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2022年07月04日

令和4年7月4日月曜

タイ人男性51歳、高血圧の治療のために来院。いつものように血圧を測定、異常はなく、「いつものように」内服薬を処方した。帰り際に「11月になったら3年ぶりに一時帰国する」と嬉しそうに話してくれた。先生も一度来てよ、と僕がタイに出かけていることを知っていて誘ってくれる。ラオスとの国境、ノンカーイ県のタイ・ラオス友好橋のほんとにたもとに家があるそうだ。一度、行ってみたい。きれいなところとは聞いているし、橋を渡って日帰りでラオスにも行けるし、橋を渡ったところがラオスの首都ビエンチャンだ。長くフランスの植民地だったところで、ビエンチャンの入り口に凱旋門とよく似た門がある。
もともと、ナコンラチャシマー、通称コラートと呼ばれる地域から東北タイは始まる。バンコクから東北タイに続く鉄路はナコンラチャシマーから二つに分岐する。北北東に走る線はコンケーン県、ウドンタニ県を貫いてメコン河のほとり、ノンカーイが終点だ。コンケーンには東北タイ唯一の国立大学コンケーン大学がある。ノンカーイの先だが、今は、友好橋に鉄道が走り、ビエンチャンまで行けるそうだが、国境を超えることもあり、バンコクから直行する列車はなかったと記憶している。この鉄路に沿った地域はタイの中でもラオ族の人たちが中心の地域で、ラオス語と極めて似ているイサーン語が話されているという。
ナコンラチャシマーから東へ分岐する鉄路はほぼ真東に、ブリラム、スリン、シーサケット、ウボンラチャタニ―が終点だ。途中、ブリラムからはカンボジアとの国境である低い山脈の北側の平野に走るスーパーハイウェイと呼ばれる国道24号線の北側をほぼ平行に走っている。このあたりはタイシルクの生産地だ。3回ほど行ったことがあるが、村によってはカンボジア語と思われる言葉が飛び交っていて、何を話しているのか、わからない。途中下車してスリンから車を雇い、オスマックというタイ側の国境の市場まで行ったことがある。市場の売り子のおばちゃんたちは国境を越えてきたカンボジア人だと聞いた。スリン県を中心に文字がない言葉を持っている少数民族スワイ族が住んでいる。スリン県の売り物はタイシルクと象で、タイの象使いの多くはこのスワイ族の男性だと言われている。クリニックのカンボジア人患者に録音したスワイ語を聞いてもらったところ、似た単語も多いがちがうと言われた。このカンボジア人患者に言われたもう一言が忘れられない。「先生、あそこの山岳地帯まで行ったの? 私たち、あそこの崖を上ってタイ領内に逃げ込もうとしたのよ」と。ポルポト政権の虐殺を逃れるために多くの知識層、都会の人たちがジャングルを夜中に歩いて逃げようとしたのだ。そういえばずいぶん前だが、カンボジア人がたくさん逃げてきたとあのあたりのタイ人が話していた。同じカンボジア語を話すので、逃げて潜伏しやすかったのだろう。スワイ族は国境の反対側、カンボジア領内にも数十万人が住んでいる。カンボジアでは古くから中国系の人との血の交配が続き、実はスワイ族こそ本当の原カンボジア人だと僕の患者が教えてくれたが、真実なのかどうかはわからない。ウボンラチャタニ―まで行くと、カンボジア国境からは少し遠ざかり、さらに東にはラオス南部の最大都市であるパクセーがある。ラオ族文化の色濃いところだ。
そしてこのあたり、タイとラオスの国境を流れていたメコン河は国境を離れてラオス領内を流れ、カンボジア領内に入り、メコンデルタと呼ばれるベトナム南部ホーチミンシティ、旧サイゴンまで流れていく。この大河は長い歴史の証人でもある。現在、東北タイ、とくにウドンタニ県やサコンナコン、ナコンパノム、ムクダハンにはたくさんのベトナム系タイ人が暮らしている。彼らはベトナムがフランスと独立戦争を戦った時、戦火を逃れてメコン河を川上へ川上へと逃げ、タイ領内に上陸した人たちの子孫で、僕の患者にも数人いる。
 僕がタイに惹かれる一つが音楽だ。タイの音楽には大きく4つのジャンルがある。一つはルーククルン、別名都会の歌と呼ばれる洗練された流行歌、もう一つはルークトゥンと呼ばれる田舎の歌と呼ばれる流行歌で、どちらも味わいがあり、タイ語で歌われる。私が好きなのは男性なら元は牛飼いという経歴を持つモンシットカムソイとか、女性なら伝説のブンプアン・ドアイチャン、彼女は楽譜が読めなかったことでタイの美空ひばりと言われた人だ。プンは中部タイのカンペンペットの出身だ。なぜか、このカンペンペットを出身地とする有名歌手は多く、男性歌手の大御所、ワイポット・ペットスパンもその一人で、ブンを見出したのはワイポットだと言われている。プンの彼女の歌の歌詞の一つに「夕暮れになったらカラスがねぐらに帰るように私も田舎に帰りたい」という一節があるそうだ。80年代ごろから巨大都市バンコクに田舎から労働者が集まり始めた。決して豊かではない彼らがプンの歌を聞いて田舎を想い、涙したという。今でもプンの命日にたくさんの歌手が集まってプンの追悼公演を行っている。低音でしゃがれ声でタイ人ならだれでも知っているシリポン・アムアイポンだ。個人的には彼女の悲しさを乗せた歌に心惹かれる。シリポンもしばらく見かけないと思っていたが、つい先日、故ラマ9世を偲んで8人の女性歌手が喪服で歌う中に彼女の姿と歌声があった。
次はモーラムと呼ばれるラオ族の歌で、広くタイで受け入れられている。ラムシンというドラムを加えた早いリズムの歌であると、まるで昔のディスコになる。歌詞はラオス語というかイサーン語である。東北タイのラオ族の音楽を広くタイに認知させた伝説の女性歌手がいる。ハニー・シーイサーンだ。「シー」はSri、仏教用語で光、そして「イサーン」は出身地の東北タイのことだ。一度だけ、昔の彼女のコンサートのビデオを見たことがあるが、白いドレスで片手にマイクを持ち、両手でイサーンの踊りを踊りながら歌う。引き込まれるように妖艶だった。彼女は事故で若くして亡くなった。東北タイ南部のウボンラチャタニ―でコンサートを行い、次のコンサートの地に向かっていたが、忘れものに気がついて引き返す途中、シーサケット付近で乗っていたピックアップトラックが横転して亡くなったのだ。彼女が亡くなったニュースはまたたく間にバンコクに伝わった。当時、バンコクのタクシー運転手はイサーン出身の男性が多く、都会で貧しい生活を送っていた。運転しながらハニーの歌を聞いてふるさとを想っていたという。ハニーが亡くなったことを知った運転手たちはタクシーの警笛を鳴らして悲しみを表したそうだ。今はなんといってもチンタラ―が知名度も実力もNo1だろう。タイの国民的歌手、トンチャイ・バードとも共演している。
最後がカントゥルムというカンボジア系の人たちの音楽で、東北タイ南部のカンボジア系のタイ人が多い地域の音楽だ。今はタイのテレビでも見聞きすることができるほど、認知度が上がっている。歌詞はカンボジア語で、タイ語で歌われる場合もあるようだ。もちろんカンボジア国内は皆、このカントゥルムだ。ずいぶん前に東京のカンボジア大使館に招かれたときにカントゥルムの話をしたら、当時の大使がたいそう、驚いていらっしゃった。モーラムよりもバンコクでの認知度は低いが、あのココナッツに一本の弦を立てて引くソウの音が独特。心惹かれる。この楽器はケンやビーンという独特の楽器が奏でるモーラムにはない。モーラムとカントゥルムの踊り・・というかイサーンやラオスの踊りとカンボジアの踊りは、別に決まった形で踊る必要はないのだが、見ていると違う。両方とも好きだし、へたくそながらに踊れるのだが、僕はカンボジアから難民としてやってきた人たちに教わったカンボジアの踊り方のほうが好きだ。ずいぶん前だが、カンボジアから難民として日本に受け入れられた人たちの集会に招かれて行くと、必ず最後はこの踊りになる。その中でも僕が見ていて好きだったのは、エビ採りの踊り。川でエビを採るときの踊りということだが、男女が横一列3人か4人になり、それが縦に10列とか15列とか、川からエビをすくいあげるようなポーズで円を描きながら踊る。その時の彼らの顔は見たことがないほど生き生きとしていた。
posted by AMDAcenter at 09:28 | TrackBack(0) | (カテゴリーなし)
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