日本人患者は多く、外国人患者は少なかった一日。それでも78人中、外国人患者は8人
10.2%だった。
自費診療のアメリカ人が3人、全員米軍基地関係。スリランカ人2人、ペルー人、ブラジル人、カンボジア人だった。
カンボジア人男性50歳、インドシナ難民として10歳ごろに定住目的で来日。彼らはタイのサーケオ県というカンボジア国境に接した県のカオイダンという土地にタイ政府が作ったカンボジア難民用のキャンプに逃げて来て、日本定住を希望、その後、日本政府が派遣した人たちのインタビューを受け、定住意思が固いと判定されて日本に受け入れられた人たちだ。受け入れられると数家族に分かれて、バンコクのドンムアン空港から成田に向けて民間機で旅立ち、成田でアジア福祉教育財団難民事業本部の人たちの出迎えを受け、バスで大和市に設けられたインドシナ難民大和定住促進センターに入所し、1年間、日本の言葉、文化を学び、就職をあっせんされて退所、日本社会に旅立って行った。一部の人は姫路の定住促進センターに入所したはずだ。僕とインドシナ難民のカンボジア、ラオスの難民の人たちとは彼らが来日して定住センターに入所して以来の付き合いになる。来日直後の検診を大和市立病院の外来で特別な時間に私が行うのだが、成人はみな一様に顔が不安にあふれ、冬でもサンダルで寒がっていた。こどもの中には母国での恐怖の体験から夜中に奇声を発して走り回る子もいた。あれからもう40年ぐらいの時間が流れたのかと感慨深い。
ベトナムからのいわゆるボートピープルと呼ばれる人たちは上記のような受け入れ方法が確立していなかったころに小舟に乗って南シナ海に漕ぎ出し、漂流しながら、救ってくれる大型船を見つけ・・・というか見つけてもらい、その大型船が彼らを日本の港まで送り届け、まだ政府が対応策を考える前だったので、カリタスジャパンなどのNPOが引き受けてくれた人たちだ。南シナ海の嵐にあって沈没したり、大型船に見つけてもらえずに漂流を続けて餓死したり、海賊にとらわれて殺されたり、最後の方は見つけてくれた大型船が途中、日本に寄港する面倒臭さから無視されたり・・・そういう一か八かに命を懸けた人たちの一人が僕のクリニックでベトナム語の通訳として助けてくれているスタッフだ。6月だったか、ベトナム難民が初めて日本に上陸を許可されて50周年の感謝の集まりがあり、僕も彼らから招待された。インドシナ難民出身の一世も高齢化してきた。彼らから先生、ありがとうとかけてもらえる言葉、それが僕の一番の勲章だ。
2025年04月11日
2025年4月11日金曜
posted by AMDA IMIC at 09:32
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