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「福島の今を知り、愛媛の防災を考える」活動報告A 3.11以降の福島県郡山市について(鈴木夫妻の講演より) [2013年10月11日(Fri)]

〜3.11地震が起きた時どうしていましたか〜

3.11の日、真一さんは平日だったので仕事をしていた。栃木県にあるイスズの工場から高速に乗って福島へ帰る高速道路の上で地震が発生。高速道路上では大きな揺れはあまり感じなかったが、車内で流れるラジオのアナウンサーがあまりにあわてていることで、そのことに気づく。高速道路もよく見ると標識が揺れていて、道も波打っていたり、車が跳ねているようにみえたりもした。
それで、これはただ事ではないと気付く。

その日は小学4年の次女が熱を出していたので、幼稚園から三女を連れて奥さんは家に帰っていた。この時点ですぐ真一さんは奥さんへ携帯電話で連絡を取ろうとしたがもうすでに繋がらなかった。奥さんも何度も携帯電話と固定電話、それからメールで連絡をしたがもうすでに繋がらなかった。
ただ1回だけ携帯電話が繋がり、家族の安否を確認することができた。

青森県八戸市のガソリンスタンド.jpg

その後高速道路で福島に向かっていたが栃木県の那須インターチェンジで高速道路を下ろされてしまう。(那須インターから郡山インターまで約80km。高速道路で走れば約1時間)午後3時に下ろされ、会社に着いたのは午後11時過ぎ。約8時間。この日は偶然、高速道路に乗る前にガソリンを満タンに近いぐらいまで入れていた。もしガソリンがなかったら帰宅することができなかったかもしれない。

帰宅するまでの道路状況もすごいものだった。信号は止まり、交差点は渋滞、ブロックが倒れ、その前でおばさんが頭を抱えて倒れている。その後も何度もすごい揺れがあり、高速道路の電光掲示板に「大地震発生」と出ていた。そしてもうすでにガソリンスタンドにはすごい行列ができていた。

コンビニ、スーパーの棚は倒れ、商品が床に落ちていた。その商品を踏みながら、残っている商品をみんなが買っていく。会社に帰ってもすごい状態だった。そして市内の電気がすべて消えているので、星がとても奇麗だったことが印象的だった。

一方、福島県郡山市で子ども3人と自宅にいた奥さんは、とにかく子どもと共に地震が収まるまでじっと2階の部屋にいた。建てて3年目の一軒家がみしみし音を立てていた。地震が止んで、1階に降りてみると、食器棚が倒れ、ガラスの破片で危ない状態だった。そこへ、真一さんのご両親が様子を見に来てくれたので、子どもを預け、奥さんは食料を買いに街へ行くが、どこのお店も閉まっていた。やっと開いているコンビニを見つけ店に入ったが、レジをぐるっと囲むようにお客さんがおり、ほとんど食材はなくなっていた。とりあえず食べられる物を探して買うことにした。並んでいる時も地震があり、「あ(>_<)!!」といった感じで、店内も殺伐とした感じだった。外に出たら、ガソリンスタンドの列がもうすでにできていた。
その日は冷たいご飯を食べ、毛布をかぶり、ロウソクで過ごした。

福島の写真B.jpg

〜ライフライン(水道・電気・ガス)は大丈夫?〜

郡山市(中通り)は海から遠い(約80km)こともあり、津波の被害は受けなかったが、電気、水道は止まってしまった。しかし普及は早く、その日の夜には電気が復旧し、水道は次の日に復旧した。ガスはプロパンだったので問題はなかった。(ちなみに松山市も伊方原発から約80kmのところに位置する)

〜地震後の子どもたちの様子は〜

余震がこれだけ来るのかと思うぐらい毎日地震があった。自然の事だから仕方がないとわかっていても、地震が来る前の地鳴りがくると、また来るのかと思ってしまう。子どもたちはトラウマのようになっていて、地震が来ると脅えて泣いてしまう。真ん中の4年生の子はちょっとした地震でも必ず起きてしまう。


〜原発が爆発した時はどうだったのか?〜

金曜日(3月11日)に地震が起きて、土日お休みして、月曜日(3月14日)市内の会社の中には休業しているところも多かったが、私は会社に普段通り出勤をした。
1回目の爆発の時(3月12日)は、どうしたらいいのか良く分からなかった。2回目の爆発(3月14日夜11時ごろ)をテレビの報道で知って、これはまずいと思った!それで妻を起こし、妻の実家がある横浜に避難することにした。しかし、ガソリンスタンドは相変わらず並んでいるし、高速道路は通行止め!どうしたらいいか?悩んだが、翌日なんとかガソリンも満タンにすることができたので、栃木の那須塩原まで車で行き、そこからは新幹線に乗ることにした。新幹線も止まっているかもしれないという情報があったり、途中でガソリンがなくなってしまう心配もあり、自分たちとしてはどこに逃げることが良いのか究極の選択だった。娘たちは福島に残してきた祖父祖母が死んでしまうのではないかと心配しながら乗っていた。
そしてようやく横浜に着くと、誰もマスクを付けていないことに驚いた。福島では放射能から身を守るために、みんなマスクを着けていたが、横浜ではだれも付けていなかった。

報告書13.jpg


〜情報源は〜

地震が起きた当時から、一番の情報源はラジオ(FM福島,ラジオ福島)だった。テレビも情報を流していたが、一番ラジオを必死で聞いていた。天気予報もとても気になるので毎日聞いていた。福島の天気予報では今でも今日の天気と線量を伝えてくれている。
それから地震直後は、やっぱり携帯電話はつながりにくい。固定電話がいいが、一番繋がるのは公衆電話。テレカを常備していると、いざという時安心。
後から聞いた話だと、通行止めだった高速道路も避難すると言えば乗せてもらえたらしい。しかしその情報が当時はなかった。情報が本当に足りなかったと思う。それとも情報がたくさんの人に流れるとパニックになるから流さなかったのかもしれないが。

〜行政の支援は?〜

なかった。最初に連絡をくれたのは地震保険に入っていた保険屋さんだった。なので家の修理とかは助かった。
行政の支援は郡山の場合は全くなかったんじゃないかと思う。地震が起きてすぐ郡山の市長が逃げてしまったことも原因かもしれない。陣頭指揮を執るはずの市長が不在というのは良くなかったように思う。それから水道が完全にストップしているところとかは支援が入っていたが、ライフラインに異常なかったから支援がなかったのかもしれない。

〜除染は〜

幼稚園や小学校の除染は保護者が頑張っていた。市が除染に来たのは今年(平成25年)に入ってから。2年近く全く来ていない。おそらく、原発から近い場所から除染しているので郡山に来るのが2年かかったのではないかと思う。

〜必要だったものは?もしあったら良かったものは?〜

とりあえず家にあるお金で必要なものを買った。銀行も閉まっていてお金が下せなかった。確かしばらくは閉まっていたように思う。とにかく1番は食料。スーパーには本当に物がなかった。スーパーが空いてない。それからガソリン。だれもが眼の色変えてスタンドで並んでいる。1時間以上待って毎回給油していた。それからすぐ食べられるものがほしかった。加熱せずにすぐ食べられるものがほしかった。

〜郡山の線量が高いわけ(ホットスポット)〜

 郡山は福島第1原発から80kmも離れているが、ホットスポットになっているので線量が高かった。原因としては15日朝に北風だったのが、日中、東風から南東風に変わって、風で阿武隈高地を越えた放射性物質を含む空気は阿武隈高地と奥羽山脈の間に挟まれた郡山の「中通り」にたまるような形になり、その後雨が降って、放射能物質が降下して地面に沈着したためと考えられる。

〜福島郡山の並木幼稚園の子どもたちの様子は?〜

現在は、年小から年長まで毎日日替わりで1週間に20分だけ外遊びをしている。除染もしているが基準が分からなくて不安なので外で遊ばすことができない。外で遊ばすことに関して親にアンケートを取っているが、外で遊ばせたいという親が多いので、1週間に20分にした。今年の夏のプールは玄関の靴箱の前にビニールプールを置いて行った。これも親へのアンケートによって決めている。屋上にプールがあるが今は利用していない。外遊びに対する考え方は人によって違う。全く気にせずに子どもを外で遊ばせている人もいるし、外遊びをさせることに不安を感じている人も多い。
 公園にも線量計が置いてあって、いつもそれを見て、遊ばせるか決めているが、やはり心配なので、できれば外で遊ばせたくはない。

〜郡山にある室内広場ペップキッズはどんなところ〜

いつもたくさんの子どもたちが遊んでいる。広さは教室10個分ぐらいで、砂場もある。ヨークベニマルというスーパーが店を改装して子ども達の為にと作ってくれたもので、室内で岩登りができたり、端から端まで全速力で走れるコース、ぴょんぴょん飛び跳ねることのできるトランポリン、ボールのプールなどもある。

〜地震の前に防災訓練はあったのか?〜
普通の学校でやる防災訓練しかなかった。海側の住民は津波が心配で訓練をしていたかもしれないが、郡山ではそこまでの危機感はなかったと思う。

全体報告書7sono2.jpg

★9月22日の活動内容は下記3部でまとめています。
1.「福島の今を知り、愛媛の防災を考える」
  講演会&パネルディスカッション開催しました!活動報告@ 

2.「福島の今を知り、愛媛の防災を考える」活動報告A
  3.11以降の福島県郡山市について(鈴木夫妻の講演より)

3.「福島の今を知り、愛媛の防災を考える」活動報告B
  福島県川内町からの避難者の話から見えてくること 



Posted by 山本良子 at 20:29
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