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2020年07月06日

令和2年7月6日月曜

コロンビア人女性49歳、初めて特定健診を受けにやってきた。今までHBs抗原やHCV抗体についても検査したことがないと言うので、大和市の追加分として施行。通訳を兼ねて日本生まれのお嬢さん17歳が付いてきた。母親とはスペイン語と英語でやりとりしてほとんどお嬢さんの出る幕はなかったが・・・将来、何になりたいの?と訊ねると、看護師になりたいと。専門学校に進学したいそうだ。スペイン語も不自由なく話す看護師が誕生したらすばらしい。がんばってねと伝えた。そういえば、外国籍で医療従事者という人たちをたくさん見て来た。一番記憶にあるのは僕が34年前から携わっていたインドシナ難民としてやってきた人たち。当時の共産革命で国を追われたり、国に希望が見いだせなくなって海外に脱出した人たちだ。日本は当時、インドシナ難民についてはいわゆる1万人枠を作り、日本に定住を希望するベトナム人約8000人、カンボジア人とラオス人を各々1000人ずつ、受け入れた。僕は大和市立病院外科に勤務しながら、カンボジア人とラオス人を受け入れたインドシナ難民大和定住促進センターの無料の嘱託医を引き受けていた。カンボジア人難民の中から働きながら苦労して勉強し、准看となった人が2名、そのうち、1人は7言語を話し、その後、結婚し、勉強を続け、看護師として現在も働いている。もう1人は結婚して生まれた娘さんがすでに大学の看護学部を卒業して働いている。ラオス人では印象に残っているのは看護師として働いている3姉妹、カンボジア人の2人とラオス人3姉妹の長女は親しい友人。僕の青春・・とは言わないが、30台後半から開業した40歳、さらにその後、10年ぐらい、インドシナ難民出身者の医療を守ることでいっしょに悪戦苦闘し、それがその後の外国人医療につながる糸口となった。懐かしい仲間だ。つい、1週間ほど前に7言語を話すカンボジア出身の彼女が「通りかかったから・・」と寄ってくれた。よもやま話に花が咲き、嬉しかった。人数は少ないが、あれから40年以上すぎた今でも定期的に受診してくれるインドシナ難民出身者が10人程度、なにかあったら相談を兼ねてやってきてくれる人たちがやはり10人程度。ベトナム難民出身者でつくるベトナム人の会や同じくカンボジア出身者の会、ラオス人出身者の会のまとめ役がときどき、相談に来るときもある。外科専門医をあのまま突き進むことより、彼らと生きることを選択した。みんな、僕の兄弟、家族。誰にも体験できない、いい医者人生を送らせてもらっているとありがたく思っている。
posted by AMDA IMIC at 09:02 | TrackBack(0) | (カテゴリーなし)