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「神奈川台場」遺構、一般公開へ [2012年04月26日(Thu)]
このブログで何度か取り上げた
神奈川県横浜市神奈川区に残されている
江戸時代末に横浜港防衛のために築造された人工島としての砲台である
「神奈川台場」遺構の一部が、明日(4月27日)から一般公開されます。

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1204250011/

公開される遺構は、石垣の一部で、
昨年、マンション建設中にみつかり、
関係者の尽力により、保存されることが決まったものです。

マンションの一室を展示スペースとして、
そこで関連資料とともに、保存された石垣(高さ3.2m、長さ4.5m)を見ることができるそうです。


「神奈川台場」遺構(石垣)は、他所でも部分的に見ることはできますが、
地下から発見された遺構が残された例は、初めてです。
遺構としての「神奈川台場」の今後の保護を考えるうえでは、
大きな意味をもつ今回の保存・公開だと思います。


興味がある方は、ぜひ訪れてみてください。

入場料は大人100円、子ども・学生無料。
問い合わせは、栄光、電話045(441)5465 まで。

神奈川台場、保存決まる [2011年12月23日(Fri)]
このブログでも何度か紹介してきました神奈川台場(神奈川県横浜市)の開発予定地でみつかっていた石垣の保存がきまりました。
保存が決まったのは、今年、住宅・商業施設「横浜コットンハーバー」でのマンション建設予定地で、工事中にみつかった石垣部分です。
その一部を事業者側が設計変更のうえ、
現場保存することを決めたとともに、
マンションの一室を「展示資料館」として公開するそうです。
なお、神奈川台場の本格的な石垣保存は初めてです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111001-00000028-kana-l14
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110930/kng11093022510006-n1.htm

この件については、建設前からその存在が想定され、
市民からの保存要請があった事例です。
結局、工事は着工されましたが、
その後も保存のための署名活躍がなされ、
多くの署名が集まったそうです。
神奈川台場を造った旧松山藩の愛媛県からも寄せられたそうです。

とにかく、一部であっても保存が決まり、
その内容が公開されることは、
これまでその存在もふくめて、
あまり知られていなかった神奈川台場をより多くの方に、
知ってもらい、遺跡保護の意識を高めるためには、
大きなことと思います。
今週末は大潮 [2011年06月13日(Mon)]
今週末は大潮です。
関東周辺では昼ごろ大きく潮が引きます

潮が引くと,普段見ることのできない海底が目の前にあらわれ
実際に歩いて観察することができます。

相模湾では、5月の大潮時ほどではないですが、
鎌倉市の材木座海岸沖にある
鎌倉時代の築港跡・和賀江島(わかえじま)にも上陸できるのではないかと思います。


また、逗子海岸沖に建てられている徳富蘇峰の「不如帰碑」(ほととぎすひ)にも歩いてわたれると思います。
この「不如帰碑」は、海底から引揚げられた複数の江戸城用の石垣用材でつくられています。
石を切り出したときの「矢穴」も観察できます。


これら普段は近づくことのできない史跡を間近に見るチャンスでもありますので、
天気が気になりますが、訪れてみてはいかがでしょうか。

また、普段見ることのできない「海底」もみられます
新発見もあるかもしれません。
神崎遺跡が国史跡指定へ [2011年02月13日(Sun)]
2月7日付けの官報で、
神奈川県綾瀬市にある神崎遺跡(かんざきいせき)が正式に国指定史跡になりました。

神崎遺跡は、弥生時代後期(今から約1,800年前)の環濠集落です。
弥生時代の環濠集落自体は、各地でみられるのですが、
集落全体(約5,000m2)が残っていること(これは全国的にみても希です)、
集落からの出土土器の大半が東海西部(愛知県東部〜静岡県西部)のものに極似していることから東海西部からの移住者のムラと考えられること,
などが評価されました。
http://www.city.ayase.kanagawa.jp/hp/page000021300/hpg000021232.htm

神崎遺跡は、今から約20年前の1989(平成元)年に本格的な調査が始まりました
このときの成果により、出土土器の大半が東海西部の土器であることがわかると、
その在り方はもちろんのこと、それまでよくわかっていなかった相模(神奈川県の大半をしめる旧地域名)の弥生土器研究が活発化するなど、
相模の弥生文化研究には、大きな影響をあたえることとなりました。

その後、神奈川県の中央を流れる相模川沿岸域(神崎遺跡もこの流域にあります)から、
東海西部の土器を多く出土するムラや少ないムラがみつかりだすと、
それまで、漠然と語られてきた相模の弥生文化が、
神崎遺跡という基準となる柱的資料を得たことで、
ヒトの移動を介して東海西部と深いつながりをもったものであることが、
具体的な資料により語られるようになりました。

国史跡指定までには、関係者の多大なご苦労やご尽力があったことと思います。
とくに、土地開発の著しい神奈川県内で、
遺跡全体を指定・保存できたことは、ある意味奇跡的なことであるとも思います。
頭が下がる思いです。

今後、綾瀬市では、国・県と協議しながら、遺跡の保存・活用を進めてゆく、とのことです。

この神崎遺跡の調査に当初から参加し、
詳細な出土土器の分析を通して、遺跡の持つ意味を報告書で説いた
若くして逝った友人がいます。
彼の報告がなければ、今回の史跡指定はなかったのかもしれません。

ですので、今回の史跡指定の報を彼はどのように受け取るのだろうか、と思うとともに、
彼がこの日にいないことが、残念でたまりません。
和賀江島 [2010年05月04日(Tue)]
神奈川県鎌倉市の材木座海岸沖にある
現存する日本最古の築港跡である国史跡・和賀江島に上陸するには、
干満の差が大きい春と秋の大潮時が、最適です。

潮汐表によれば、次週の15日(土)と16日(日)の11時〜12時ぐらいが、
良いようです。

この機会に、和賀江島に上陸してみてください。
水中文化遺産を直に見る、そして触れることのできる良い機会です。
そして、その現状をこのブログに報告してください。
今日のNHK「クローズアップ現代」 [2010年04月12日(Mon)]
今日、NHKで放映された「クローズアップ現代」で、
産業遺産が取り上げられていました

近年、日本の近代化を支えた炭鉱や製鉄所など現在は廃虚となっている施設を巡るツアーが大人気だそうです。
行政も民間と組んで、村・町おこしの目玉として、これらの産業遺産を利用するケースが増えているそうです。

番組では、産業文化遺産の活用が地域の活性化につながることを強調していました。
確かに、私もその点は同感ですが、
それにともなって、生じているはずの保護や活用にあたっての問題点の指摘・検討はほとんどなされておらず、
偏った内容に感じました。

産業遺産は、その地域に根付いていた産業の姿を伝える遺物や遺跡のことを言います。
そのなかで日本の近代化に貢献したものについては、近代化遺産とも呼ばれています。
1990(平成2)年度より全国を対象とした「日本近代化遺産総合調査」事業を文化庁が開始し、
その保護に乗り出した、比較的最近認識されだした文化遺産でもあります。

重要文化財や登録有形文化財に指定されているものもあります。
広い意味での水中文化遺産に該当するものもあります
(横浜港関連遺産は、その代表的例です)

このような産業遺産ですが、実は定義は一様ではないそうです
担当官庁も文化庁、経済産業省、農林水産省などと複数にわたるものもあります。
また、何をもって、残すもの(保存される)と残されないもの(壊されるもの)を区別するのかという明確な指針はないようですし、
保存と活用の仕方についても、通常の文化財の扱い方とは異なる方法でおこなわれているとも聞いています。

ただし、文化遺産を地域の活性化に生かすということは、
市民の文化財保護にたいする意識の向上になります


ですので、そろそろ保護・活用のための統一的なマニュアルやルールづくりが必要と思います。

この点は、水中文化遺産にも通じることでもありますので、
その推移には注目してゆきたいと思います。
長野県・柳沢遺跡の最新成果報告会 [2010年03月16日(Tue)]
2007年に東日本で初めて、
銅戈(7本)と銅鐸(1個)が同じ遺構から出土したことで、
大きなニュースとなった
長野県中野市の柳沢遺跡(弥生時代中期)の調査成果報告会が東京で開かれますので、
ご紹介します。

報告会は、日本考古学会第68回例会として下記の内容で開催されます。

日時 2010年3月20日(土)13時30分〜15時00分(13時開場)
会場 東京国立博物館 平成館大講堂
講師 長野県埋蔵文化財センター  広田 和穂 氏
演題 新発見の銅鐸・銅戈と信濃最大級の礫床木棺墓群
   −長野県中野市柳沢遺跡の新たな成果−

なお、入場は無料で、事前の申し込みも必要ありません
どなたでも参加可能です。
ただし、入場が西門(通用門)となりますので、ご注意してください。

問い合わせ先
〒110-0007 東京都台東区上野公園13-9 東京国立博物館内
日本考古学会
電話・FAX 03-3822-0087


柳沢遺跡では、その後の調査でも銅戈・銅鐸が出土しており、
現在までに、その総数は銅戈は8本、銅鐸は5個となっています。
また、近くからは、弥生時代中〜後期と考えられる礫床木棺墓も検出されています。
この礫床木棺墓は、長野県内では最大級のものだそうです。
出土した銅戈・銅鐸との関係も注目されています。

これらの最新の成果報告がされるとのことです。
東京近郊にお住まいで興味があるかたは、ぜひ参加してみてください。
エルトゥールル号の調査 [2010年03月15日(Mon)]
今朝のNHKニュースで、今からちょうど120年前に、
和歌山県串本沖で、沈没したトルコの軍艦エルトゥールル号の調査について、
放映をしでいました。
継続して調査がおこなわれていること、
地元も協力体制にあること、
引揚げられた遺物はトルコで整理されるとのこと、
などが報告されていました。

水中文化遺産としての沈没船が考古学的な手続きで、
調査されている数少ない国内事例です。

ただし、この調査は日本の文化財保護法のもともでおこなわれているものでは、ありません。
調査を実施するにあたり、さまざまな事情があったと聞いでいます。

現在、調査は地元の協力のもと進んでいるようですので、今後はARIUAとしても何ができるのかを
検討しながら調査の推移をみたいと思います。
相模国分寺の瓦の生産地 [2009年11月23日(Mon)]
神奈川県海老名市にある
相模国分寺跡・創建期(奈良時代中ごろ)の瓦が、
横須賀市の乗越遺跡(のりごしいせき)でつくられたことが、
わかったとの発表がありました。
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/0911120049/
http://www.yokosuka-benri.jp/db/nagekomi/n100003460.html

乗越遺跡は、横須賀市の相模湾側の秋谷にあり、
奈良時代の須恵器・瓦をつくった窯跡が8基確認されています。

相模国分寺跡(僧寺)の瓦については、
これまでにその生産地がはっきりとしておらず、
神奈川県内外の数ヶ所の窯跡がその候補地として考えられていました。

今回の乗越遺跡もそのひとつで、
2007(平成19)年の調査時に出土した軒丸瓦(軒先に使われる文様がある瓦)の破片が、
これまでに相模国分寺跡でみつかっていたものと同じものと判明したことから、
乗越遺跡が相模国分寺の瓦の生産(供給)地であったことが証明されたのです。

そして、今回の調査成果の発表の意義として、
遺跡が乗越遺跡が相模国分寺跡の瓦生産(供給)地であることが明らかとなったとともに、
相模湾に面した入り江をのぞむ斜面地に立地していることと、
相模国分寺と約41km離れていること、
から船運で瓦を運ぶことを前提につくられた生産地であったことがあげられます。


       乗越遺跡の位置(矢印)

相模国分寺跡は、海岸線からは約16km内陸に所在しています。
近くには旧相模国最大河川の相模川が流れており、
相模川の支流から分水する相模国分寺のためにつくられたと考えられる「逆川」(さかさがわ)と呼ばれる運河跡もみつかっています。
これまでの調査では、船着き場と考えられる遺構もみつかっています。
このように、相模国分寺も船運を意識してつくられています


        乗越遺跡と相模国分寺跡

今回の調査成果の発表は、
これまで、不明確であった相模国分寺の瓦の生産(供給)地を明らかにしたものですが、
古代から相模湾や相模川が物資輸送のために積極的に利用されていたことを間接的に証明したことにもなりました。

古代の相模湾には、どのような舟・船が行き来していたのでしょうか?
相模湾岸での古代の船舶資料は、葉山町で出土した丸木舟が1隻あるだけです。
こちらのほうは、まだまだ、よくわかってはいません
「象の鼻」ふたたび [2009年07月02日(Thu)]
このブログでもたびたび紹介してきた「象の鼻」へ久しぶりに行ってきました。

再整備が終了し、横浜港開港記念日の6月2日から「象の鼻パーク」として、
一般開放されています。

整備工事中とは打って変わって、周辺は公園としてきれいに整備されていました。



「象の鼻」は、「歴史的土木遺構の復元・活用」という基本計画のもとに、
明治20年代後半の形状に復元されたそうです。

訪れてみると、思っていた以上に大きいと感じました。
「象の鼻」という名称の元となった湾曲した形状も印象的でした。



また,整備工事中に発見された、
大正関東大地震(1923年)で、沈下したと考えられる構築に用いられた石材の一部が,
水中に残された状態で見ることができます




ほかにも多くの石材がみつかったとのことで、
それらの一部は、復元された石積みにも再利用されたとのことです。



なお、「象の鼻」の内側は、小型船桟橋が新設され、
小型旅客船の係留・発着の基地として使われるそうです。