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2023年07月21日

令和5年7月21日金曜

謹んでお悔やみを申し上げます。
開設当初から特定非営利活動法人AMDA国際医療情報センター副理事長を務めてくださった中西泉先生におかれましては、闘病中のところ、令和5年7月17日、逝去なさいました。20日の昼に同じAMDAグループの認定特定非営利活動法人AMDAの本部より逝去の一報をメールで受けました。その直後に奥様から電話をいただきました。ああ、本当にお亡くなりになったのだなと実感いたしました。
 中西泉先生は都立日比谷高校を卒業し、慶應義塾大学医学部に入学、卒後は外科学教室に入室、肝胆膵班に所属、レジデントの頃から手術テクニックが秀でており、また患者さんに寄り添う姿勢は人格者として先輩からも一目、置かれる存在でした。レジデント終了後は立川共済病院外科に医長として出向。あまりにも手術が上手で将来を嘱望されていらっしゃいましたが、お父様が急逝なさったことを受け、町谷原病院(現町田慶泉病院)を継承するために立川共済病院の職を辞されました。以後は地域医療と外国人医療に打ち込まれ、東京都病院協会の理事も務めていらっしゃいました。
 私は学生時代、中西泉先生の2学年後輩でした。しかし、先生に親しく接していただけるようになったのは同じ外科学教室のレジデント3年目で、出張病院から母校の外科学教室に戻ってからでした。配属になったのが6号棟4階という一般外科の病棟で、この病棟に所属する手術チームのトップが中西泉先生、私はそのチームのレジデントとなりました。先生の手術テクニックは噂通りで、教授助教授という先生方の第一助手を務めてもどちらがオペレーターかわからないほどの腕でした。それだけではなく、患者さんを想う心が深く、誰もが認める人格者でした。医学だけではなく、すべてに対する知識が極めて深い方でした。医師は研修の過程でさまざまな人の影響を受け、自分を作り上げていくのですが、中西泉先生はどんなに私が努力しても追いつけないと思うほどのすばらしい方で、私がいまだに至らぬ中でも医療を続けてこられたのは先生のおかげと思っています。
 平成2年1月に私が小林国際クリニックを大和市に設立してからは外国人医療のことでは本当に先生に助けていただきました。私のクリニックと先生の病院は大和市と町田市という違いはあれ、車でおよそ20分程度の距離にありました。入院が必要だが、訳アリの外国人患者さんを入院させていただき、手術をしていただいたこともありました。二人でよく外国人医療の病診連携だねと笑いあったこともありました。平成3年4月にAMDA国際医療情報センターを設立する際には、当時は世迷言のようにも言われた同センター設立の趣旨に共鳴してくださり、100万円を寄付してくださいました。設立後は副理事長として表に出ることはあまりなさらず、難問にぶつかったその時、その時、極めて適切なアドバイスをしてくださいました。中西泉先生という大きな後ろ盾がいつも私を支えてくださっていたのです。
 7年ほど前、先生が体調を崩された時には手術をお受けになった後に電話をいただきました。ご自分の病気について冷静にお話しなさっていたことが印象的でした。そして今年の2月か3月ごろ、ご自分の健康について電話をいただきました。君も健康に気をつけるんだよと言われました。最後にお声を聞いたのは5月の下旬でした。突然、私の携帯に電話をいただきました。入院して化学療法を受けているのだが、頭がときどき、よくわからなくてねとおっしゃっていました。いつも忙しかった先生にしては珍しく、いつまでも電話をお切りにならずにお話しされていたことが忘れられません。
 心からご冥福をお祈りいたします。
      特定非営利活動法人 AMDA国際医療情報センター理事長 小林米幸
posted by AMDA IMIC at 08:02 | TrackBack(0) | (カテゴリーなし)