昨年の暮れに,国立療養所多磨全生園(東京都東村山市)敷地内で行われている発掘調査を見学してきました.この調査は,
国立ハンセン病資料館が主体となり,
多磨全生園の前身の全生病院(ハンセン病療養所)の「患者地区」と「職員地区」とを隔てた堀と土塁(堀の内側に設置)の実態を探るために,11月から実施されたものです.
堀は埋め戻され,土塁も一部が残るのみで,公的な記録が一切なく,関係者の証言や古い写真の一部に状況が見られるのみであることも発掘調査を実施した理由のひとつとのこととです.
調査地区近景(2016年12月)
また,この調査に先立ち2013年には国立療養所栗生楽泉園(群馬県草津町)の「特別病室」(重監房)跡地で,やはり「記録」のない「特別病室」の復元に際して,発掘調査を行ない成果を得ることができたこも今回の調査実施に影響があったとのことです.
(この調査については,第82回(2016年度)日本考古学協会総会で研究発表され,報告書は国立ハンセン病資料館で作成中です.)
今回の調査についての最近の報告では,
約200m2の調査地区から幅約4m,深さ約2mの断面逆台形の堀が20mにわたって検出され,詳細不明であった堀の内容が明らかになりました.
見学時には,堀の一部が掘られているのみでしたが,その規模についてはわかる状況でした.
担当者も言っていましたが,
まるで中世の城郭に匹敵する規模のものです.
検出された堀(2016年12月)全生病院は,1909(明治42)年に設立されますが,設立をめぐっては地元からの反対運動があり,誘致したした村長(当時・東村山村)らが襲撃される事件が起こるなど,
ハンセン病にたいする偏見や嫌悪感は相当なもので,患者の逃亡のみならず外部からの襲撃に備えるためにつくられたものが今回検出された堀です.
今回の調査は,記録が残せる時代に記録にない・残っていない・残さなかった歴史を可視化したという点に意義があると思います.言い換えれば,記録に残さない負の遺産を残こさなかった理由とともにその実態を明らかにしたと言うことです.
そして,
その方法として考古学が採用され,明らかにできた点も評価できることと思います.
考古学というと,とかく古い時代の人びとの生活を明らかにする学問と思われがちですが,
今回の例のように,まだ関係者がいる現代においても有効な学問なのです.
記録というものは,すべてが残されているものではありません.
当事者に不都合なものは,意識的に残されません.
今回の事例はその一例ですし,戦争関係の当時トップシークレットだったもの・ことも同様です.
それを明らかにできる(可視化)できるのは,モノ(実物資料)であり,それを研究する考古学(だけ)なのです.
その点において,成果もですが,
今回の国立ハンセン病資料館の調査は,考古学の可能性を示唆したものと言えると思います.
ただし
今回の調査は,行政的周知がなされている遺跡(周知の埋蔵文化財包蔵地)ではありませんので,文化財保護法に則った調査ではないとのことです.
例の文化庁平成10年通知(
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19980929001/t19980929001.html)による近世以後の遺跡軽視(無視)の弊害と言えます.
(この点に関しては,近世以降の水中文化遺産の取り巻く状況と同じです)
ちなみに今回の調査では,療養所関連以外の遺構・遺物は検出されていません.
行政的周知はなされていませんが,遺跡自体はハンセン病患者にたいする差別・隔離の歴史をしめす貴重な近代遺跡であることには変わりません.この遺跡の見学会が明日(7日)に行われます.
詳細については,国立ハンセン病資料館のホームページでご確認ください.
http://www.hansen-dis.jp/