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初めてのアフリカ No.2 [2010年02月19日(Fri)]
初めてのアフリカ No.2                    
(1999年1月)

「早川千昌さんとの出会い」
                       
ここで最初にケニアで出会った早川千昌さんについて触れておきたい。
彼女がいなければその後の私のケニアとの関わりはできなかったと断言してもいい。

その頃彼女はケニア人の男性と結婚し、2人の子供を育てながら、日本人が経営する旅行会社で働いていたが、自分はずーっと今のままで過ごして良いのだろうか?と考えていた時期であった。

何かを始めたいと考えていたが何をどうしたらいいのだろうか悩んでいた…

そこで私が提案をして、とにかく自分がアフリカに住んでの体験や感じている事を、仙台の人達に聞かせてほしいと言う事になり、そこからすべてが始まったのである。

その後彼女はキベラスラムに住む友人のリリアンと共に、貧困の為に学校に行きたくとも行けないでいるストリートチルドレンや、スラムの子供達の為の学校運営を始めたのである。


早川さん達が始めたスラムの中の小学校

現在も彼女は年に1度か2度は日本全国を回り、子供たちの様子・アフリカの文化・伝統音楽などを伝え続けている。

最初は20人ほどで始まった学校も、次から次と起こる様々な問題をクリアーしながら、今では350人を超える子供たちが通っている。

ちなみにこの小学校は政府からの援助は全く無く、独自で資金を作り出し運営している学校である。
そして私のケニアとの交流もこのマゴソスクールを通じて続いてきたのである。

ここで話を始めてのアフリカに戻そう。

「巨大スラムキベラ」

ケニアに到着した翌日、さっそく長男の仕事場に連れて行かれた。

その場所は、赤茶けたトタン屋根をかぶせた小さな小さな小屋がびっしりと迷路のように詰まっていて、ゴミの山・生活排水のたれ流し等による悪臭が漂うスラム地区だった。

酷い所だ、今時こんな所があるのか、でもなんだか自分の子供のころを思い出す様な懐かしさも感じた。
しかし今の日本では考えられない状況だ。

ここはケニア最大のスラム。その当時で人口80万人もの人が住んでいると言われていた。
長男はここで援助の活動をしている日本のNGOで働いていた。
凄いゴミや悪臭、そして汚水。ここで転んでしまったら大変だと足元をしっかり踏みしめて歩いた。

昨日見たあんな大都会から車で15分も走った所である。
もちろん観光客は危険も伴うので絶対に来れない場所である。


キベラの家並

そこがどの様な場所かもよく理解出来ないまま私は、
「一体この国の衛生教育はどうなっているの? もっとしっかり教育するべきだ。」
と凸凹でゴミだらけの道を歩きながら言った。

すると長男は言う
「日本から来た人はみんな最初そう言う、しかしここの人達はお腹が一杯になる事がまず先なのだよ」・・・??
そこで又、
「貴方は一体こんなところで何をしているの?」
と聞いた。

そうすると私を突き動かした決定的返事が返ってきた。

「母ちゃんはろくに言葉が話せなくとも、簡単にこんな遠くまでも来る事が出来る。
しかしここの人たちはパスポートを取ることさえ難しいんだよ・・・。同じ地球上の人間としてそんな理不尽で不平等な事があっていいと思うか?」
と言われた。

私は何の事か分からなかった。
慢性的貧困の中で、田舎から職を求め都会に出てくるが、失業率50%以上と言われ1日
100円の仕事もない人が殆どだと言う。
この地区ではそんな人々が80万人も集まって、助け合いながら田舎に仕送りもしているらしい。

ここでは野菜・炭・肉・卵・揚げもの等、何でも売っている。そして床屋やビデオ映画を見る所もあり・道端のラジオからは明るい音楽が流れてくる。
大工仕事・鋳物屋・民芸品作り・洋裁店・薬局・ゴミから物を拾い出し売る人買う人。どんなものも再利用されて一つの町が出来上がっている

しかし人々は明るく大きな声で話している。水も電気もない家が殆どなのに。
私から見るとこんな大変そうな暮らしと思うが、悲壮感は全く無しでとにかく明るい。

政府からも何の援助も受けられなくとも、自分達の力で明るく生き抜いている。
今日1日食べられたことに感謝し、すべて神のおかげと神に感謝する。
そんな処で長男は彼らの生活自立の為の手助けをしていたのだ。

スラムの中をいろいろ見て回り最後に、元従軍看護婦だったと言うスラムに住むおばさんが自費で産婦人科医院を建設し、お金が尽きて途中になっているところ所に連れて行かれた。
もちろん医者が居る訳では無いので、彼女は医者の役目もやるらしい。

何処からかの資金援助を求めていると言うが、なかなか難しいとの事。

街の立派な病院で、高い病院代を払う事ができないスラムの人達にとって、ここで入院してお産が出来たら非常に良いのだろうと私は思った。

その建物はここでは珍しく2階建て。半分出来たまま進んでいない2階の廊下からトタン屋根が延々と続くスラムを見渡して息子は私に言った。

「この家並を見て母ちゃんはどう思う?・・」と

私は何だか知らないが、ただただ涙が流れて止まらなかった。
そして思わず

「私に何か手伝える事はあるかしら?」

と言っている自分がいたのだった。
初めてのアフリカ。遊びに来た筈なのに、なぜか考えても見なかった新しい事が始まりそうである。

次回へ続く
初めてのアフリカ [2010年02月10日(Wed)]


初めてのアフリカ No.1 (1999年1月)   
 
 

1998年12月暮も押し迫っていた時
私はケニアのナイロビという所(あえてこう言いたい)に行くために
飛行機に乗った。
長男がナイロビにいたのである。

そんな遠い国で一体息子は何をしているのであろうか?
[どうせ母ちゃんに言っても分からないから]
と詳しい話をしてくれない悲しい
仕方がないから時間もある事だし、
確かめながらアフリカとはどんな所なのか見てこようと思って、
全然言葉もしゃべれないのに出掛けて行ったのだった。

それまでの55年間、私にはアフリカは遠い世界、
というより飢餓とか貧困等に関しても
テレビの中でで見る世界でしかなかった。

ましてや12年前突然夫を亡くし、
3人の子供と共に生活をしていく為に必死で働いて来た。
そんな生活も子供の成長とともに一段落する時が来ていた。
ところがその頃になって、もともとあった持病が悪化し、
無理の出来ない体になっていた為仕事を辞めざるを得なかった。


しかし今考えてみれば、
私の人生こうなる様になっていたのかも知れない。
そうでなければ、
あの明るくて、
エネルギッシュで、
逞しく生きる人々に出会うことはなかったのだから太陽

何はともあれ、どうやってアフリカに行くのだろうか?


ちょうど年末だったので、息子からは、
インド航空にはだれか必ずケニアに来る旅行者がいるはずだから
その人達についてくればいいと言われたが・・。

なるほどそうか〜・そして案の定、
成田空港ではそれらしいツアー客の団体が目にとまった。
旅行会社の名前は聞いていたので間違いない。
もちろんその人たちにお愛想をして、後ろをついて出発した。

ムンバイで1泊し、1日半かけてナイロビに着くはずである。
2日目インド洋を超えるとアフリカ大陸へ、
眼下に見えるのは赤々とした巨大な岩の割れ目の様なものが
続いているのが見えて来た。
『一体この景色はだれが作ったの?』 と
叫びたくなる程の衝動に駆られながら
自然の凄さと恐ろしささえ感じる光景である。

それを過ぎると今度飛行機は悠然とサバンナの上空を飛んでいる。
眼を皿のようにして
象はいないか、キリンはいないか、
ぽつぽつ見えるあの丸い小屋のようなものは何?? 
赤土の広い・広い・ただ広い風景が広がっている。

ナイロビのジョモケニヤッタ国際空港についた。
正直いって国際空港と言っても
そんなに大きいとは感じない薄暗い空港だった。

男も女も皆体格のいい黒人しかいない、
みんな英語を話している、
一瞬怖さを感じた。

しかしふと我に返った。
此処は『アフリカ』なのだ!!
黒人がいるのは当たり前!!
始めての空港で戸惑ったが、何とか空港の外に出ると息子は真っ黒に日焼けした顔で迎えに来ていた。
会うのは3年ぶりぐらいだろうか・・・
タクシーに乗って空港を出た。

それにしても冬の仙台から一挙にアフリカ・・・
汗が噴き出ている。
これでもナイロビは涼しいらしい。

さてどんな所に連れて行かれるのであろうか?
街の風景は想像とはかけ離れていた。
車の渋滞が排気ガスとともにすごい。
たくさんの人が黙々と歩いている。
車が止まるたびに様々なものを持って物売りが寄ってくる。
高いビルが並んでいる。
男性はびしっとネクタイをし、
女性はスーツ姿で大きなおしりを揺さぶりながら
ビジネス街を往来している。

なんとケニアは大都会であったのだ。

こうして私は長男が居候をしてお世話になっていた
早川千晶さんと出会う。
彼女はもうケニア人と結婚し2児の母親である。

この早川さんとの出会いは
その後の私の人生が、想像だにしない方向へと
進んでいく事に繋がっていくのであった。力こぶ
はじめに NO2 [2010年01月20日(Wed)]
はじめに NO2

理事長 石原邦子


そして続けて行くうちに、やることが見えてきて12年目にして現地にNGOを設立し、フェアトレード製品の発展を見据えて、次世代に引き継がれようとしているのである。
10年一区切りだとしたら今12年の歩みを振り返って見るにあたって、一体どうしてこんなに長く続けて来られたのだろうかを挙げてみる事にした。

長く続いたわけ
@ 好きであったこと。
:人間が好き
  厳しい環境にいながらハクナマタタ(問題ない)と笑っている人々に学ぶ物がある。
  彼らと長い関係を続けていきたいと思った。
:珍しいものが好き
  彼らが作るアフリカならではの色彩豊かな布や、手作り品に魅かれた。
:商売が好き
  これまでも役立つもの、楽しいものなどを販売してきた。

A 良きカウンターパートとの出会い。
*スラムの小学校支援
:現地に長く住み、人々の生活・考え方などを知り尽くした日本人と、その友人のスラム住人との出会いがあった。
:2人とも厳しい立場にいる子供達の教育に情熱を持ち、独自で学校運営を始めるという企画に資金援助をする形で参加し、活動を開始出来た。
:日本で集まった会費・寄付・売上収益を、現地カウンターパートが給食費や教師給料等に運用し、又現地カウンターパート独自の猛烈な努力により持続発展が続いている。
*スラム職人の経済的自立への支援
 :民芸品製作グループとの出会いは定期的注文により経済的な手助けとなっている。
  しかしデザインは良くても品質と仕上がりが悪く、同情で買って貰える程度であった。
技術指導により品質が向上、日本での販売が充分可能な物が作れる様になり、今後の発展が期待できる。

B 続けているからこそ出来てくる信頼関係と発展性
:継続すること自体に実績が伴い、現地及び日本の支援者との信頼関係が深まり次への期待と発展性に繋がっている。

ここから見えてくるものはまず好きでなければ続かないということなのかも知れない。
苦しい事も沢山あるが、そのこと自体楽しめるのは好きだからそして尚且つそこに先への可能性を見出し、互いが満足できる信頼関係の構築によって出来上がっていく喜びを感じるから続けられるのであろうか。
はじめに NO1 [2010年01月17日(Sun)]
はじめに                                 NO1
                                      理事長 石原 邦子



 ケニアの人々との交流支援活動を始めて12年になろうとしている。この間決して大きなことをした訳でも、大きな結果を出している訳でもないが、多くの人からの理解と協力に支えられて、こんなに長きに亘って活動が続いている。

 そして、ケニアの人々との信頼関係と彼らの生活改善にも微々たる物ではあるが貢献できて来たと思える。特にスラム住んでいて学校に通える様になった子供たちのその後の人生の変化については、長く一緒に歩んで来ただけに感無量を感じ、現場で頑張っているカウンターパートに敬意を表したい。

 さて、55歳のおばさんが突然、見た事、感じた事から、それまで考えた事もなかったアフリカの人達への支援活動を始めようとしている。

 それでは支援活動をやり始めようと思ったきっかけはなんだろうか。

 @ 自分達と同じ地球人でありながら彼らの厳しい生活環境に対して理不尽を感じたこと。
 :ケニアにいた長男に、「母ちゃんは日本語以外の言葉は話せなくても日本人のパスポートだから簡単にここまで来ることが出来るが、このスラムの人達はパスポートを取る事さえ難しいんだよ。
同じ人間としてその様な不平等な事があって良いと思うか?」
この言葉に突き動かされた。
 
 A 先進国に暮らす今の自分達の恵まれた環境を再確認して貰い、根本的な矛盾やアフリカへの無関心と差別意識について問題提起をしたい。
 :知らない事を知ることは生き方まで変える。
正しくアフリカを伝える事への小さな使命感が芽生えた。

 B スラム住民が作る決して上手とは言えない手作り品に魅かれた。
 :日本に紹介したら彼らの役に立つと素直に思った。

恥ずかしい話だが、NGOもODAも区別がつかないのに無謀にも何かをやり始めようとしている私を見て、丁度その頃開発人類学を勉強中だった長男がアドバイスをくれた。
この世界には、ファンド型とNGO型があり
 1:ファンド型はできる可能性がある。
 2:NGO型は資金面等のリスクがあって今は難しい。
やるならファンド型でやったら良いと、言われているそのこと自体もよく理解出来ないまま思いだけは膨らんでいった。しかし、このファンド型でやって来た事が、無理をせず身の丈に合った活動として12年間続けてこられたのだと今なら分かる。



 はじめに NO2に続く
55才からのアフリカ交流 [2009年12月05日(Sat)]
ケニアに通い始めて12年目になろうとしている。
アフリカについては何も知らなかった。ただのおばさんがスラムの人達をとの関わりや、無認可の小学校を支援するなど、考えた事もない展開になっているのです。
その間の事は追い追い書いていこうと思うが、何かに取り付かれたようにアフリカ・アフリカ
と突き進んでいる私を見て、そのパワーと行動に刺激されたか貴女がやっているのだからと
長年に亘って応援してくれた沢山の友人達に感謝の気持ちでいっぱいです。
そして今NPO法人アマニ・ヤ・アフリカとして、アフリカの子供達のために自分も何か役に立ちたいからと、活動に参加してくれる沢山の仲間と、活動が益々活発になっていくかもしれないと、新たな可能性が見え今後がとても楽しみです。
スタートは只単に観光で訪れたケニアデしたが、そこで見たこと、聞いた事に私の心をが強く動かされ、そこから始まりました。
極度の貧困の中でスラムの人々はどこまでも明るく、温かく私を受け入れてくれたのです。
日本に帰ってからもずーと繋がっていたい、何か彼らにお手伝いできる事は無いだろうかと思う所から始まりました。
そして私の後半の人生はまったく変わってしまったのです。