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vol.39 伊藤 美代子さん (前編) [2015年09月10日(Thu)]
昭和60年代、中国・四国地方で女性初の公立中学校長に就任された伊藤美代子先生にお話を伺いました。

「子どもは体ごと自然の中で、そして仲間の中で育っていく」

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〜プロフィール〜
山口市立二島中学校長を最後に定年退職された後、山口県ふれあいテレホン相談員、山口市教育委員、山口県子ども人権専門委員会委員長などを歴任。
現在は、「大人も子どもも育つ」をモットーに、仁保幼稚園サポーターズとして絵本の読み聞かせや、仁保地域の中学校の生徒の健全育成、地域全体で子どもたちを育むコミュニティスクール委員もしておられます。

*40年間の教壇生活について教えてください。

昭和22年に新制中学校ができました。戦争が終わって学校の在り方を模索していた頃です。私は2年目の昭和23年、師範学校を出て教師になりました。先生が足りない時代で、教え子とは5歳しか違わず、一つ上の学級と一緒に卒業式もしました。女らしく装ったことなど稀な、チョークの粉がお化粧代わりの40年間の教壇生活でした。

勤務先は、すべて中学校。最初の赴任先には、家から通える範囲の仁保中学校に希望を出したら叶いました。理想的な音楽教育を思い描いていましたが、社会科と女子体育を受け持つことになりました。しかし保有する免許は、数学と音楽。それから毎日たくさんの本をバッグに入れ、学校と家を往復し、深夜まで勉強する日々でした。

幸い、私は生徒、親、同僚、そして地域の人々に恵まれました。山口市に27年勤務した後、柚野をはじめ、串、川上、二島と、下宿生活も味わい、それぞれの地域の暮らしむきにも触れさせてもらったし、数えきれない多くの懐かしい人に支えられました。特に管理職時代は老人クラブのお年寄りなど、幅広い交流から学ぶことが多かったです。

*勤務された中学校について教えてください。

当時の仁保中学校は、小学校の一角にあり、教室、机、椅子すべて不足し、音楽室は旧作業場の土間にありピアノもありませんでした。初めて出会った生徒は様々で、予科練帰りもあり野性的。学校の周辺は小高い丘で、引き揚げた人たちの開拓地となっていて、昭和天皇もこの地に励ましに来られました。

次に大内中学校、そして大殿中学校、さらに宮野中学校、その後に僻地にうつり、当時の佐波郡徳地の柚野中学校までが教諭として、続いて同じ佐波郡の串中学校では教頭として勤務しました。その後、阿武郡の川上村の川上中学校で、初めて校長として勤務しました。

川上中学校では、冬の三瓶山(島根県)で合宿もしました。生徒たちが手に持ったキャンドルの光がゆらめく天井の下で、迎えた三学期の始業式は幻想的で、卒業生たちは今でも強く印象づけられていると言います。

最後に勤務した二島中学校では、ここが仕上げになると思ったので相当力を入れて頑張りました。生徒一人一人が主役ととらえ、また生徒たちの主体性を学校経営に活かすよう取り組みました。一緒に文化祭を作ったことも記憶に残っています。

*中国・四国地方初の女性校長就任、苦労が多かったことと思います。
国際婦人年(1975年)に開催された世界会議で、目標達成のための10年にわたる「世界行動計画」が採択されました。女性管理職を作ろうという全国的な動き、女性の地位向上への強い要請、そのような流れを受けて、3年目から徐々に女性校長が誕生しました。

私が中四国地方で初めて女性校長に就任した時には、全国でも女性校長はまだ13人しかおらず、中四国ではその後2年間は私一人でした。近隣県は「負けた」という思いだったのか、その後に女性校長が増えました。全国の校長先生の集まりでは、どこを見ても男性ばかり。会合をする施設の男子トイレはすごい行列なのに、女子トイレは並ばずに入れたのは良かったですが、複雑な気持ちでした。

そして、校長に就任した時に、私に関わる人たちみんなが喜んでくれました。教え子たちや友人たち、そして親戚などみんなが「美代子の名前が出ている!」「先生の名前を見ました!」そう言ってとても喜んでくれたことが、私も本当に嬉しかったです。

*全国的に、学校が荒れた時代だったそうですね。

急に日本が経済成長した頃で、中学生のうつ病も多く、どの学校でもいじめや自殺がありました。社会的にも荒れた時代で、何か事件があるとすぐ大きく取り上げられました。あの頃は、朝登校すると窓ガラスが割れていることもあり、掃除しないと危険なので、毎日校長と教頭がごみ取りをしていました。

川上中学校も難しい時期を迎えており、新しい気持ちで女性校長をということもありました。就任前のある日、川上村の教育長と村長に宴席に呼ばれましたが、先方は「こんな小娘で大丈夫か?難しいだろう」との思いからか、最初の一言は「飲めるか?」でした。次に「生徒はもちろん先生たちを把握する力があるか?」と。この宴席が、川上中学校長就任への実質的な面接だったようです。男女平等ではない時代でしたから、どこかに女性の校長をという話が出ていても、なよなよした女性では困ると、器量を見たのでしょう。私の年齢は、当時50代になっていました。

*男性からの嫉妬はありましたか。

セクハラはありました。校長就任後、「ここはいろんな人がいるから、自分の行動に気をつけなさい」と言われたこともあります。飲み会で盃を受けた時に、いきなり不躾な発言をされたこともありました。今まで我慢していたものが破裂した思いで、とっさに盃を相手の顔にぶっかけてしまいました。しかし、宴席は地域との潤滑油の役割もあったのでしょう。飲めて良かったと思います。

そんな環境で、良くやったと自分でも思います。男性には分からない苦労がありましたし、自分がしっかりしないと女性校長があとに続かないというプレッシャーも大きかったです。
当時はそんな時代でしたが、今でも「女がしゃしゃり出て」と聞こえてくることもあります。私が若ければ、頭をゴツンとしてやるところです。今は、10年前に比べても女性校長が格段に増えました。でも小学校と中学校が多くて、高校はまだまだ少ないですね。

*文部省の海外視察はいかがでしたか。

校長に就任した頃、一か月半ほど海外に派遣されました。みな小中高から選抜の先生方で、25人ほどのうち女性は5人程でした。フランス、ドイツ、イタリア、オランダなどヨーロッパに行きました。フランスで、「日本の女性教師は少人数か?」と聞かれ恥ずかしかったのを覚えています。ドイツは、東西分割時なのでとても厳しく、ピストルをもった人が旅人一人一人についていました。国境を渡るとき、バスの下まで確認するほどでしたので緊張しました。東西の違いがとても大きかったのが印象に残っています。後年、ベルリンの壁が崩壊した時、先に行っておいて良かったと思いました。

ドイツ国境に近いアルザス地方コルマール市での四日間も印象深かったです。
ここは、フランスとドイツの間を戦いのたびに領地替えさせられた悲劇の地で、訪問したリセ・カミセの校舎は18世紀の建物がそのまま使われていました。「アルザスの歴史は苦しみの歴史です。それはフランスの悲劇であり、また、我が校の歴史でもあります。それを時代がいかにかわろうと生徒に認識させることが先ず基本。」と仰っていました。
振り返り、日本の我々は形にこだわり過ぎていると反省しました。日本の学校は「一つ、何々、二つ何々・・・」のような学校方針が一般的だったからです。

現在は、予算削減のためでしょうか、このような視察はやっていないようです。教育は目に見えず、すぐに効果が期待できるものではないので勿体ないと思います。

*著書「チョークの口紅」について教えてください。

校長として最後の任務の頃、朝日新聞に連載したものをまとめた本です。二島中学校時代に集大成として出版しました。同じく二島中学校の生徒の保護者が表紙を、水墨画の挿絵は友人が描いてくれました。前書きは宮野中の教え子たち、印刷も教え子、さらに外野席の教え子たちがあれこれ注文をつけて、とうとう写真まで出すハメになりましたが、大勢の方の支えで出来上がりました。心から感謝しています。

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後編につづく



Posted by あっとほーむ at 12:10 | この記事のURL