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2022年11月24日

令和4年11月24日木曜

22日の外国人患者は20人。カンボジア人女性65歳に内視鏡検査を施行。インドシナ難民として36年前に定住目的で入国。あのころは同じインドシナ難民としてくくられるベトナムからの難民がボートヒープルと呼ばれて有名だった。ベトナムの海岸から人目を忍んでブローカーの言葉を信じて小さな小舟に乗り込み、外海へ。南シナ海で外航航路の大きな船に見つけてもらい、その船に乗せてもらって人道的な配慮から一番近いまたは船にとって都合のいい港で降ろしてもらい、その国の受け入れ許可をもらうケースが多かった。大きな船に見つけてもらえなかったり、見つけても無視されたり、天候の悪化で小舟が転覆してしまったりと命がけの逃避行だった。実際にかなりの人たちが亡くなったと聞く。乗っている人たちも南ベトナム時代の兵士や警察、役人とその家族など、北ベトナムと敵対してきた人たちが迫害や虐殺を恐れて、命がけの逃避行もいとわないという人たちだった。当初は船が日本の港に着いて上陸が許可されても、日本政府としての受け入れ態勢が整っておらず、群馬県にあるカリタスジャパンなどの施設に収容されていった。このような人たちが次々と船で日本の港にたどり着くようなことが続き、さらにすでに難民を受け入れていた欧米から「日本の難民支援はお金は出すが、欧米やオーストラリアが行っているような難民の受け入れはしない」と非難される事態になって日本政府も本腰を入れてインドシナ3国からの難民受け入れに取り組むようになった。
 具体的にはアジア福祉教育財団の中に難民事業本部を作り、その下に国際救援センター(東京・大井)、大和定住促進センター、姫路定住促進センターの3つの受け入れ機関を作った。たぶん、外交上の問題を考え、政府自身が取り組むスタイルにはしなかったのだろう。アジア福祉教育財団そのものは民間団体だったが、理事長が旧文部省の大臣を務めた人物で、難民事業本部にも法務省、外務省関係者が多数入っていて、政府から助成金、委託事業費が降りていたことから、実質的には日本政府が取り組んでいた事業と言えよう。
 以後、とくにカンボジア難民に関してはカンボジア国境の西に接しているタイ国サケオ県のカオイダン難民キャンプに、ラオス難民に関してはラオス国境のメコン河を渡った南に広がるとイサーンと呼ばれる東北タイに設けられたラオス難民キャンプに難民事業本部のチームが出かけて行って、日本に定住する希望者を募り、その希望者に面談を行っていた。その結果、日本を経由して第三国に行くのではなく、日本に定住したいという人たちが日本政府の許可のもとに飛行機でタイのドンムアン空港から成田空港にやってくることになった。日本に到着した彼らは大和定住促進センター、または姫路定住促進センターに入所し、約1年日本語や日本の習慣を学び、就職先が決まった順に退所していった。カンボジアやラオス難民が東京の国際救援センターに入所することはなかった。国際救援センターの入所者はベトナム人だけで、これはベトナム人とカンボジア・ラオス人の民族感情がフランス植民地時代からの歴史的な理由で悪かったからである。
 大和定住促進センターに入所した人たちは入所後、一週間ぐらいのうちに近くの公立病院で健康診断を受けることになっていた。その担当が僕だった。平日の午後、使っていない外来診療の部屋でタイの難民キャンプ出国時の健康診断の英文データーを読みながら、カンボジア語やラオス語の通訳を交えて次々と検診を行った。幼い子供から大人まで、皆が不安な目をしていて、10人から20人単位での検診であったのに彼らの待合室が静まり返っていたことが今でも忘れられない。
 内視鏡検査を行ったカンボジア人女性は僕が検診を行った一人、彼らとはそんなころからの間柄だ。定期的に通院してくる人もいるし、病気になった時だけ、やってくる人もいる。36年といえば、僕が生きてきた時間の約半分、こんなに長い時間を共有してきたのかと思う。彼らが古い友人のように接してくれるのがうれしい。内視鏡検査の結果は例年通りの難治性逆流性食道炎だった。症状はないようだが、もう一段強く胃酸分泌を抑える薬剤に変更した。

posted by AMDAcenter at 09:12 | TrackBack(0) | (カテゴリーなし)
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