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紫川の水面(12) [2011年07月11日(Mon)]
 スキー場のバイトなど、あまりなり手がいなかったのか、面接をして、すぐに働くことになった。ホテル組と居酒屋組に分かれたが、私は居酒屋で働くことになった。一回りと少し年上の太田さん、日体大の学生さん2名と一緒だった。この店には変わったメニューがあった。食用カエルやイナゴはまあ普通として、「丘うなぎ」や「ポンピョン焼」。最初は何のことかわからなかったが、丘うなぎとは青大将のことで、その蒲焼きである。ポンはタヌキ、ピョンはもう書かなくてもわかるだろう、ウサギだ。つまり、ポンピョン焼とはタヌキとウサギの合わせ肉のことだった。ほかにクマもあった。そういう肉の入手ルートがあったのであろう。お客さんから何の肉か聞かれたら答えていたが、聞かれなければおいしいですよ、と言って教えずに出していた。
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紫川の水面(11) [2011年07月09日(Sat)]
 T山荘も長くはもたなかった。2週間もいただろうか。山荘の掃除や準備、リフトやゴンドラの準備をする毎日だったが、ある夜、人のけんかを譲り受けたような形で正職員とけんかとなった。もともと自分が原因ではなかったが、他の人が正職員の人と言い争いをしているうちに、私が間に入る形になり、バイトの代わりはいくらでもいるようなことを言われて、本当にけんかになってしまい、ちょうどクリスマスを迎えるかどうかという時にやめてしまった。やめてしまえ、やめてやらあ、と絵に描いたような馬鹿な結末だった。
 荷物をまとめて、山を下りて、松本まで出てきた。さてどうしたものかと思案したが、このまま東京に帰るのも何だし、駅前で日刊アルバイトニュースを買って、スキー場のバイトを探した。その場で公衆電話で新しいバイト先に連絡し、大糸線で再び白馬に舞い戻った。そして、翌年の2月まで白馬で過ごすことになる。
紫川の水面(10) [2010年10月19日(Tue)]
 高校を退学して1年後の冬、信州の小谷村にいた。小倉から京都、東京へ、東へ東へと流れた先、次は山に向かった。夏から秋にかけて北アルプスに通い、そのまま冬もアルプスの麓で過ごしたかった。その年の冬は遅く、麓にはまだ雪は積もっていなかった。いつものように新宿のアルプス広場から松本に向い、そして、白馬駅に降り立った。
 当時、仕事は何をやっても続かなかった。数ヶ月、働いてはやめていた。短いものはその日というものもあった。ただ山に登るために働いていたし、心のどこかでこんなことやってられるかという傲慢さもあった。社会的には欠格者だったと思う。時々、それを思い知らされるのだけれど、若さと快楽にごまかされてきた。
紫川の水面(9) [2008年08月18日(Mon)]
 大検は秋頃が合格発表であったと思う。しかし、いつまで経っても合格通知が届かなかった。落ちたものと早合点し、その年の大学受験を諦め、早々に冬のバイトを決めた。北アルプスの白馬山麓のT山荘という山小屋というかスキー小屋で春まで暮らすことに決めた。
 しかし、落ちたにせよ何の連絡もないのは失礼だと思い始め、文句の一つでも言ってやろうと文部省に問い合わせてみた。何の事はない。受験申し込みの際に結果通知用の返信用封筒を同封するのを忘れていたのである。その後、合格通知が届き、めでたく全科目合格していたことがわかったが、その時はすでに心は白銀の世界へ行っていた。
 信州に暮らすという憧れに勝てるはずもない。新宿発の夜行列車、その名も急行アルプスで松本へ行き、大糸線で白馬村に向かった。
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紫川の水面(8) [2008年08月08日(Fri)]
 春まで小倉の店で働いていたが、その後、京都、そして、東京へと移り住んだ。東京ではバイトをしては山に登っていた。金を貯めては新宿発の夜行に乗り込み、松本から沢渡、上高地へと向かった。確かに日本は学歴社会である。高校中退のままではバイト探しも限られる。最初のバイト先は保谷駅前の喫茶Sだった。
 喫茶Sでは、二人の高校生と一緒に働いた。三人で養老の滝によく飲みに行った。まだ練馬ものどかな感じだった。ある夜、酔った帰り、駅前でペンキ屋の二人連れと殴り合いのけんかになった。理由は連れの一人の肩が相手に当たっただけ。なぜペンキ屋とわかったかと言えば、相手が自ら「俺はペンキ屋だ!」と叫んでいたから。
 しかし、場所が悪かった。駅前の派出所の前だったので、すぐに警官が飛び出してきた。警官の前でなめとるのか、と言わんばかりの顔で派出所に連れていかれた。全員、指紋もとられた。どこかでお世話になってもすぐに身元が割れることは間違いない。
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紫川の水面(7) [2008年07月25日(Fri)]
 高校を退学した夜、幼なじみに公衆電話から電話をかけた。退学したことを伝えると、そのまま沈黙が続いた。電話が切れるまでの1、2分。時間をこれほど長く感じたことはなかった。退学したことを初めて後悔した。
 小倉の暮らしでは、よく深夜に徘徊した。遠くの自販機まで煙草を買いに出ては、紫川にかかる常盤橋に欄干に寄りかかり、暗い水面を見つめていた。心のどこかでここは僕の世界でないと思いながら、煙草の吸いさしを心が吸い込まれそうな水面のゆらめきに投げつけていた。
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紫川の水面(6) [2008年07月16日(Wed)]
 いかの塩辛の行商のバイトは、給料が売り上げによる歩合制で安定しなかったので、高校3年の夏頃から小倉のCに勤めるようになった。Cでは高校生だった時から店のこととともに裏帳簿も任されていた。1日の領収書を書き換え、売上金額を操作してごまかしていた。当時の私に計算機は要らなかった。あんたは小倉で一番頭のいいバーテンと言われたが、あまりうれしくもなかった。税理士だか会計士だか知らないが、その子供までえらそうにしていたのが癪に触った。
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紫川の水面(5) [2008年07月08日(Tue)]
 小倉のCに勤める前は、いかの塩辛や味噌の行商を行っていた。M商店という行商専門の店であった。ワゴンに乗せられ、降ろされた先で発砲スチロールの箱に入れた海産物や味噌を一軒一軒売り歩くのである。20000円のパーフェクト賞は一度ももらえなかったが、10000円のトップ賞は一度だけもらった。北九州市から筑豊あたりを中心に売り歩いたが、新興住宅地はまず玄関のドアすら開けてもらえない。そして、炭住が一番売れた。特に酒の肴となるいかの塩辛は飛ぶように売れた。あとは味噌だけを持って売り歩くことになってしまう。時には高校生の私には目のやり場に困るような下着姿の女性が開け放たれた玄関先にけだるそうに現れ、買ってくれた。私はお金を受け取り、うつむきながらいかの塩辛を置いて足早に玄関を出た。
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紫川の水面(4) [2008年07月06日(Sun)]
 ある時、長年その店で働いてきた店員のHが店の金を持ち逃げした。女と一緒だったとも聞いた。当時、年齢は40ぐらいであったであろうか。被害届は出さなかった。知られたくない店の事情を知っていたからかもしれない。出て行ったアパートの部屋には大量の酒瓶が残されていた。酒瓶の中身は彼の小便であった。部屋の外にある便所に行くのが面倒臭かったのであろう。
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紫川の水面(3) [2008年07月04日(Fri)]
 高校時代は途中から折尾の近くに下宿していた。学校が終わると(終わらなくても)、バイトに行くために列車に乗り、小倉に着くまでに列車のトイレで制服から私服に着替えていた。そして、終電で折尾まで帰る暮らしが続いた。最終の時間は小倉発0時08分だったと記憶している。
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