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釧路沖で洋式帆船?の錨発見 [2011年09月09日(Fri)]
9月9日付け北海道新聞・朝刊に、
洋式帆船のものと考えられる錨が、
「3年前 釧路沖の海底で発見」
されていたとの記事が掲載されています。

長さ約2.6m,先端の爪幅約1.5m、重さ約200kgの古いタイプの鉄製ストックアンカー
とのことです。
丸木製の「ストック」部分も残っているそうです。

漁師さんがシシャモ漁の網に引っかかったものを引揚げたそうです。

古いタイプのストックアンカーであることは間違えありませんが、
錨だけなので、時期の特定はできていません
周辺海域での洋式帆船の座礁や沈没の記録もないとのことです。

錨については,ストックアンカーをふくめて、
考古学的な研究は、ほとんどなされていません。

今回のプロジェクトで、各地でこの手のストックアンカーや
和船の四爪錨を多く確認しています。
ただし、錨個々の年代については、特定できるものはほとんどありません。

そのためか、この種の錨の多くは、
港の片隅、博物館の庭先、神社の境内などに置かれているなど、
文化財として十分な扱いを受けていません

今回の一連の調査で、このことを痛感しました。
若い会員のなかには、この種の錨に興味をもち、研究をはじめているものもいます。
やっと考古学の俎上に載ったようです。
成果が楽しみです。

なお,新聞記事の錨も引き取り手がなく、港の外に置かれているとのことです。
水浸かり被害を受けた品々の 応急処置方法 [2011年06月02日(Thu)]
文化財保存支援機構のblogに、
https://blog.canpan.info/jcpnpo/
東日本大震災の関連記事として、
大切な思い出の品々を守る 〜水災害後の応急処置〜 と題した
水に浸かってしまった
紙媒体、写真、絵画、布・皮類、金属品やコンピュータ−メディア等の
応急処置方法や処置に際しての注意点が
誰でもできる方法で、わかりやすく紹介されています。

あくまでも応急処置方法の紹介で、
本格的な処置は専門家の対応が必要ですが、
水浸かり被害を受けた品々を
復元させる一次工程として、さまざまな場面で応用できそうです。

興味がある方は、ぜひみてください。
国宝高松塚古墳壁画修理作業室の公開 [2011年04月13日(Wed)]
現在、奈良県明日香村の国営飛鳥歴史公園内にある仮設修理施設で、
壁画・石材の修理作業をおこなっている
国宝高松塚古墳壁画作業室を以下の内容で、一般に公開するそうです。

1.公開日時 5月14日(土)〜22日(日) 9時〜17時
2.公開場所 国宝高松塚古墳壁画仮設修理施設
3.主   催 文化庁・奈良文化財研究所・東京文化財研究所・
         国土交通省国営飛鳥歴史公園事務所・奈良県教育委員会・明日香村

今回は、青龍(東壁)・玄武(北壁)・女子群像(西壁)の描かれた石材とともに、
キトラ古墳の玄武も同時に見ることができるそうです。

なお、見学には事前の申込が必要です。
詳細については、専用のホームページがありますので、そこでご確認ください。
http://takamatsuzuka.com/

豪族の送霊船を描いた円筒埴輪が出土 [2010年05月19日(Wed)]
京都府精華町の鞍岡(くらおか)山3号墳(直径約40メートルの円墳、4世紀末〜5世紀初め)で、
権威の象徴とされる武器「桙(ほこ)」を立てた「送霊船」が描かれた円筒埴輪(えんとうはにわ)が見つかったそうです。
(産経新聞 5月19日付け.
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100519-00000602-san-soci)

武具と船を表現した円筒埴輪は、全国で2例目。被葬者の魂を船によって来世へ運ぶという、古代人の死生観を具体的に示す資料として注目される」資料です。

船は、前後に波よけ板が描かれた準構造船です。

古代の準構造船については、日本ではこれまでに完全な状態での出土はありませんが、
大阪府久宝寺南遺跡、
滋賀県彦根市松原内湖遺跡・近江八幡市出町遺跡・米原町入江内湖遺跡
など船体の一部が出土しており、
今回報道された資料のように、埴輪・木製品や壁画・銅鐸などに描かれた絵にその姿を見ることができます。

これらの出土資料をもとに、復元された準構造船もあります。
兵庫県立考古博物館なにわの海の時空館などで、見ることができます。
奈良・西大寺旧境内から渡来官僚の名を記した須恵器片が出土 [2010年04月09日(Fri)]
今朝の朝日新聞に、
「奈良時代に遣唐使船で来日した中国人、皇甫東朝(こうほとうちょう)の名前が記された皿状の須恵器の破片(8世紀後半)が出土した。」
というニュースが掲載されていました
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201004090039.html

奈良時代の史書には、約60人の渡来中国人の名前が記されているそうですが、
発掘史料で、それが裏付けられたのは初めてだそうです
「皇甫東朝」なる人物が、実際に存在し、
平城京でも活躍していた可能性が高まったのです。

まさに、考古学の醍醐味ですね。
文字で書かれたことを「モノ」により、証明する

しかし,彼が乗ってきた遣唐使船はというと.....
その実態はよくわかっていません
どんな船で、どんな装備をしていたのかなど。

現状では、文献史料もかぎられているので、
考古学で証明するしかないようです

関連する「モノ」が出土すれば、明らかにできるはずです。
しかし、これまでに陸上から、直接に関連する遺物の出土はありません。
船ですから、それは、海底に残されている.....のでしょうか。



草戸千軒町遺跡検出の井戸枠 [2009年06月01日(Mon)]
広島県福山市に草戸千軒町遺跡(くさどせんげんちょういせき)があります
以前、このブログでも紹介をしました。




草戸千軒町遺跡は、鎌倉時代から室町時代にかけて瀬戸内海に流れる芦田川河口の港町・市場町として栄えた都市遺跡です。
発見された場所が、川の中洲であったことから川底に埋もれた遺跡としても知られています。


              写真中央に見える中洲が遺跡の中心部

この遺跡からは、複数の井戸が検出されており、木製の井戸枠をもつものがあります。
このうちの、13世紀末から14世紀前半(鎌倉時代後期)のものとされる一つの井戸枠が
船の底部を再利用されたものではないかと考えられています

その根拠として、くりぬき材であること、他のものと比べると分厚いこと、
そして片面に「フナクイムシ」の跡と考えられる曲がりくねったトンネル状の穴があることをあげることができます。

確かに、実際に見ると他の井戸枠と比べるとかなり趣が異なり、「フナクイムシ」の痕跡も明確です。

船の底部の再利用であれば、くりぬき材であるこから
丸木船をベースにその上に舷側(げんそく)板を取りつけた準構造船のものであったのでしょう。

遺跡からは、このほかにも井戸枠と同様に再利用された船材と考えられる木材も出土しています。

このように、遺跡から船材が転用されて出土する例は、ほかにもあります
ただし、船材のばあい、その一部が再利用されるので、船材かどうかの認定には船の構造を熟知している必要があります。
草戸千軒町遺跡の井戸枠のばあいも、出土当初から、くりぬき材ということはわかっていたようですが、船の底部とは認識されていなかったようです。
そして,表面の曲がりくねったトンネル状の穴が「フナクイムシ」の痕跡ではないかと考えられるにいたり、船の底部の再利用と認識されるようになったようです。

船体構造が大きく変化(丸木舟から準構造船へ)する弥生時代以降の船体が完全な状態で,
発見されることがほとんどないという状況は、
このような船材の再利用の影響も少なくないのでしょう。

草戸千軒町遺跡の出土遺物は、福山市にある広島県立歴史博物館に展示されています。
船材再利用の井戸枠も展示されており、間近に見ることができます。
このほか、縄文時代・平安時代・室町時代・江戸時代の各時代に瀬戸内海を航行していた代表的な船の模型(1/10)も展示されています。
八丈島の異形羅漢像 [2008年11月06日(Thu)]
八丈島の八丈島歴史民俗資料館にマントを羽織った一風変わった形の羅漢像があります
木造南蛮風羅漢坐像と呼ばれ、東京都指定有形文化財に指定されています。

日本のものではなく、中国・明代の作で、中国国内や日本の長崎・盛岡に似たような像があるとのことです。

由来は、はっきりとはしていないのですが、元禄年間(1688〜1704年)に八丈島に漂着したものと伝えられていることから、漂着船の舳などに守護神として飾り付けられていたものではないかと考えられています。

由来のはっきりとしない資料ですが、当時の日中貿易(通交)を物語る貴重な資料といえます。

八丈島は、行政上は東京都に属しています(東京都八丈町)が、地理的には東京の中心地から約290km離れた南方海上に位置しています。
黒潮のまっただ中にあります。

江戸時代には、伊豆諸島や房総半島などに中国船漂着の記録が多く残っています。
これは、当時の日本の唯一の対外貿易港であった長崎を目指した中国船が、意に反して黒潮の本流に乗ってしまい、コントロール不能になった様をあらわしているといえます。

また、八丈島は江戸時代には流人の島でもありました。
流人のなかには、関ケ原の敗将宇喜多秀家のような知識人もいました。
このような人たちが、漂流船との交渉に活躍したそうです。







古墳時代の「喪船」を復元 [2008年08月30日(Sat)]
奈良県広陵町にある国特別史跡・巣山古墳(4世紀末〜5世紀初.全長220mの大型前方後円墳)の周濠から出土した木製の船部材を組み合わせて立体的に復元された船が、現在、広陵町文化財保存センターで展示されています(9月1日まで)。

2005(平成18)年の調査で出土した部材を組み合わせて復元したもので、木をくりぬいた丸木舟の上に竪板と舷側板が取りつけられた、日本では弥生時代から使われていたと考えられている準構造船という構造のものです。
全長は、8m超えるものになるそうです。
また、保存処理中の部材もあるとのことで、今回は円文様を主体とした幾何学文様が描かれた竪板と舷側板のみの組み合わせですが、今後の調査でより完全に近い状態に復元される可能性もあるとのことです。
当時の船について(とくに構造の詳細)は、分からないことばかりですので、貴重な実物資料であるとともに、今後の調査に期待大ですね。



復元された船は、装飾性の強い竪板や出土状況から、実用のものではなく、棺(ひつぎ)を載せた儀礼用の「喪船(もせん)」である可能性が高いようで、使用後に解体され、周濠に埋められたものと考えられています。
エジプトのクフ王ピラミッド前に埋められていた「太陽の船」を思い起こさせますね。

なお、埴輪から復元された古墳時代の準構造船として「なみはや」(全長12m)が、大阪市立海洋博物館「なにわのの時空館」に展示されています。
この復元船は、1989(平成元)年に、大阪から韓国・釜山への実験航海を行い、外洋を航海する性能を備えた船であることを証明しました。





弥生時代の船の絵 [2007年12月08日(Sat)]
弥生時代人は、船の絵を残しています。
それは、土器や銅鐸の表面に描かれています。

弥生時代は、縄文時代とくらべるとモノが大きく(遠くに)動いています
モノが動くということは、ヒトも動いているということです。

その手段としては、当時はもちろん空路はありませんので、陸路か水(海・川)路のどちらかになります。

明らかに海路からとしか考えられないようなモノの動きをしめす例もたくさんあります。
弥生時代の日本には、まだ馬はいなかったとされていますので(馬が日本に入ってくるのは、古墳時代といわれています)、多量のモノを輸送するには、水路が大きな役割をはたしていたと考えられます。
また、朝鮮半島や中国にも行っています。

水路=船の利用です。

それでは、弥生時代の船はどのようなものだったのでしょうか?

弥生時代人の残した絵のなかには、長いゴンドラのような船が描かれています。
たくさんのオールが描かれたものもあります。
たくさんの漕ぎ手が描かれたものもあります。


そこからは、かなりの大型船が復元できます。
おそらく、海船としてつかわれたものでしょう。

このような絵や断片的に出土している船体の一部から、当時の船(海船)は準構造船であったと考えられています。

真楽寺の帰命石 [2007年11月22日(Thu)]
先日,紹介した小田原市玉泉寺の「経石」とともにもたらされたとされる「石」が、国府津(こうづ)の真楽寺(しんらくじ)にあります。真楽寺は、玉泉寺から森戸川を南へ約2kmほど下ったところにあります。

やはり『新編相模国風土記稿』によりますと、「親鸞当所居住の頃、勧堂の下へ一切経を積みし唐船着岸す、舟底に石八枚積めり」とあり、その唐船が出港の際に置いていった石のひとつとされています。

その石の大きさは「高さ七尺、幅三尺」で、表面には親鸞の指書きによる「帰命尽十万無昇如来、....」と覚如による追刻が刻まれているということです。
このことから、この「石」は「帰命石(きみょうせき)」と呼ばれています。

ただし、この「帰命石」は、1636(寛永13)年に境内に建てられた帰命堂の下に埋められてしまい、現在では見ることができません。

由来がよくわからいために、歴史的資料として扱うには、注意が必要ですが、玉泉寺の「経石」とともに、中世(鎌倉時代)に中国船が相模湾へやってきた可能性をしめす資料のひとつです。

ちなみに、真楽寺のある国府津には、考古学的には証明されていませんが、その地名から古代国府あるいは郡衙の港(津)があったともいわれています。











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