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2020年11月05日

令和2年11月5日木曜

市内北部からカンボジア人男性30歳、来院。カンボジア語は限られた単語歯科わからないが、この年齢ならインドシナ難民2世だろうから日本語でなんとかなるだろうと思ったが・・・僕の思い込みだった。彼もいっしょにやってきた奥様もカンボジア語のほかには英語しか話せない。会社の健診で中性脂肪が高いのと白血球数が多いと指摘を受けて、医療機関を受診するようにと勧められてやってきたとのことだった。採血が終わった後に訊ねてみると、カンボジアから来日、日本の会社で働いているという。「そういえば、大和市の南にある団地のほうはカンボジア人がたくさん住んでいるらしい」と彼が話すので、原始共産主義のポルポト政権下の大虐殺でカンボジアから数百万人の人が難民となって海外へ逃れたときに、日本政府がカンボジア国境に接するタイのサケオ県のカオイダンの難民キャンプに逃れていた人たちの中から約1000人を合法的に受け入れ、その政府系の受け入れ施設2つのうちの一つがこの市内にあったことを話してあげた。そして僕がその施設の嘱託医を務めていた関係で僕のクリニックにカンボジア人患者が多いことも教えてあげると、不思議そうな顔をしていた。そうかもしれない、ポルポトによる革命がおきたのが70年代、もう50年も前、彼は30歳だから、少しカンボジアの世の中が落ち着いたころに生まれたのだろう。そういえば、僕にとっての初めてのカンボジア人患者というのはインドシナ難民の人たちではない。78年に慶応病院のレジデントを務めていたころ、カンボジア人留学生を主治医として診ていたことがあった。彼はカンボジア政府奨学金による留学生で、あごの軟部組織の腫瘍で入院、手術を受けて退院していった。おとなしくていつもにこにことしていて小柄な男性だった。それから1年か2年後に、六本木へ行く道を歩いていたら彼とばったり出会った。どこへ行くのか?と訊ねたら、大使館に呼び出されて行くとのことだった。慶応病院から六本木に向かって歩いていくと、246を通り過ぎてしばらくしたところを左に折れて坂を下がった住宅地の一角に今でもカンボジア大使館がある。あの頃は大使館員もポルポト政権に近い人となり、全ての留学生に「呼び出し」をかけ、ポルポト政権に忠誠を誓うか、どうかを確かめていた。彼はカンボジアに帰ると話していたが、今はどうしていることか、いつも気になっていた。原始共産制を信奉するポルポト政権下では農業だけが人間らしい仕事とされた。医師や看護師、教員、銀行員をはじめ、都会に住む人たちは革命の敵とみなされ、一家で地方に追放されて集団農場のようなところで強制的に肉体労働をさせられた。夜になるとひとりひとり呼び出され、仕事を聞かれ、医師や看護師、教員などは皆殺しにされた。朝、起きると一家族がいなくなっている、人々は何がおこったのかを悟るようになり、呼び出されても身分を隠すようになった。すると離れて「管理」していたこどもたちに「君のお父さんは何をしていた人?」と尋ねる。こどもは何も知らないから話してしまう。するとこどもを含めて一家全員が殺された。そういうところからも逃げ出して生き延びた人たちがいる。僕の患者の中にもいて、いまだに夢を見るという。こういうカンボジアの姿をやってきた男性はもはや知らないのかもしれない。
posted by AMDAcenter at 09:04 | TrackBack(0) | (カテゴリーなし)
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