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犬山城 (01/22)
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富士山 [2008年12月10日(Wed)]
先日、朝、職場へ向かう途中で富士山を見ました
非常に澄みきった晴天だったこともあり、今シーズンではもっともきれいな姿でした



富士山は、昔から歌に詠まれたり、紀行文に書かれたり、信仰の対象になったり、また、各地に「〜富士」と呼ばれる山があったりと、日本人にとっては特別な山として意識されてきた歴史があります
今でも、新幹線や飛行機に乗って富士山が見えると、多くの人が窓に釘付けになりますね。

ただし、私は、子どものころから富士山が見えるところに住んでいたので、富士山を見ることを特別なこととは思っていませんでした。
ところが、学生時代に関西からやってきた友人が、富士山が見えたことを興奮して話してくれたことで、初めて富士山が特別な山なのだということを意識しました
関西からは見えないんですよね。

縄文時代の人びとは、伊豆諸島と交易のために、行き来をしていました。
弥生時代や古墳時代の人びとは、西から東を目指して移動をしています。
これらの人びとは、移動の途中、海上から富士山を見ていたことでしょう。
そして、段々と大きく見えてくる富士山をどのように見たのでしょうか
「タモリ倶楽部」 [2008年07月29日(Tue)]
「タモリ倶楽部」をご存知でしょうか?
私の住んでいる地域ではテレビ朝日で金曜の深夜に放映されている30分のテレビ番組です。

内容は、毎回,マニアックなテーマが設定され,それにたいしてタレントのタモリが数人のゲスト(内容によりますが、専門家がひとりはいることが多い)とともに、おもしろおかしく、うんちくを並べながら語ってゆく番組です。
30年近く続いている長寿番組です.
私ももう何年も観続けています。
とにかく、面白いです。
それと、タモリの博学さには、毎回驚かされます。

先日、「江戸の海岸物語」というテーマで,品川(東京都)の旧東海道を歩いていました。
今でこそ、埋立てなどで海(海岸)からは遠くなってしまいましたが,旧東海道は海岸線を走っていたということを紹介していました。
実際に、旧東海道沿いには、湊跡(品川湊)宅地と海岸を区切る土留め(石積み)跡海風を考慮した背の低い二階屋(浜造り)、さらには江戸時代に東京湾にクジラが入ってきたことを物語る鯨塚など、海岸線の名残(遺構)が数多く残っていました

海から遠く離れてしまった場所にも、海に関する遺構があるということがよくわかりました。
現在の地形にだまされてはいけませんね。

今では,海岸線を感じることはできませんが、それを証明する名残(遺構)は残っているのです。
同じように埋立てなどで、海から遠くなってしまった場所は、ほかにも多くあるでしょう。
そのようなところには、番組で紹介したような遺構が残っているかもしれません。
普段、何気に通り過ごしている場所も、こんなことを感じながら、道歩きをするのも面白いかもしれません。

最後に「タモリ倶楽部」のなかで、「空耳アワー」というショートコーナーが私は好きです。
わかる人には、わかりますね。
潜水士試験 [2008年06月25日(Wed)]
先日放映された毎日放送系の「情熱大陸」で、潜水士の方のことをとりあげていました。
観られた方もいることと思います。

番組を観て、その仕事の大変さ、というものをあらためて認識しました。

なお、番組のなかで,水中でパワーショベルを動かしているシーンがあり、それが陸上のものとまったく同じもので、陸上と同じように稼働していたことには驚きました。
初めて見ましたので。

その潜水士ですが、一般には潜水作業に従事する労働者のことを言います。
以前に紹介したように、水中での遺跡発掘調査に携わるにも必要な資格です。
この潜水士として働くには、労働安全衛生法による潜水士免許が必要で、国家試験に合格すれば、資格は取れます。

試験は,北海道・東北・関東・中部・近畿・中国・九州の安全衛生技術センターで、年4回(1・4・7・10月)おこなわれます。
受験に際しての年齢・学歴・資格・経験等の制限はないので、誰でも受験できます(ただし、免許の交付は18歳以上からです)。

試験は筆記のみで、実技はありません
ただし、潜水業務/送気・潜降及び浮上/高気圧障害/関係法則を内容とするかなり専門的な内容です。

勉強のためのテキストや問題集は、出版されているので、書店あるいはAmazonで注文できます。
また、講習(有料)もあります。

試験の詳細は、財団法人安全衛生技術試験協会のH.P.で確認できますので、興味がある方は、参照してください。
なお、H.P.上には直近の試験問題も公開されています。

ちなみみに、7月は8日に試験が予定されており、まだ、申し込みを受け付けているようです。
『日本の埋蔵金』 [2008年04月27日(Sun)]
図書館で、『日本の埋蔵金』(畠山清行著・番町書房刊行)という本をみつけ、少し読んでみると、面白い内容だったので借りてきました。

日本の埋蔵金(上)・(下)』(1973年刊行)と『新・日本の埋蔵金』(1979年刊行)の3冊からなるシリーズもののようです。


日本の埋蔵金伝説について著者が資料・聞き取り・現地調査をしたものについて紹介する内容です。
「武田の秘宝」・「天草切支丹の秘宝」・「義経の宝」・「赤城の埋宝」など興味をそそる見出しが並んでいます。

この中に、20余りの日本近海の沈没船に関する記事もあります。
江戸から大正にかけてのもので、幕府御用金や幕末の諸藩の軍資金などの財宝を積んだ沈没船について書かれています。
江差港の開陽丸についても書かれていました。

ただし、陸上以上に場所の特定は、難しいようで、これまでに財宝を引き上げたことはないようです。

広い海のなかで、一隻の船をみつけだすことは容易ではなく、みつけだしたとしても、引上げとなると、陸上以上により多くの費用がかかりますからね。

ちなみに、このシリーズは日本の埋蔵金研究のバイブル的な本だそうです。
魚へんの漢字 [2008年03月14日(Fri)]
今朝の朝日新聞の『天声人語』に近年の食卓における「魚ばなれ」の記事があり、そのなかで魚へんの漢字のことについても触れていました。

魚へんの漢字は、現在150字余りあるそうで、そのうち120余りが魚あるいは水生動物の名前をあらわしているそうです。

お寿司屋さんでだされる大振りの湯呑茶碗に書かれたたくさんの魚へんの漢字をみたことことがあると思います。
皆さんはどのくらい知っている(読める)でしょうか?

この魚の名前を一字であらわす魚へんの漢字の多くは、もともと中国あったものではなく、日本人が作り出した「国字」や「半国字」と言われるものが多いそうです。また、「国字」が中国に輸出され、中国で使われるようになったものもあるそうです。

東海大学社会教育センターの鈴木克美さんによれば、その理由のひとつとして「海から遠い内陸部で発展してきた国」で「海岸を世界の果てだと思ってきた」中国人と、「周囲を海とたくさんの魚に囲まれた島国に住み、海の向こうに希望があると思ってきた」日本人との海に対する意識の差があったのではないかと推測されています(「漢字・国字・ウソ字の魚名魚字」『海のはくぶつかん』2004年7月号)。

縄文時代の貝塚からの出土遺物は、日本人と海、海の生き物との深いかかわりをしめしています。
また、今朝の『天声人語』にも「大正の頃は「一大国民が食料の主要なものを海にあおいでいる例は他にはない」と欧州の地理学者を驚かせた」とあり、少なくとも近年までその関係が変わっていなかったことがわかります。

こんなところからも、日本人と海とのかかわりの深さがわかります。

阪神・淡路大地震から13年 [2008年01月17日(Thu)]
今日はとても寒い一日でした。
午前中には、短い時間でしたが、小雪も舞いました。
初雪です。

今日は、あの甚大な被害をもたらした阪神・淡路大地震が発生した日です。
あの日から、早いもので13年がたちました。

当時は、日本は大地震が起きても「大丈夫だろう」という変な安心感をもっていたこともあり、被害の実情を目の当たりにし、がく然としてしまいました。
とくに、ビルや高速道路が崩壊した光景は、今でも鮮明に覚えています。

日本に住んでいる限り、地震は他人事ではありません。

その後の阪神・淡路大地震の被災地は、多くのひとの尽力により復旧していきましたが、その復旧作業・再開発にともなって多く遺跡の調査もおこなわれました。
あまりにも発掘件数が多かったこともあり、調査には現地の担当者とともに全国から派遣された多数の埋蔵文化財の担当者が携わっていました。
埴輪の船 [2007年12月07日(Fri)]
古来からモノが海を経由して伝わってきたことは、これまでにも紹介してきました。
しかし、その輸送手段としての船(舟)のようすがよくわかっていないこともたびたび紹介しました。

ほとんど現物が残っていない、出土していないということが大きな理由のひとつです。

ただし、当時のひとびとは、ヒントを残してくれています。
模型としてです。

模型のひとつとして、埴輪があります。
埴輪は、古墳を飾る素焼きの土製品で、筒の形をした円筒埴輪とさまざまなものの形をあらわした形象埴輪とにわけることができます。
この形象埴輪のなかに、船をあらわした船(舟)形埴輪があります。

これまでにも船形埴輪をモデルとして実際に当時の船を復元した例があります。

昨年、熊本県宇土市宇土マリーナから大阪府大阪市の大阪南港までの約850kmを航海した実験船「海王」も宮崎県西都原古墳群から出土した船形埴輪をモデルにしてつくられました。



埴輪から復元した船は、丸木舟を船底として、前後と両舷を板で継ぎ立てた準構造船として造られています。
準構造船は、弥生時代から室町時代くらいまで、海船として使われたいたようです。
小田原 [2007年09月22日(Sat)]
 小田原は、戦国時代に後北条氏の支配以降、南関東の政治的中心地として発達した城下町です。
 現在でも城下町として有名で、箱根観光の拠点ともなって、多くのひとが訪れています。

 目の前には、相模湾が広がっています

 古くから中国船来航の記録があるのですが、詳細は不明です。

 現在では、早川にある小田原漁港がもっとも大きな港なのですが、この港は戦後につくられた港です。
 小田原の海岸の大半は砂浜です。
 漁村に付随した小さな漁港しかなく、歴史的にみても大型船が入港できるような港はなかったようです
 ですから、大型船は三浦半島先端の三崎港に入り、三崎からは小型船が小田原間を行き来していたともいわれています。

 また、昨年、江戸城の大改修(寛永年間)の際に、石垣用の石材を切り出した丁場が、石垣山で調査されました。
 多量の石材が江戸へ運ばれています。
 切り出された石材は、早川(川の名前です)を下って海へ出され、そこから江戸へ船で運ばれたようですが、江戸への搬送の実態はよくわかっていません。

 港や水運の歴史については、わかっていないことばかりです。
 
 写真は、秀吉が1590(天正18)年の小田原攻めに本陣とした石垣山一夜城跡から見た小田原の市街地です。
 それにしても、一夜城跡からは城下町・小田原がよく見えます。
実朝の巨船 [2007年08月16日(Thu)]
鎌倉幕府の第三代将軍・源実朝が、渡宋のために巨船を造らせたという記録が、『吾妻鏡』にあります。
実朝に渡宋を勧め、巨船建造を指揮したのは、陳和卿(ちんなけい)という南宋の工人でした。
彼は、平安時代の末期に来日し、焼失した東大寺の大仏と大仏殿の再建に尽力しています。
鎌倉に来てからは、実朝の信任を得て、巨船の建造もまかされたようです。

巨船は、1217(健保5)年4月に完成し、由比ヶ浜で進水させましたが、海には浮かばずにそのまま砂浜に遺棄されてしまったとのことです。
和賀江嶋の紹介時にも書きましたが、鎌倉周辺の海は当時から港には不向きな遠浅の海であったようなので、巨船を進水させるのには元々無理があったのでしょう。

このときの巨船は、どのような船であったのでしょうか。
実は、まったくわかっていません。
『吾妻鏡』には、巨船建造・進水の顛末を記したのみで、船についてのデータはまったく残っていないのです。

どのくらいの大きさでどのようなかたちの船だったのでしょう。
碇やその他の装備は、どのようなものだったのでしょう。
興味はつきません。
南宋の工人が建造した渡宋用の船ですので、それなりの船であったのでしょうが。

砂浜に遺棄されたその後もどうなったのでしょうか。不明です。
船体や装備品のその後は.....
陸上の建物等に転用されたのかもしれません。

先日、由比ヶ浜へいってきました。
砂浜には、漫画の「ONE PIECE」に登場する外洋船サニー号がありました。

エボシ岩 [2007年07月19日(Thu)]
茅ヶ崎市の沖合約1.2kmに茅ヶ崎市のシンボルともなっている「エボシ岩」があります。サザンオールスターズの歌でも有名ですね。
何もない海中から突き出た存在で、海岸からもよく見えます。

その形が公家や武士のかぶっていた烏帽子(えぼし)に似ていることから、その名がついたようです。
ただし、「エボシ岩」と呼ばれるようになったのは戦後のことだそうです。もともと目だつ存在ではあったようですが、烏帽子のかたちはしておらず、戦後、米軍による実弾射撃演習の標的にされて、いまのかたちに変形してしまったそうです。

エボシ岩」のまわりには、十数個の大小岩礁があり、それらを総称して姥島(うばじま)と呼ばれています。
この岩礁群は水没部分もふくめると、江ノ島にも匹敵する大きさがあるそうです。
このなかで最大の岩礁が「エボシ岩」で、標高ももっとも高く約14mあります。

周辺は昔から良漁場であったようで、現在も週末にもなると多数の釣り人で賑わうようです。

茅ヶ崎をふくめた現在の湘南砂丘前面の海は、遠浅で大型船が入港することはできません。
おそらく、その状況は古来より大きくは変わってはいないものと思われます。
相模湾には古くから唐船などがやってきたとの記録があります(真偽のほどは定かではありませんが)。しかし、入港できる港につていてはよくわかっていません。
記録はないのですが、とくに柳島港ができる以前(とくに古代や中世)は、姥島(周辺の水深は20〜30m)が遠方からきた大型船が入港する港としての役割を果たしていたとは考えられないでしょうか?
エボシ岩」は、格好の目印にもなると思いますし、大きさや海岸からの距離もいいように思うのですが。

まだ、姥島へは上陸したことはありませんので、一度上陸して姥島を確認してみたいですね。
そして姥島周辺の海中も.....

ちなみに姥島は、数百万年前に海底に堆積した地層が隆起したものだそうです。