を得て、こちらのタイトルに決定しました。
この7月に発売の予定ですので、
みなさまご支援のほどよろしくお願いいたします。
ここからどんな風に本が出来上がっていくか楽しみにしていてくださいね!!