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わんこそば [2014年09月06日(Sat)]
石原です

先日、盛岡に遊びに行って盛岡名物「わんこそば」を食べてきたんです。
皆さん、わんこそばって知ってますか?
味噌汁のお椀ぐらいの大きさの器に、少量のそばを給仕さんが入れて行くのをお客さんは食べ続けて、何杯食べられるかを競う(?)ゲームの様な食事です。

一杯の量は本当に少ないのでどんどん食べられるんですよ。
最初なんて、こりゃ100は軽いね。200でも行けるんじゃない?って思ってしまうぐらい。

しかし、50を超えたあたりからボディーブローのようにじわじわと満腹感が襲ってきます。
その頃になると給仕さんの本領発揮。
80を超えたあたりでの給仕さんの手の動きはもはや神業。
お椀のふたを閉めればそこでおしまいなのだけれど、食べ終わったらすぐに給仕さんが次のおそばを入れてきます。
そばのつゆが服にはねるぐらいの勢いで(一応紙ののエプロンしてます)おそばが空中を飛んできます。
こっちはお椀とお箸を持ってる訳だから蓋なんてできっこない!

一応こちらも限界まで頑張りたい、しかしダメなものはダメ・・・
もうダメだと感じてから10〜20は行かないといけない。
最後の方なんて、給仕さんが憎たらしくてしょうがない。
この人、人としてどうなの???と思ってしまう。

大抵は、最後に給仕さんが手を抜いてくれて終わりになるのだけれど、本気の1対1だったら絶対勝ち目はないんじゃないかな〜と思います。

記録は91杯。みんなに自慢したら、「全然だめですね。男の人なら普通100は行きますよ」と言われてしまった・・・・

次回は(あるのか?)101杯を目指します。


アラカワ・アフリカ [2014年08月24日(Sun)]
石原です
ご無沙汰しておりました。先日、8月20日に東京の尾久宮前小学校でマゴソスクールのお話しをしてきました。

「アラカワ・アフリカ」という荒川区とアフリカを繋げるイベントの一環で、お友達の画家ミヤザキケンスケ君がその中で行うプロジェクトのお手伝いです。
日本とケニアの小学生に絵を描いてもらい、その絵をフラッグ(旗)にして交換し合うという楽しい企画。マゴソスクールでのお絵かきは私が担当しましたが、日本の小学生たちが絵を描くのにも参加してきたのです。

当日はそれだけじゃなく、なんとマゴソスクールとのスカイプ交流もありました。
ちゃんと繋がるのかどうかハラハラドキドキしながらも何とかクリア。
スカイプカメラを通して日本とケニアの小学生の交流大成功でした!

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出来上がったフラッグは来年ミヤザキケンスケ君がケニアに持って行き、マゴソスクールでお披露目する予定です。

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私とケニア。そしてアマニ。 [2010年02月25日(Thu)]
私がアマニ出会ったのは、必然なのだろう。
最近は本当にそう思う。
ケニアで知り合った早川さん、マゴソスクール。
そして地元仙台で出会ったアマニ。

この出会いのつながりをとっても、
会うべくして会ったのだろうと
思わざるを得ない。


2006年大学3年次に、約5ヶ月間
ケニア林業研究所
(Kenya Forestry Research Institute)にて
インターンシップを実施した。
そのときの想いが、僕のベースであり、自分の軸である。

そこで今回は、インターン終了時に書いた
ブログの抜粋を見て頂きたい。
一部加筆・修正しておりますが。


これが私の想いの根源です。

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2006.9.18

いよいよケニアを発つ日がやってきた。
本当にあっという間で、信じられない。
来るとは分かっていた日が、とうとう訪れた。

そして、この5ヶ月を振り返ることは容易なことではない。
そんな薄っぺらなもんじゃない。

その全てを話そうとも思わない。

言葉にすればいいという風にも思わない。

言葉に出来ないこと、
自分の一部にすでになっていることもあるかもしれない。
いや、あるはずだ。

今年(2006年)の2月13日に、
マータイ氏の公演を早稲田で聞いた時から
自分の中で動き出した。

去年のスタツア(早稲田大学と富山大学主催)で
マータイ氏にケニアで会えなかったため、
その締めくくりにしようと公演を聞きにいった。

その夜、飲み会の席で今回のインターンの話を
いただいた。

その時の気持ちの高揚は今でも覚えている。
インターンに自分が行くなんて、想像もしていなかった。


スタツアから帰ってきて、
自分の専門性をもっと高めなければという思いと
サークルの幹事長としての仕事にやりがいも感じていた。

その時の僕は、
言わばサークルのことで頭がいっぱいだった。
80人を超えるメンバーをどうやって楽しませようか、
運営の仕方を他の幹部と考える日々だった。


しかし、
インターンという新たな選択肢に大きく心が揺れた。
魅力的だった。


その日の帰りの電車の中で、まず幹部のメーリスに、

『ケニアに行きたい』と流したことを覚えている。


自分の中で意志は決まっていたので、
そこからの展開は早かった。
親にも相談した。
実家に帰って、そして親が僕の家まで来てくれて。


自分の専門分野とは全く異なるが、
それでも行きたい理由はたくさんあった。

途上国で実際に生活することは、
多くのモノを僕に与えてくれるだろうと。

他の留学とは違い、
日本人が僕を含め、協力隊の方と2人だということ。


ここは非常に重要視していた。

もし仲間が居たら、
そこに甘えてしまう自分がいただろう。

そのことは必ず自分を強くしてくれるだろうと思っていた。
国際協力という分野での仕事を志し、
そのおぼろげなものを何とか明確にしたいと思った。

とにかく強くなりたかった。人としての軸が欲しかった。
それには一人になることも
大切なファクターだと思われた。

群れたくない。自分自身で勝負したいと。


ケニアに来て、本当に想像を超える孤独感も味わった。
その時期を抜けるまで本当に辛く、どうしようもなかった。
ただ単にそれは
自分の弱さだということは分かっている。

以前も書いたが、6時以降はほぼ一人。テレビもない。
気分が滅入っている時は、もっと凹む。
野外外出は好ましくない。


その結果、自問自答の日々。話し相手は自分一人。

自分と向き合うことの大切さ。

あの孤独感はなかなか味わえるもんじゃない。


けど、その時期を乗り越え、
励ましてくれる友達や家族、
そしてケニアの友達がいたから、

今がある。


‘Only is not Lonely’ という言葉がしっくりときた。


「ひとりは孤独じゃない」と。


そう、自分の周りには
支えてくれる沢山の人がいるということもわかった。
日本に居てはあまり感じることは出来なかった。
正確には、自分の感覚が鈍っていたと表現したほうが
分かりやすいだろうか。


自分の周りには人やモノが溢れていて、
それが当然のこととして生活していたからだ。

それが分かっただけでも、
今後の自分にとって大きな収穫と言える。



援助慣れしすぎているケニア。
長所と短所が極端すぎる。
日本の政治的な絡みももちろんある。

‘与えるだけの援助は人の心を蝕む’という
早川さんの言葉は、胸に響いた。

国際協力って何なのだろうと
疑問を抱かずにはいられない。
日本のODAの使われ方っていったい何のか?

次々に自分たちの欲求を満たしてくれる‘援助’は、
今や‘無いものねだり’のようで

もっと満たされたい、
もっといい環境に身を置きたいという
姿勢につながっている。

あまりにトップダウンの様相が強く、
下まで十分に行き届かない。
富を手にするのは、上の人間だけである。


この問いの答えは出ていない。
ただ、与えるだけという行為は、決して行ってはならない。
‘GIVE and TAKE’の関係までいかなきゃ。

やはり人づくりという部分は非常に重要であり、
答えのひとつとなり得るだろう。

上からの視点かもしれない。
時にはそういうものも必要なのだと思う。

しかし結局は、内からの自発的な動きがなければ、
うまくはいかないだろうと。


本当のニーズを知っているのは、外から来た者ではなく、
他でもなくその土地の人々である。

その彼らが自らの状況や環境に疑問を抱き、
問題意識を持てるような環境を
作っていくことが大切なのかなと。

そのとき初めて、
途上国が持っている‘生きていく強さ’や
‘パワー’が1つの方向に向かい、
大きな力となり国を動かしていくのだろう。

人づくりは面白そう。言ってみれば教師と同じ。


僕は自分の信じた道を進む。
遠回りしたって気にしない。


自分のやりたいことをやらずして、
自分の人生を歩んでいると言えるのか。


ケニアに来て、自分に自信が持てるようになった。
これが非常に大きい。

このインターンは、‘きっかけ’くらいに考えたほうが
ちょうど良いのかも知れない。


日本はどんな風に見えるのだろうか。
意外と簡単に日本の生活に馴染んでしまうのかな。
日本での生活は、それはそれで楽しみ。

今後の自分に期待して、ケニアを発ちます。

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私はボランティアという言葉のイメージが嫌いです。

フィリピンでも一ヶ月ほどの国際協力活動をしましたが、

自分たちが現地でしたことと
自分たちが現地から頂いたモノは

明らかに現地から頂いたモノの方が大きかった。
勉強させてもらっていたのです。

世の中かならず 『Give & Take』


もちろん日本にも目を背けてはいけない問題はあります。
それをないがしろにしているわけでもありません。

もし身近な友人が困っていたら、
みなさん手助けするでしょう。

それと同じ事で
私にとってケニアは身近な存在なだけです。
実際に現地で知り合っているからそう思うのでしょうが。


だから友人が困っているのなら、
自分の出来る範囲のことはする。

自分の出来る範囲を広げていく。

友人と手と手を合わせて、
共に歩み、共に明るい未来を創る。


ただそれだけのこと。

世の中は至ってシンプルOK

Posted by 事務局 at 01:09 | スタッフコラム | この記事のURL | コメント(0)
仙台で国際協力をする [2009年12月23日(Wed)]
 中津川です。

 今日は、少しカタイ文章になってしまうかもしれませんが、ご愛嬌を。

私には、志があります。自分の名前にこの「志」という字が入っていることに何度となく自分の人生に熱意をもって取り組む勇気を与えてもらったことか、と思うくらい、好きな言葉でもあります。

その志というが、仙台で国際協力をする、ということです。

途上国ではなく、自分が住んでいる町でできる国際協力があると信じて今までやってきました。

それは、国際協力を伝えること。世界の現状を伝えること。

そのためには、やっぱり世界のいろんな場所に行ったり、やったり、しないと伝えられないんですが、私の起点・基点は伝えたいという気持ちにあります。

そこで、出会ったのがアマニ・ヤ・アフリカです。

最初は、大学生のときで、イベントのお手伝いをさせてもらうところから関わりは始まりました。それから、フェアトレード品を委託して自分が企画した別のイベントで販売したり、ミーティングにも参加させてもらえるようになって、2,3年日本で活動をさせてもらった上で、ケニアに実際に1ヶ月行きました。

TVのドキュメント番組に映っていた映像が、目の前のリアルとしてそこの「ある」。
でも、「笑って」暮らしている。強がりかもしれないけど、その目の輝きは、子どもはもちろん、大人のケニア人も同じで、私たち日本人には見られない、確かに「強さ」もあった。

この人たちと、もっと関わりたい。

正直な気持ちでした。

支援の対象ではなく、友として。
彼らが生きるなら、自分もその人生に関わりたい。ともに歩みたい。

そうして今もアマニ・ヤ・アフリカの活動を続けて、彼らへの関わりを深めています。

使命感や正義感ではなく、その出会いやつながりに自分自身が責任と運命を感じています。
自分が勝手に手繰り寄せた糸は、相手が掴んでくれていた、そんな感覚があります。

理屈はそうあっても、同時に異文化に触れること自体楽しいんですよ、とても。

みなさんにもそれを共有したり、共感してもらえたりしたらうれしいなと思っています。

国際協力というとカタさがありますが、隣にいる人も、遠くにいる人も関わりあって、幸せに生きれるようにそれぞれ頑張る。それを実行し続けていくことが、国際協力なんだと思うんです。

そう思える人たちの輪が、もっともっと大きく増えていけばいいなと感じています。

一緒に国際協力(=頑張って幸せに生きる)しましょう。

中津川
アマニ・ボール [2009年12月18日(Fri)]
私は元々、モノ創りが好きで、デザインの学校に行き勉強をしました。アフリカに興味を持ち、生きている間に一度は行ってみたいと思ったのは、丁度その頃です。

それから約10年後。空から岩が落ちてきたみたいに突然、知人だった石原代表からケニア行きを誘われました。

「アフリカに行きたい!と願って投げたボールが、10年かけて地球をぐる〜っと一周して、忘れていた自分の頭にアタッ!当たった!!」という感じでした。

それから、ケニアに足を踏み入れる事となりましたが、日々の生活や仕事に追われ、アフリカ支援やボランティアに関わる心の余裕が持てませんでした。

それでも、(石原代表の声がけもあって)自分にやれる事を見つけて、少しずつ活動に参加させてもらう事が出来ました。

自分が、これまでやってきた事(生きてきた事)の中で、役に立てる事がある! 自分を活かせる場所になる!…?かも?…と思ったのが、活動に参加していくキッカケになったかもしれません。

それから、自分の「やれる事」から「やりたい事」が、徐々に見えてきました。すると、アマニ・ヤ・アフリカには、なんと!同じ願いのボールを投げている人たちがいたのです。

それぞれが投げたボールが、いつか、おっきな一つのボールになってアマニ・ヤ・アフリカに戻ってくるかもしれません。その日が来るのが、楽しみです。

佐藤優子
私がアマニを始めたわけ [2009年12月13日(Sun)]
 私は杉本みえ子と申します。


 それは今から7年ほど前のことでした。

 当時は小学校の教諭をしていましたが、以前から国際協力に興味を持っていたので、国際センターなどのイベントをよくのぞいていた。その時に出会ったのがアマニ・ヤ・アフリカ代表の石原さんでした。さっそくお願いして、学校の委員会の子供たちにアフリカのことを話してもらいました。

 石原さんの話をその後に行うユニセフ募金を結びつけたかった私は、どんなにアフリカが貧しく、困難な状態であるかを話してもらいたかったのですが彼女は「でも、ここの子供たちは元気だし、おなかがすいてもにこにこして暮らしているんですよ」ということを一貫して話すのです。

 むしろ日本の子供たちはスラムの子供たちからいろいろ学ぶことがありますよ。ということを知らせたかったのでしょう。その時から、そんなアフリカのことをもっと知りたいという気持ちが起こり、退職してからはアマニの活動にかかわるようになったというわけです。

 ケニヤにも行ってきましたが、知れば知るほどアフリカって・・・・・・・
という感じです。
 
 みなさんもそんなアフリカを感じてみませんか。一緒に活動しましょう。

 杉本