振り返ってみれば、1990年の開業当初は一か月の延べの外国人患者数は30人台から50人台だった。一日に換算すると一か月の診療後はほぼ20日なので、一日に二人または三人程度の外国人患者数だったと想像できるし、まったく外国人患者がいないという日も少なからずあった。大学の先輩等からは六本木や赤坂あたりで国際クリニックというなら理解はできるが、大和なんてところで国際クリニックなんて外国人患者なんているの?なにするつもり?と不審がられた。
大和市立病院に勤務しながら、インドシナ難民大和定住促進センターで日本に定住目的で受け入れられたカンボジア人、ラオス人の人たちの来日時の検診などを長く行っていた。
彼らに医療が必要な場合には定住センターの通訳から相談があり、本当に医療が必要と判断した場合には通訳が同行してまず、外科医である僕のところに連れて来た。僕はそれを適切な診療科に振り分け、僕自身が診られるケースはできるだけ自分で済ませるようにした。
そんなことをしているうちに同病院に外国人が受診すると、なぜか僕が受付に呼ばれるようになり、彼らとの対応をするようになった。きっと事務サイドでは言葉の問題があったに違いない。当時は日本のあちこちにフィリピンハブがあった。大和市も例外ではなく、そういうところに勤務するフィリピン人女性が男性スタッフに連れられて僕の外来にやってくるなんてことも珍しいことではなかった。
このようなフィリピン人女性の中には日本という外国にやってきて落ち込んだり、フィリピンハブの厳しい規則にうつに陥ったり、十二指腸潰瘍に罹患したりと、外科という言葉が示すところの範疇からはずれていた人たちも少なくなく・・・というよりこちらのほうが多く、外科の外来で本来は外科の患者ではない外国人を僕が診察することについて、冷ややかに見ている人たちの存在を十分に感じていた。
このような環境下で仕事をすることは僕にとっても一種のストレスだった。外科医の道をさらに突き詰めるのか、あるいは言葉の心配なく、外国人患者も日本人患者と同様に受け入れる、そんな医師の道を選択するのか、結論に迷うことはなかった。肌感覚で潜在患者である外国人が少なからず存在しているということは大和市立病院勤務時に体験していたので。
肝はなに?と聞かれると、それは日本人も外国人も地域の住民として分け隔てなく受け入れること、そして外国人患者が通訳なしで受診しやすいように院内で外国語に対応すること。そして最大の肝は外国人を差別することもいけないことだが、日本人が逆差別と感じるような対応は絶対にしないこと。このあたりだと思う。
開業から35年、現在は月の延べ外国人患者数は250人から感染症が流行する月などは350人程度、そしてこの2年間ぐらい、外国人患者がいなかったという日は記憶にない。
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