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国立ハンセン病資料館の調査見学に行って思ったこと [2017年01月06日(Fri)]
昨年の暮れに,国立療養所多磨全生園(東京都東村山市)敷地内で行われている発掘調査を見学してきました.

この調査は,国立ハンセン病資料館が主体となり,多磨全生園の前身の全生病院(ハンセン病療養所)の「患者地区」と「職員地区」とを隔てた堀と土塁(堀の内側に設置)の実態を探るために,11月から実施されたものです.
堀は埋め戻され,土塁も一部が残るのみで,公的な記録が一切なく,関係者の証言や古い写真の一部に状況が見られるのみであることも発掘調査を実施した理由のひとつとのこととです.
DSCN1913.JPG
       調査地区近景(2016年12月)

また,この調査に先立ち2013年には国立療養所栗生楽泉園(群馬県草津町)の「特別病室」(重監房)跡地で,やはり「記録」のない「特別病室」の復元に際して,発掘調査を行ない成果を得ることができたこも今回の調査実施に影響があったとのことです.
(この調査については,第82回(2016年度)日本考古学協会総会で研究発表され,報告書は国立ハンセン病資料館で作成中です.)

今回の調査についての最近の報告では,約200m2の調査地区から幅約4m,深さ約2mの断面逆台形の堀が20mにわたって検出され,詳細不明であった堀の内容が明らかになりました.
見学時には,堀の一部が掘られているのみでしたが,その規模についてはわかる状況でした.
担当者も言っていましたが,まるで中世の城郭に匹敵する規模のものです.
DSCN1909.JPG
      検出された堀(2016年12月)

全生病院は,1909(明治42)年に設立されますが,設立をめぐっては地元からの反対運動があり,誘致したした村長(当時・東村山村)らが襲撃される事件が起こるなど,ハンセン病にたいする偏見や嫌悪感は相当なもので,患者の逃亡のみならず外部からの襲撃に備えるためにつくられたものが今回検出された堀です.

今回の調査は,記録が残せる時代に記録にない・残っていない・残さなかった歴史を可視化したという点に意義があると思います.
言い換えれば,記録に残さない負の遺産を残こさなかった理由とともにその実態を明らかにしたと言うことです.
そして,その方法として考古学が採用され,明らかにできた点も評価できることと思います.

考古学というと,とかく古い時代の人びとの生活を明らかにする学問と思われがちですが,
今回の例のように,まだ関係者がいる現代においても有効な学問なのです.
記録というものは,すべてが残されているものではありません.
当事者に不都合なものは,意識的に残されません.
今回の事例はその一例ですし,戦争関係の当時トップシークレットだったもの・ことも同様です.
それを明らかにできる(可視化)できるのは,モノ(実物資料)であり,それを研究する考古学(だけ)なのです.

その点において,成果もですが,今回の国立ハンセン病資料館の調査は,考古学の可能性を示唆したものと言えると思います.

ただし今回の調査は,行政的周知がなされている遺跡(周知の埋蔵文化財包蔵地)ではありませんので,文化財保護法に則った調査ではないとのことです.
例の文化庁平成10年通知(http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19980929001/t19980929001.html)による近世以後の遺跡軽視(無視)の弊害と言えます.
(この点に関しては,近世以降の水中文化遺産の取り巻く状況と同じです)

ちなみに今回の調査では,療養所関連以外の遺構・遺物は検出されていません.

行政的周知はなされていませんが,遺跡自体はハンセン病患者にたいする差別・隔離の歴史をしめす貴重な近代遺跡であることには変わりません.


この遺跡の見学会が明日(7日)に行われます.
詳細については,国立ハンセン病資料館のホームページでご確認ください.
http://www.hansen-dis.jp/
遺跡はどこにある? [2014年01月05日(Sun)]
昨年末に放映された「世界ふしぎ発見!」で、
「纏向(まきむく)遺跡」(奈良県桜井市)が取り上げられていました。


「遺跡」を訪れるミステリーハンター。
「遺跡」がある、とされた場所は一面の畑。
「遺跡」の場所がわからないミステリーハンターが、
農作業をしていた方にその場所を聞くと、
「ここ」だという。
その答えを理解できないミステリーハンターは驚く。

同じような経験をされた方は、いらっしゃるのではないでしょうか。
また、国史跡でありながら、現地に行くと説明版だけで、野原が広がっているだけ
という。

「遺跡は、「目に見える」かたちで残されている」
このような先入観をもたれている方が多いのではないでしょうか。
先のミステリーハンターもそのような「先入観」をもっていたのでしょう。

確かに、「古墳」は「目に見える」かたちで残されていますし、
遺跡公園として残さている古墳以外の「遺跡」には、
復元された建物などが「目に見える」かたちで建てられている例もあります。

ただし、公園化される遺跡はごくわずかです。
多くの「遺跡」人知れず地中に埋もれています。

「纏向遺跡」のばあいは、まだ公園化されていませんので、
「目に見える」かたちにはなっていません。

日本の「遺跡」の大半は、地中に埋もれてその跡が残されています。
建物のばあい、その材料は多くが木材ですので、
長い年月のうちに腐り、無くなってしまい、
大地にしるされた「穴」にみが残されるのです(竪穴住居跡、柱穴跡など)。

このような「跡」(遺跡)を保存する最良の方法は、
残されている環境に保つこと、すなわち触らないことです。

しかし、触らないと「遺跡」の内容はわかりませんので、「発掘調査」をします。
「発掘調査」は、「遺跡」を「見る」ために土砂を取り除きますので、
残されていた環境を変えてしまいます。
ですので「遺跡」の内容を知るための調査は、
できるだけ「遺跡」をいためないように、「発掘調査」は必要最小限にとどめます。

そして、環境を変えてしまった(発掘調査した)部分については、
元の環境に戻すために、調査後には掘り上げた土を戻します。
そして、その場所が畑であれば、そのまま元の状態で土地利用されるのです。

「纏向遺跡」のばあいは、まさにその状態だったのです。

「目に見える」かたちで残された「遺跡」のばあい(遺跡公園など)も
「本物」は地中に埋め戻され、その上にさらに盛り土をして、
「本物」をいためないようにしたうえで、復元建物が建てられています。
その意義は、その存在を多くの方に知ってもらうことです。
最初に触れたように「残す」だけでは、見てもらえないし、
「遺跡」の意味を理解してもらえないですから。

そのための工夫は各地でなされています。
「遺跡」の「活用」です。

もうひとつ重要なことは「遺跡は動かない」ということです。
周りの環境が変わっても「遺跡」は同じところに在り続けます
ですので、やむを得ないばあいをのぞいて本来「遺跡」はあった場所に残されるべきものです。
それが、「歴史の生き証人」(環境の変化等を伝える)にもなりますから。

壊される遺跡もあります。
家(戸建て・高層住宅)をつくるのにも基礎や埋設管の設置などで地下深く掘り下げることがあります。
道路敷設のばあいも同じです。
深く掘るということは、そこに「遺跡」があるばあい、それを壊すことになります。
そのために、「発掘調査」がおこなわれることもありますが、
その多くのばあい、「遺跡」は残されません。
「調査」の「記録」のみが残されます(記録保存)。
ただし「記録」のみですと、人目に触れる範囲も限られてしまいます

ですので、残すことができる「遺跡」は,
できるだけうまいかたちで「残し」、「活用」してもらいたいと思います。
「動かない遺跡」は,「歴史の生き証人」であもあり、
今の私たちの生活にもかかわる、さまざま情報をもたらしてもくれますから

「周知の埋蔵文化財包蔵地」 [2013年03月25日(Mon)]
埋蔵文化財」ということばをご存知でしょうか?

埋蔵文化財」とは,「土地に埋蔵されている文化財」のことです.
わかりやすく言えば,「遺跡」のことです.
「遺跡」の多くは,通常は「埋蔵」,地下に埋もれていますので,見ることはできません.

ただし,地上でも見ることができるばあいもあります.
たとえば,「古墳」.その内部は直接に見ることはできませんが,
塚状の外観は,見ることができます.
また,寺跡のばあいなどは,建物が残っていなくても,
建物が建てられていた場所は,一段高くなった「基壇」や柱を受けていた「礎石」が地表に残り,見ることができるばあいがあります.

地上で見ることができる「古墳」や「寺院跡」も「遺跡」,
「埋蔵文化財」です.
見えない部分は地中に埋まっていますでの.

このような「見える遺跡」の確認は,比較的容易なのですが,
「見えない遺跡」のばあいはどうでしょう.

これにも存在にたいするヒントが地上にあります.
たとえば,畑です.
耕作で,その土地が掘り返されたりすると,
地下にあったものが地表に出てくることもあり,
その結果,土器や石器のカケラを地表で見たり,拾ったりできることがあります.

このような土地の地下には,「遺跡」(埋蔵文化財)が存在するる可能性があり,
このような状況は,「遺跡」の存在を確認するには重要な手がかりとなります.
それをヒントに,「遺跡」があるかのか,ないのかを確かめる調査(発掘調査など)をして.
「遺跡」を確認します.

このようにして,地下に埋もれた「遺跡」(埋蔵文化財)は,その存在が知られることになります
これを「周知の埋蔵文化財包蔵地」(遺跡の周知化)と呼びます.

周知の埋蔵文化財包蔵地」については,
国内の文化財を保護する法律である「文化財保護法」に記されています
そして,「周知の埋蔵文化財包蔵地」を目に見えるかたちにしたものとして,
「遺跡地図」(埋蔵文化財包蔵地地図)があります.
これは,詳細を記した台帳とセットになるもので,各市町村および都道府県の担当行政である教育委員会に備え付けられています.

これをもとに「遺跡」(埋蔵文化財)は保護をされるのです.
例えば「周知の埋蔵文化財包蔵地」内で開発事業などがあるばあいには,
「遺跡」に影響があるのか,否か,あるいはどのくらい影響があるのかなどを担当行政と事業者が協議をして,影響があるばあいには,しかるべき行政指導がなされます.

「周知化」がなされなければ,「遺跡台帳」に登載されることはありませんので,
開発事業が計画されて,その場所に「遺跡」が存在する可能性があったとしても
スムーズな行政指導ができないばあいもあります.

「周知化」がなされてないために,
存在したはずの「遺跡」が記録も残されず(調査をされずに)に壊されるてしまうこともあります.


このように,遺跡を保護するためには,その存在を示す「遺跡台帳」,
そして,その前提にある「周知の埋蔵文化財包蔵地」の把握(遺跡の周知化)は重要なのです.
今日は「文化財防火デー」です [2013年01月26日(Sat)]
今日1月26日は,「文化財防火デー」です.

1949(昭和24)年1月26日に,現存する世界最古の木造建造物である法隆寺の金堂が炎上し,
壁画が焼損したことに端を発し,
1955(昭和30)年に,
「当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)が1月26日を「文化財防火デー」と定め,文化財を火災,震災その他の災害から守るとともに,全国的に文化財防火運動を展開し,国民一般の文化財愛護に関する意識の高揚を図」(文化庁HPより)
ることを目的に制定されました.

毎年この日には,各地で「文化財」の防火訓練がおこなわれます.
もちろん,今年もおこなわれました.
皆さんがお住まいの場所でもおこなわれたことと思います.

文化財は,「我が国の長い歴史の中で生まれ,育まれ,今日まで守り伝えられてきた貴重な国民の財産」です.
文化財は,無くなってしまうと,「かたち」は再現することはできるでしょうが,
その歴史的背景をふくめた「かたち」二度と元に戻すことはできません.


ですので,文化財にたいする防災対策,
とくに,文化財を一瞬に灰燼と化してしまう火災対策は,十分にとってもらいたいと思います.

それとともに,皆さんも文化財の意味文化財にたいする意識を今一度再確認してみてください.

国民の貴重な財産である文化財をより良いかたちで後世に残すためにも.

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朝日新聞・夕刊の記事から [2012年12月11日(Tue)]
今日(12月10日)の朝日新聞・夕刊の「歴史」面に,
「国史跡 眠れる地域振興源」という記事が掲載されています.

全国にある1700件超の国指定史跡の管理(保存・活用)方法が地域によって異なるが,
今後の史跡を地域振興源のひとつとして考え,
管理に際しては,綿密なマネジメントに基づき,
地元住民を巻き込むことが不可欠

とういう内容です.

史跡(遺跡)の管理の現状と課題について,考えさせられる記事です.

確かに,国史跡として指定されても,
現地に行くと,標柱や説明板があるのみで,
史跡自体は野原(放置)状態なものもあります.

その理由としては,財政的なこと,その後の維持管理費用の問題があるとのことです.

史跡として保存するのであれば,指定だけで何もしないことも,
ひとつの方法かもしれません.

しかし,これではせっかく指定になった史跡(遺跡)を生かすことはできません.
とくに,遺跡(埋蔵文化財)は埋まった状態では,見えませんから.
実際に,地元住民に「足元の史跡が知られていないことも多い」とのことです.
これでは,何かことを興すにしても,地元の理解を得られないのではないでしょうか?

その反面,管理の行き届いた史跡もあり,
そのような史跡は,行政が地元の関心を引く努力をして,
地元住民を巻き込んだ管理がなされています.

地元と史跡とのつき合いがうまくいっている.

違いは,財政的なことだけではないようです.

行政によって,さまざまな事情があり,担当者の負担は多くなるでしょうが,
うまく管理することは,史跡(遺跡)の保護は言うまでもなく,
地元住民も参加による地元の活性化にも繋がるものと思います.

史跡指定はそれがゴールではない,とも思いますので.


この記事中の写真,放置状態にある史跡の標柱の一部が加工され,
遺跡名がわからないようしてありますが,
これ,必要なこなのでしょうか?
地元への配慮かもしれませんが,違和感を感じました.
「世界遺産」,朝日新聞の社説から [2012年11月26日(Mon)]
昨日(24日)の朝日新聞の社説
「世界遺産40年―日本も観光より保護を」

昨今ブームといえるような状況になっている
「世界遺産」への警鐘
が書かれています.

「世界遺産条約」の本来の目的は,
「国際協力を通じて遺産を保護すること」です.

それがいつの間にか,本来の目的が棚上げにされ,
「観光の楽しみや経済効果を期待するばかり」

の状況になってしまっているという.

たしかに,近年の「世界遺産」をめぐる状況は,
異常ともいえる状況に見えます.
観光・経済効果という目的のために「世界遺産」というブランドを得る.
そのための,地域をあげての運動(というかたちをとっている).
それも多くはトップダウンのかたちで.

とくに日本のばあいは,本当に地域が求めているのかと,
疑いたくなる状況も見え隠れします.

まるで,オリンピック招致活動のよう.
大きなお金も動くのでしょう.

ユネスコは,「増えすぎた」世界遺産の制御するために,
各国の登録件数の上限を設ける議論もされている,といいます.

何か,変ですね.

本来の目的を今一度確認し,
本当に「世界遺産」への登録が必要なのか,
考えるときにきているのではないでしょうか.


そんなことを考えさせる記事です.
今日は「考古学出発の日」です [2012年06月18日(Mon)]
今日6月18日は,「考古学出発の日」です.

今から135年前の1877(明治10)年の今日
大森貝塚を発見・調査したアメリカ人動物学者エドワード・シルベスター・モース博士(Dr. Edward Sylverster Morse)が,
初来日しました.

横浜に上陸したモース博士が,招かれた東京帝国大学へ向かうために,
汽車で移動中,車窓から貝層が露出しているのを見つけました.
これが大森貝塚で,
その年の9月に日本人スタッフとともにを発掘し,
日本に学問としての考古学を紹介,実践しました.

大森貝塚は,日本考古学発祥の地です.
そして,そのきっかけをつくったモース博士が初来日した6月18日を
日本の考古学の出発点として記念し,制定された日
です.

大森貝塚は,東京都品川区から大田区にまたがる縄文時代後期から晩期の貝塚で,
モース博士が発掘調査をした地区周辺は,
国史跡に指定され,「大森貝塚遺跡庭園」(品川区大井6丁目)として公開されています.
oomori001.jpg
        大森貝塚遺跡庭園の入り口


その時の出土品は一括して国の重要文化財に指定されています.
この出土品は,現在東京大学に保管されており,
一部は,東京大学総合研究博物館で見ることができます.
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/

公園近くの品川歴史館では,
大森貝塚コーナが設けられ,レプリカ資料やその後の調査での出土品をはじめ,
大森貝塚関連の資料をみることができます.
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/hsindex.html
oomori-kaiduka.JPG
      大森貝塚遺跡庭園にある「大森貝塚」の碑

また,モース博士が実施した調査の成果は,
『Shell Mounds of Omori』(英文編)
『大森介墟古物編』(和文編)
として、刊行されています。
日本初の発掘調査報告書です.
ちなみに,英文報告書で使われた
「cord marked pottery」が「縄文式土器」と訳され,
その後も学術用語として,使われるようになりました.

この報告書のうち,英文編が
翻訳され岩波文庫で刊行されていますので,
機会がありましたら,読んでみてください.
『大森貝塚−付 関連史料』近藤義郎・佐原真訳 1983年刊行
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東京湾第一・第二海堡 海上視察 [2012年06月15日(Fri)]
先日,東京湾海堡ファンクラブ主催の
東京湾海堡の海上視察に参加してきました。

東京湾海堡は,明治から大正時代にかけて東京防衛のために、
東京湾につくられた人工島の海上要塞で,
3基(第一〜第三海堡)がつくられました.

人工島として,水中文化遺産ととらえられる遺構です.

水深5m前後ともっとも浅い位置につくられた第一海堡で,8年,
水深39m前後のもっとも深い位置につくられた第三海堡は,29年,
という長い年月をかけて完成されました.

当時の土木技術の粋を結集してつくられたもででしたが,
第二・三海堡は,大正関東大地震により,被災し.
その後は要塞として使用はされなくなりました.

第一海堡のみは,太平洋戦争まで要塞として使用されました.

暗礁化していた第三海堡は,通航の妨げになるとのことで、
2007(平成19)年に完全撤去され,
おもな遺構のみが,
横須賀市のうみかぜ公園(平成町)と
国土交通省関東地方整備局東京湾口航路事務所・第三海堡構造物 追浜展示施設(浦郷町)
で,保存・公開されています.

東京湾海堡の詳細については,
国土交通省関東地方整備局東京湾口航路事務所のH.P.
http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/index.htm
をご覧ください.

少し前置きが長くなりましたが,
視察したのは,現存する第一・第二海堡です.

現在は,いずれも許可なくは上陸できないもこととなっています.
DSC_0392.jpg
         第一海堡にある「立入禁止」の看板

今回は,富津港から出港。

近くで見る両海堡は,思いのほか大きいものでした.
DSC_0552.JPG
           第一海堡全景(北から)

第二海堡は,現在土砂流失を防ぐための工事がおこなわれているようとのことで,
周囲がフェンスで覆われており,状態を確認できませんでした.
DSC_0295.jpg
         第二海堡全景(西から)

第一海堡は,ほとんど手付かずの状態のようで,まるで自然の島のようでした.
ただし,建造物や土台の石垣を見ることでき,人工島であることを確認できます.
また,南側では,土砂が大きく崩落し,
建造物や石垣が崩れ,そのままになっている状態も確認できました.
DSC_0324.JPG
       第一海堡南側の崩落状況(南から)

遺構としての現状は,かなり荒れている状態で,保全措置もとられていないようですので,
かなり危うい状態のようです.
DSC_0436.jpg
    第一海堡に見られる崩れ落ちたままの建造物

第二海堡については,保全措置をとっていることからも,
国土交通省は何らかの利用を考えているようですが,
第一海堡は,保全に関する具体的な動きはないようです.
このままでは,今後も崩壊は進むでしょう.

なお,富津港近くにある富津埋立記念貨には,
東京碗海堡についての図面・写真資料展示されています.
http://www.infochiba.ne.jp/FAINS/spot/0102/1581.html
「和賀江島」上陸に最適の時期となりました [2012年05月01日(Tue)]
神奈川県鎌倉市の材木座海岸沖にある
現存する国内最古の築港跡であり、
国指定史跡の和賀江島への上陸するのに最適の時期となりました。

連休後半の7・8日が、11時〜12時ごろにかけて大きく潮が引き
容易に上陸できます。
その大きさも実感できるものと思います。
当日は、天気も良さそうです。

度重なる台風や地震などの影響で、
築港跡(防波堤)として原形は、とどめていませんが、
鎌倉周辺では採取できない玉石が島状に広く集積しているさまを
見ることはできます。

近くでみると、玉石の大きさも実感でき、
普段は、海底に没して一部しか表れていない「島」の全体を見るこもできます。

毎年この時期には、「島」に上陸して磯遊びをするひとで賑わいます。
磯遊びができる国史跡は、ここだけではないでしょうか?

1年でもっとも上陸に適した時期ですので、
ぜひ上陸して、「島」のようす実感し、観察をしていてください。

ただし、くれぐれも石をむやみに動かさないようにしてください。
国指定史跡ですので。

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          説明板も新しくなりました
公開された「神奈川台場」を見てきました [2012年04月28日(Sat)]
4月27日に一般公開が始まった保存された神奈川台場遺構を見学してきました。
(横浜市神奈川区星野町)

展示施設は、発見の場所となったマンションの1階の一角です。
室内展示とともに屋外にも展示施設があります。
IMG_0919.jpg
          展示室の入り口のようす

保存された石垣遺構5段分を上からのぞき込むかたちで見ることができます。
下部からは地下水がしみ出ており、潮の干満で水位も上下するとのことで、
海上に造られたものであることをあらためて実感できます。
IMG_0881.jpg
             室内展示の石垣

やはり、遺構は現地で見ると、その立地を実感できるなど、説得力がありますね。

展示室内には、神奈川台場が描かれた絵図や写真資料が、拡大されて多数掲示されており、
神奈川台場の造られた当時を伺い知ることもできます。
IMG_0883.jpg
              展示室内のようす

また、隣接する公園、横浜市中央卸売市場内や住宅地でも石垣の一部を見ることでき、
周辺を散策すれば、台場の大きさを実感することもできます。
IMG_0922.jpg
神奈川台場と残存遺構(神奈川台場公園の説明板から.左上の丸印部分が今回公開された部分)

展示室は、多機能ホールも兼ねており、夜も開いているそうです。
観覧料は100円、遺構保存維持費にあてるそうです。
アクセスは、JR東神奈川駅、京急仲木戸駅から、徒歩10ほどです。
ちなみに、展示室のあるマンション名は、
Historia Residence 海舟」です。

工事中の発見ののち、市民の声が、
行政を動かし、関係者の尽力で保存が決まった事例です。
公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターにより、発掘調査がなされ、
文化財保護法上の「周知の遺跡」にも登録をされました。

開発事業者の理解があったことで、なし得た事例であったとはいえ、
これまでの横浜市の埋蔵文化財行政を考えるならば、
今回の一連の動きは画期的な事例と言えます。
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