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静岡県で冒険遊び場をやっている「NPO法人ゆめ・まち・ねっと」 のたっちゃんのメルマガから [2013年04月25日(Thu)]


いつだったか忘れたんですが、静岡で冒険遊び場を開催している「NPO法人ゆめ・まち・ねっと」の渡部達也さん(たっちゃん)がだしているメルマガに遊びに関する良い記事があったので添付します。

                                
児童精神科医・佐々木正美先生の講演会のお話しより・・・

『子どもと遊び』ー倫理、道徳、社会性の育ちのためにー

 幼少期から小学校くらいにかけて、子どもは子どもらしく遊ばなければなりません。
私たち大人は、このことを漠然とは知っているつもりですが、本当はよく知らないのです。
 ソヴィエト時代の高名な心理学者で、ヴィゴツキィという人がいました。
 子どもの遊びに注目して、「子どもはなぜ遊ぶのか」という主題のもとに、多様な子どもの遊びを観察して、研究に没頭しました。

 ところがやがて彼は、「子どもはなぜ遊ばなければならないか」という考えに変わりました。
 どの年齢の子どもも、友達と遊ぶときには、必ずルールや約束事をつくることに気がつきます。
 暗黙の了解ごとのようなものもありますが、スポーツをするときのように厳密な規則もあります。
 子どもの遊びを入念に観察してヴィゴツキィは、子どもが遊ぶ時にはルールをつくり、
ルールを守ることができる者だけが参加の資格があることを知ります。
 勿論まだ幼くて、ルールが守れないような弟や妹を連れて仲間遊びするときには、
みんなで○○ちゃんと××ちゃんは「おみそ」だと言って、その子たちには例外の規定を
作ってやります。
 しかし遊びの参加は、まずルールを守ることから始まり、ついで仲間の承認を受けながら
役割を分担し合います。
 電車ごっこをするときには、誰が運転手、車掌、乗客、駅員などの役割を分かち合います。
 野球をするときでも、投手、捕手、内野手、外野手、打順などの役割です。
 役割にはそれぞれの義務や責任が伴います。
 最善を尽くさなければなりません。
 上手くいけば仲間と喜びを分かち合い、失敗があれば仲間に慰められて、気の合った友達同士の遊びは感動を分かち合いながら進行するものです。
 子どもは遊びの中でこそ、早くから最善を尽くし合うことを身につけるのです。
 子どもたちは、単に快楽のために遊んでいるのではなく、互いに努力をしながら感動を分かち合うことに没頭しているのです。
 いつも仲間を失望させないように気づかいをしながら、自分も相手からそうされていることを実感して、少しでも仲間からよい役割が与えられるように、誰からも強制されることがないのに努力を継続するのです。
 子どもが仲間と楽しみ合う草野球は、口うるさい監督やコーチのいるスポーツとは似て非なるものです。
 子どもの遊びの意味を精魂込めて研究したヴィゴツキィは結論づけました。
 子どもたちは仲間とこのような遊びを十分にすることなしに、規則を守ったり、他者と共感し合うような感情や人格を発達させることはできないのではないか。
 人間が倫理性や道徳性をもった社会的人格を発達させるために、子ども時代の友達との遊びは不可欠なものではないかと言うものでした。

                                   

『遊びを通じて学びあう』ー社会で勤勉に生きていくためにー

 人間が青年期以降、社会的に勤勉な生き方をするために、小学校時代の過ごし方が大きな意味を持つことを、丁寧に解き明かして教えてくれた精神分析家がいます。
 アイデンティティやモラトリアムといった言葉や概念で有名なE.エリクソンです。
 彼は人間の健康で幸福なライフサイクルのあり方を研究して、小学校時代の数年間の生き方が、将来勤勉に生きていくかどうかという人間性の基盤を、子どもの人格の中に感受性豊かに育てるということを指摘しました。
 小学校時代の子どもは、同世代の仲間と、その時代・その社会の道具や知識や体験を、相互に共有し合わなければならないことを強調しました。
 互いに分かち合わなければならないものは、時代により、またそれぞれが住む社会の文化によって多様ですが、その時代その文化のなかで、成人になった時、勤勉に生きていくためには、それが大切なのです。
 同時代の友達と、道具・知識・日々の経験を分かち合いながら生きるということは、どういうことでしょうか。
 そういう生き方を最も充実して体験するということは、友達と思いっきり遊ぶということです。
 体力の限りを費やして、知識のありったけを交換し合って、仲間と時間を過ごし合うということは、遊び以外にはないでしょう。
 だから、子ども時代に友達と充実した遊びを十分に経験し合った人は、大人に成長した時、みんな勤勉に働くことができるのだというのです。
 子どもは仲間との遊びに熱中している時、友達から何かを学ぶことが自然に旺盛できるのです。
 自分が知っている何かを、知らない友達がいれば、自然に意欲的に教えることができるのです。
 教えることも、教えられることも、大きな喜びなのです。
 優越感も劣等感もなく、感動を自然に分かち合えるのです。
 だから自分の知らないことを知っている友達に出会うことが喜びなのです。
 自分にできることをできないでいる仲間がいると、教えてできるようにしてやることが、自分の喜びなのです。
 こういうことを自然に豊かにできることが、将来社会的に勤勉に生きていくためには、不可欠といえるほど大切な感性であり人格なのです。
 私たちは小学校時代の子どもに、このような体験を十分にさせてやる社会を、できるだけ早く取り戻してやるための努力をしなければ、取り返しのつかない不毛な人間社会の時代を迎えてしまうことになると思います。

                                    

「子どもの遊び」の重要性はまだまだ奥深いものがあるような気がする。言葉で表現できることなんて、もしかしたらほんの少しなのかもしれない。でも、今の社会はそれを伝えないと、違う思想がどんどんはびこっていくような気がする。利益至上主義の世の中で、子どもの育ちだけはせめて巻き込まないでほしいと常に願ってやまない。(よっしー)


Posted by 山本良子 at 20:59
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